待ち合わせの駅を出るとぱらぱらと雨が降っていた。天気予報は晴れのはずだったからにわか雨だろう。傘なんて持ってきていなかった俺は近くの店の軒下に駆け込んで、濡れた髪を手で軽く押さえつけた。
「駅ついたよ。雨大丈夫?」と待ち合わせ相手にメッセージを送って、そのままそこで待つことにした。驚くくらい周りをよく見ているくせに自分のことには少し無頓着な人だから、この程度の雨なら全然気にしてないかも。
でも俺が雨に濡れないように、一緒にいる時は少しの雨でも傘をさしてくれるんだ。彼のさす傘の中でくっついて歩くのが好きだった。外ではいつも触れないような距離を保ってるけど、雨だから仕方ないって言い訳ができる。
相合傘をした時のことを思い出してにやけちゃいそうだったから、俺は両手で顔のマッサージをするフリでほっぺを隠して、違うことに意識を向けるために視線を遠くに向けた。
まばらに咲く傘が視界を遮る中で、まっすぐに俺の目に飛び込んでくる人がそこにいて俺は目を見開いた。
「……え」
通りのむこう、信号待ちをしている人たちの中に、彼がいた。雨に濡れることなく、可愛らしい小さな折り畳み傘を持ち、隣に立つ女の人とその傘を分け合って。
心臓がキュッと痛み、呼吸の仕方がわからなくなる。混乱していた脳みそは彼が女の人に笑いかけた途端機能を停止した。俺はその場にしゃがみ込み地面を見つめた。濡れたコンクリートから雨の匂いがする。
「浮奇? ……浮奇! どうした、体調が悪いのか?」
俺の名前を呼ぶ大好きな声にも顔を上げられずにいればすぐに足音が近づいてきて、彼の手が俺の肩に触れた。いつも通り優しいそれがものすごく嫌に感じて声を出せず首を左右に振った。どうしよう、どうすればいいのか、なにひとつ考えられない。とにかくここから、彼の前から逃げたかった。
「か、かえる」
「え? 体調が悪いなら送るから」
「あの、大丈夫ですか……?」
彼の声を遮ったのは女の人の高くて可愛らしい声。彼が振り返った気配を感じて俺はすぐに立ち上がって駅へ向かおうとした。
だけど、急に立ち上がったせいでクラッと立ちくらみ、足が地面を踏み損ねた。頭が真っ白になって世界が傾き出す。ぎゅっと目をつむったすぐ後、俺は温もりに包まれた。
バクバク鳴ってる心臓が自分のだけじゃないことに気がつき、ゆっくり顔を上げる。
「……ふー、ふーちゃ、ん」
「……はぁ……よかった……。大丈夫か? どこも怪我してない? ……顔色が悪いな」
さらりと優しく頬を撫でられて、あっという間に涙が溢れた。ふーふーちゃんはギョッとした顔をして俺を抱き寄せて「傘に入れていただきありがとうございました、もう大丈夫です」とおそらくさっきの女の人に向かってお礼を言った。背中と頭を抱かれているから少しも動けないままそれを聞き、ヒールの音が遠ざかっていってようやく呼吸を思い出す。
吸い込んだ空気はふーふーちゃんの優しい匂いをまとっていて体の中まで彼に撫でられたようだった。
「あ。……外で触ってしまって悪い。体調不良の人の介抱……というのは無理があるか……」
ううん、と、首を左右に振って彼の胸にくっついた。周りの視線を気にする余裕は今の俺にはない。
彼に触れて、触れられて、涙は勢いを失っていた。ふーふーちゃんが何も言わずに俺の頭を撫でてくれるおかげで心も落ち着きを取り戻してきた。
俺はそっと顔を上げてふーふーちゃんを見つめた。俺のことを見つめ返すふーふーちゃんの瞳を見れば、心配なことなんて何もなくなる。
「……ちょっと、びっくりして、勘違いしちゃっただけ。心配かけてごめんなさい」
「勘違い……?」
「傘、女の人と二人で入ってるんだもん……」
「え……あ、え、ご、誤解だ! たまたま駅まで同じだったから入れてもらっただけで」
「うん、そうだよね。ふーふーちゃんが浮気なんかする人じゃないって知ってるけど……混乱しちゃって」
「悪い、浮奇が見たらどう思うか考えて行動するべきだった。本当にごめん。さっきの人とは本屋で初めて会っただけだしお互い名前も知らない」
「……ん、わかった」
「浮奇」
「わかったから」
「わかってない」
ふーふーちゃんは俺の頬を両手で挟んでまっすぐに目を合わせた。またじわりと涙が滲んで、でも視線を逸らせずにふーふーちゃんのことをただ見つめる。ぼやけだす視界を瞬きでクリアにして、その代わりにふーふーちゃんの手を涙で濡らした。
「俺が好きなのは浮奇だよ。男でも女でも関係なくて、浮奇じゃないと意味がないんだ」
「……うん」
「不安な気持ちにさせて悪かった。……浮奇が信じてくれてるように、俺は絶対に浮気なんかしない。これからも信じていてくれ」
「……ん」
どうしようなくキスをしたい。ハグだけじゃ足りなかった。でもここは外で、冷静になれば今の距離の近さも怖いくらいだった。
思いを断ち切るように俺は顔を俯けてふーふーちゃんの胸に額を当てた。心臓はさっきとは違う意味でバクバクと騒がしく鳴っている。
「……今日の予定、変更にできるか」
「うん……?」
上から降ってきたふーふーちゃんの声に俯いたまま相槌を打つと、ふーふーちゃんは俺の耳元で「キスをしたい。家に連れて帰ってもいいか」と囁いた。同じことを考えていたんだって嬉しくて、俺は涙で濡れた頬を緩めて笑った。
ふーふーちゃんの手を掴んで一歩後ろへ下がる。顔を上げるとふーふーちゃんは優しく微笑みながら俺の頬を撫でて涙を拭ってくれた。
「つれてって。俺も二人きりになりたい」
「……了解」
濡れていない唇を親指でなぞって、ふーふーちゃんは俺から手を離した。俺も掴んでいた手を離して、友達みたいに笑いながらふーふーちゃんの肩を小突いた。
「お菓子食べながら映画見ようよ。夜ごはんは一緒になんか作ろ」
「いいな、そうしよう。あ、そうだ、これ」
ガサッと音を鳴らしてふーふーちゃんは持っていた袋を持ち上げた。そういえばさっきの女の人も同じ袋を持っていた気がする。中に入ってるのは、本、かな?
「浮奇がこの前おもしろそうってリンクを送ってきた本、見つけたから買ったんだ。先に読むか?」
「……わざわざ買ったの?」
「俺も読みたいと思ったんだよ。二人とも読むなら買ったって損じゃないだろ? それに、本を渡すためって口実でまた会う約束ができる」
「……口実なんていらないのに」
あれ、いつもなら少しの雨は気にしないキミが今日に限って傘に入れてもらっていたのは、もしかしてその本を雨に濡らさないため……?
紙の本が好きな人だし安いものではないからどの本だって同じだけ大事にしているだろう。それでも、いま彼の手の中にあるのは俺のための本だった。
抱きつきたい衝動を必死に堪えて、それでも我慢しきれずに俺は彼の服の裾をぎゅっと握った。うん?と笑いながら俺の行動を見つめるふーふーちゃんに下唇を噛んだまま一歩近づく。
「……浮奇、キスしたくなる」
「俺はもうしたい」
「……」
「我慢して、俺も我慢するから。でも、もうちょっとだけ近くにいさせて」
唇を突き出したいのを耐えているんだから褒めてほしいくらいだ。熱い視線でじっと見上げるとふーふーちゃんは苦しそうに顔を歪めた。
「はやく、帰ろう」
「ん……」
「……タクシーを使ってもいいか」
こくんと頷くと彼は俺の手を捕まえてすぐに歩き出した。あっという間にタクシーを止めて乗り込み、住所を告げる。
広い後部座席でくっついて座り手を繋いだままの男二人を運転手はどう思うだろう。いつもなら不安で落ち着かなくなるのに、ふーふーちゃんが当然のように手を握って、俺の考えを読んだみたいにとんとんと優しく繋いだ手で足を叩いてくれるから、俺は俺のままでいられた。
「ふーふーちゃんの家、甘いもの何かある?」
「この前浮奇が来た時にたくさん買って食べきれなかったお菓子が残ってる。おまえがいないと減らなくて困ってた」
「やった、じゃあ一緒に食べよ。夜ごはんになりそうなものは?」
「野菜は少し、肉は冷凍のものが何かしらあると思う。お酒は色々とあるよ」
「お酒はいつでもあるもんねぇ」
「切らしたことがないな」
「ふふ、ちゃんとごはんも食べてよ? じゃあまっすぐ帰っても大丈夫そうだね」
「ああ」
いつも通りのやり取りに安心して俺からも手を握り返すと、ふーふーちゃんはチラッと俺を見て口角を上げ、痛いくらいの力でギュウッと手を握ってきた。思わず吹き出して俯き俺も力いっぱい手を握ったけど、ねえ、キミの手に勝てるわけないでしょ。握り締めた手で彼の足を叩けば彼もプッと吹き出す。
俺たちは顔を逸らしてお互いそっぽを向いた。それでも触れたところからくすくすと震えが伝わってくるのが、とても楽しくて、愛しかった。