言葉がうまく紡げない時期が続いていた。打ち込んだ文字は中身のないからっぽな文章に思えて、書いては消してを繰り返す。一日中パソコンの前にいたのにたったの一行も完成せずに、夜になってパソコンの電源を落とす。インプットが足りないのだろうか。でも最近は暑くて散歩以外で出歩く気が起きず、毎日冷房をつけた部屋で本を読んだり映画を見たりして過ごしている。感動して心が熱くなるような感覚だって確かにあった。だけどいざ文章を書こうとすると、頭の中が真っ白になる。
インターホンが聞こえたのは夕方、執筆はしばらく時間を置こうかと憂鬱な気持ちで今まで書いたデータを整理していた時だった。日が長い夏はまだ外が明るく時間の感覚がブレる。時計を見て、配達業者が来る時間ではないことを確認してから玄関へ向かった。
「はい……って、は、浮奇……?」
「やっほふーふーちゃん。きちゃった」
「……俺は何か連絡を見逃していたか?」
「ううん、なんも連絡してないよ。上がってもいい?」
「……どうぞ」
玄関の扉の前に立っていたのは仕事仲間でもあり、誰よりも親しく、ちょっとした性的接触もする、確実にそうとは言えないけれどいわゆる恋人のような関係の浮奇ヴィオレタだった。家の中に入った浮奇は俺たちの声を聞きつけて来た愛犬と愛猫を一通り撫で回した後、玄関で突っ立ったままの俺を振り返りふわりと笑った。
「お腹空いてる? キッチン借りてもいい?」
「あ、ああ……どうぞ……」
「ありがと」
買い物をしてからここに来たらしい浮奇は食材が入っている買い物袋を持ってキッチンへ向かった。俺はいまだに現状を飲み込めず混乱したままその後を追い、浮奇に「座ってて」と言われキッチンと向かい合わせのリビングのカウンターチェアに腰掛けた。
「お仕事中じゃなかった? ドッゴのお散歩まだだよね? あとで一緒に行っていい?」
「……浮奇」
「ん?」
「……どうして」
「会いたかったから。それと、最近電話でちょっと元気なさそうだったから気になって。夏バテかな? 体調崩してる? って、思ったけど、体じゃなくて心の不調みたいだね。ごはんは食べられそう?」
「……、……浮奇の作ったもの、食べないわけないだろ」
「えへへ、だよね」
いつもはじょうずに可愛らしくわがままを言ってみせる浮奇が、本当は誰よりも人のことをよく見て気を遣えることを知っていた。いつも通りに話していたつもりだったけれど浮奇には気が付かれてしまったらしい。浮奇が俺のことをよく見てくれていることなんてわかっていたのに、誤魔化すこともできていなかったのかと愕然とする。そもそもそのことに今まで自分で気がついていなかった時点で、浮奇にバレるのなんて当然だ。
「ふーふーちゃんが俺に甘えてくれて嬉しいから一人で反省会しないでね」
「は……甘えるって……?」
「だって今の不調、他の人にはちゃんと隠してるでしょう。俺にだけ隠さないでくれたのって、俺に甘えてくれてるからじゃない?」
「……そう、なのか……? ……悪い」
「は? ねえ、だからさ、甘えてくれて嬉しいって言ってんの。……もっと甘えてよ、年上だからとか大人ぶんなくていいから、俺にはなんでも言って。一人で抱え込まないでほしい」
俺が世界中で一番好きなやわらかく甘い声が、俺にだけ向けられている。優しく包み込まれるような穏やかな感覚は久しぶりだった。そういえば、最近は塞ぎ込んでいて浮奇とゆっくり過ごす時間も取れていなかったか。心臓のとくとくという音が心地よく、俺は溜め込んでいたものを吐き出すようにふうっと息を吐いた。
「ありがとう、浮奇」
「……うん。……ちょっとだけ、ごはん、あとでいい?」
「うん? もちろん」
「ぎゅーってしたい……」
「……俺も、浮奇にぎゅーってしてほしい」
言ってから恥ずかしくなって顔を逸らしたけれど、最後に見えた浮奇の表情はとても嬉しそうな笑顔だったから、俺のすこしの羞恥心なんて丸めて捨ててしまおう。甘える、の正解がどんなものかわからないけれど、キッチンからパタパタと出て来て俺のことを抱きしめた浮奇の力強いハグからして、どうやら今ので合っていたらしい。
「だいすき」と囁いた浮奇の声で、一人でぐるぐると悩んで曇っていた心がパッと晴れる。ハグを返して「俺も愛してる」と声に出せば、自分で言ったというのに体の奥からエネルギーが湧くように熱が灯った。なんだ、これ。
「あぅ……ふーふーちゃん……本当はごはん作ってふーふーちゃんが元気なの確認したら帰ろうと思ってたんだけど……」
「え、泊まっていかないのか」
「泊まっていっていい……?」
「……いいに決まってる。服でもなんでも貸すから、一緒にいてくれ」
顔を上げて浮奇にキスをすると、離れる隙も与えずに浮奇が俺の唇を食んだ。浮奇に触れられるたびに干からびていた脳と体が潤い熱を上げる。熱くなった脳みそは熱暴走のように、浮奇のことをめいっぱい考えるだけじゃなく詰まっていた物語のその後をめちゃくちゃに流し出した。覚えておきたいそれらは止めることができず零れ落ちていくけれど、きっともう大丈夫だ。
足りなかったのはインプットでも想像力でもなくて、心を満たす愛だった。俺は勝手に思考の片隅で紡がれ続ける物語は放っておき目の前の浮奇にだけ意識を集中させた。
心の不調、おまえのおかげでもう治ったみたいだ。でもせっかく声だけじゃなく直接触れられる距離にいるから、もう他にどこも悪いところがないか、全部さわって確かめてくれ。