シネコン父水(1) 眩しく照りつけるスポットライトと鳴り止まない万雷の拍手から逃れるようにして、二人で俺の自宅アパートへ駆け込んで小一時間。
玄関の扉が閉まった瞬間、明かりをつける間も惜しんでキスが始まったが、お互いの商売道具を収めたケースをそっと床に置く理性は辛うじて残っていた。そこから先の記憶は既に曖昧なのに、既視感だけははっきりと覚えている。
「どうにも……ここぞという大舞台に立ったあとは気が昂ぶっていかんな」
俺のすぐ隣でシーツに沈んでいたゲゲ郎が俯せになって頭を掻く。男二人には狭すぎるシングルベッドは、下手に寝返りを打つとどちらかが相手を蹴落としそうだった。
「へえ、お前でもそんな風に思ったりするのか」
仰向けでぼんやりと天井を見上げていた俺は、首だけをゲゲ郎に向けてみた。枕元に灯した淡い光の中で、困ったような微笑みが返ってくる。
「お主と一緒だといいところを見せねばと演奏に気合が入るしのう。……また無理をさせてしまった、どこか痛めてはおらぬか」
「平気だ。お前、いつも心配しすぎなんだよ」
気遣いながら頬を撫でていくゲゲ郎の指が擽ったい。つい先ほどまで輝く舞台の上で観客の熱い視線を一身に集めていた男が、薄暗がりに身を潜めこうしてただ一人と静かに向き合っている光景は、なんだか現実味がなかった。
それは何も今この瞬間に限ったことではなく、ゲゲ郎と現在の関係になってからずっとそうだった。
今から約三〇年前、男は彗星のごとく表舞台に現れた。
年齢不詳、経歴も全くの謎。私生活もベールに包まれ、ときどき気紛れのように受けるインタビューから分かったのは、最愛の奥さんとは随分前に死に別れて、その忘れ形見の一人息子がいることくらい。
なんとも奇妙な響きの名前に浮世離れした佇まい、唯一無二の個性的なキャラクター(のちに演技などではなく素であったと分かって驚いた)も相まって、世間に見付かってから話題をさらうまで大した時間はかからなかった。初めは単なる物珍しさから集まった注目を、ゲゲ郎は見事にものにしてみせた。
栄誉あるコンクールに名を刻むでもなく、著名な楽団に属するでもなく、はたまた積極的に演奏を披露するでもなく、所謂王道からは外れた孤高のバイオリン弾きだったが、奴の奏でる調べはたちまち人々を魅了した。
かく言う俺もその一人だった。幼い頃にテレビから聞こえてきたバイオリンの音色に一瞬にして心奪われ、自分もあんな風に楽器を弾いてみたい、いつの日か一緒に演奏したいと、右も左も分からないまま憧れだけを胸に音楽の世界へ飛び込んだ。
それまで野原を駆け回ってばかりの絵に描いたような腕白坊主が、来る日も来る日も両親に頼み込んでようやく音楽教室に通うことを許された。体験授業を受けるまではゲゲ郎と同じバイオリンを習うことしか頭になかったのに、試しに触らせてもらったチェロにあっさりと鞍替えしてしまった。純真無垢な少年の目には、自分の背丈ほどもある巨大な楽器を自在に操る姿がどうしようもなくかっこよく映ったのだ。それに、バイオリンとチェロが並んだらとても絵になるに違いないとガキの俺は一丁前にそんなことまで考えていた。
飛び抜けて輝かしい音楽の才能はなかったが、両親にけして安くはない月謝を一〇年以上払い続けてもらうくらいには、好きなことに夢中になって打ち込める情熱はあった。ただ残念なことに大人になってからは不運が重なり、奨学金を受けながら通った音大を家庭の事情で中退せざるを得なくなったり、二〇代のときには事故に巻き込まれて大怪我を負ったりと苦労もした。
信心深い方ではないけれど、どうやら天は俺からチェロを取り上げたいらしい。そうはさせてたまるかと逆に火がつき、結局就職らしい就職もせずに今でもチェロにしがみついている。終身雇用が約束された昭和の世でもあるまいし、現代ではこういう生き方もありだと思う。一度三途の川を渡りかけた経験もあって、せっかく拾った命を無駄にするつもりはなかった。
この相棒を手放しさえしなければ、いつかきっとチャンスは巡ってくる。
周囲が呆れてしまうくらい根拠もない自信と希望に後押しされ、我武者羅に己の信じた道を突き進んでいたら、とうとうその日がやって来た。
数年振りにゲゲ郎のミニコンサートが開催されることになったのだ。しかも、俺が今住んでいる町で。ゲゲ郎が人前で演奏するのは不定期で、どう考えても自分の人気と会場のキャパが見合っていない規模のコンサートしか開いてくれないので、チケットは毎度激しい争奪戦になる。俺も生で聴けたのは片手で数えられるほどしかない。このときは正攻法はもちろんのこと、仮にも同じ業界の隅に籍を置く身として使えるものは使わねばと、思い当たる伝手に片っ端から頭を下げ、拝み倒してどうにかチケットを手に入れることができた。
収容人数の少ない狭い会場ではチケットが取れずに泣きを見るファンが大勢出てしまうが、争奪戦を勝ち抜けば夢のような世界が待っている。舞台との距離が、怖いくらいに近い。
俺が用意してもらった席はその中でもかなり前の方だった。近すぎて、座った瞬間から柄にもなく心臓がバクバクいっていた。このあと本人を前にしたら発作で死ぬかもしれない――と本気で心配している内に遂に幕が上がった。
舞台の中央に立つ、すらりとしたシルエット。ライトを浴びて輝く銀の髪。バイオリンを構える俯き加減の横顔。
ガキの頃テレビで見たゲゲ郎の姿そのままだった。あれから一体何年経つだろう、それなのに全く時を感じさせない。この男は本当に人であるのか、抗いがたい美しさに背筋が震える。初めの一音で暴れていた心臓は鷲掴みにされ、そのあとは息をするのも忘れていた。
演奏中、ずっと視線を伏せていたゲゲ郎がふいに客席の方を見た。瞬きまで忘れて食い入るようにゲゲ郎を見つめ、奏でられる旋律に聴き惚れていた俺と、目が合う。
アイドルのライブなり俳優の舞台なり、現場に足を運んだファンたちが皆口を揃えて言う台詞「自分と目が合った」。しかし今のは俺の思い込みなどではなく、絶対にそうだった。
時間にしてほんの数秒、実際にはコンマ一秒の出来事だったかもしれない。どこか寂しさの漂う、微かな笑みを孕んだ眼差しに見つめ返された瞬間は、俺には永遠にも感じられた。今わの際に走馬灯で見たい景色は、これ以外にないとすら思った。
終演後はほとんど放心状態で帰路に就き、家に帰るとすぐさまチェロを取り出した。ゲゲ郎の演奏を間近で全身に浴びた興奮をそのままに、一心不乱に弓を引く。早く、早く、あの隣に立ちたい。叶うことなら今すぐにでも。
一頻り弾き通して、汗だくになっても熱が冷める気配がなかった。普段は大して拘りがないけれど、今はもっと広いところで弾きたい気分だった。時計を確かめて、この時間なら駅裏の辺りが空いているかもしれないと急いでチェロをケースに収める。
中退した音大のお膝元、大小のコンサートホールや老舗の楽器店、生演奏が楽しめる飲食店などが立ち並ぶ、音楽を志す者に開かれた町は住心地がよかった。楽器演奏可の賃貸物件も数多く、学生の頃に見付けた破格のボロアパートに今でも世話になっている。古めかしい佇まいもここまでくると一周回ってレトロな趣があり、元は音大生向けというだけあって手狭ながらに防音設備は折り紙付きだった。アパートの住人は春を迎えるたびに入れ替わり、気が付けば俺が一番の古株になっていた。
身体がほとんど隠れるほどに大きく重たいチェロのケースを背負って自宅から徒歩一〇分、最寄駅の裏通りを目指す。個人が楽器の練習をするための音楽スタジオやレンタルルームがいくつもあるのもこの町のいいところだった。大抵が予約制だが、空きがあれば深夜でも場所を借りることができる。
夜も更けて人気も疎らになった飲食店街から一本入った路地の先、向こうから歩いてくる人影を目にした途端、俺の足はぴたりと動かなくなった。
舞台と客席よりもずっと近い、同じ道の上にあのゲゲ郎がいたら当然だろう。コンサートの打ち上げの帰りだろうか、バイオリンケースを肩に掛けたゲゲ郎は一人だった。
この音楽の町でゲゲ郎を知らない人間はきっといないと思うが、身の程を弁えない不躾なファンにはなりたくない。騒ぐ鼓動を気取られないよう、あくまで冷静を装って「もちろんあなたのことを知っていますが、プライベートな時間には踏み込みません」の体で爽やかに会釈をして通り過ぎるに留めねば。
地面に根が生えたようだった足をなんとか持ち上げて、細い路地の端をゆっくりと進む。間抜けなことに左右の手足が一緒に前に出そうなほど緊張していて、チェロケースのベルトをきつく握り締めることで誤魔化した。
今は目を合わせてはけない気がしてまともにゲゲ郎の顔が見られなかったが、向こうもこちらに気付いたようだった。道の反対側に寄ってくれた気配がして、今にも肩が触れそうな距離で擦れ違う。
一瞬だけ隣に並んだゲゲ郎は、俺なんかよりも頭半分は背が高かった。肩と腰の位置や脚の長さも全然違う。つい無意識で、纏う空気やそのオーラをそっと吸い込んでいた自分に我ながら引いた。やはり熱狂的なファン――もといオタク、信者は気持ちが悪いし手に負えない。
「……あのっ!」
この世で一番大馬鹿な俺は、振り返ってゲゲ郎の背中に声を掛けていた。その声に驚いたのは相手以上に俺自身だった。足を止めて振り向いたゲゲ郎の表情は、薄暗くてよく窺えない。
「あの、俺今日、あなたの演奏を聴かせてもらって――」
堰を切ったように喋り始めてから、何をどう伝えたらいいのか分からなくて頭の中がぐちゃぐちゃになった。
感激しました、あなたの音楽に惚れ込んで自分も楽器を始めました、ずっと憧れていました――月並みな台詞ではこの想いの半分も伝えられない。最悪だ。考えもなしに引き止めるからこんなことになる。
視線を逸してしどろもどろになっていると、すぐ近くで声がした。
「ああ、やはりそうか。舞台から見て左手の……前の方で聴いてくれておったじゃろう。よく見えていたぞ」
「えっ」
驚いて顔を上げればゲゲ郎が真正面に立っていて、俺の心臓は口から飛び出しそうになった。ゲゲ郎は二の句が継げずに狼狽える俺に嫌な顔ひとつせず、にこりと笑いかけてくれた。
ファンサービスが過ぎて目眩がする。間近で聞く生の声までめちゃくちゃいい。
「あんなに目を輝かせながら聴いてもらえると儂も嬉しい。ありがとうな」
「は、はぃ……っ」
「して、お主の背負うそれはチェロか? お主も音楽を?」
「あっ、はい! そうです! 今から練習に行くところで!」
始めた切っ掛けはあなたですとは流石に言えず、せめて運動部の高校生かというくらいに元気よく答える。あのゲゲ郎と一対一で会話できるなんて、もしかしてこれは夢なのか?
「そうかそうか。頑張れよ」
今日舞台の上で見た儚い微笑みとは違う、ぱっと花開くような無邪気な笑顔に、今度こそ俺は完全に頭をやられてしまった。
「あの! このあとお時間ありませんか!」
「おお、時間なら余っておるが……はて?」
「もしよければ俺と――一曲ご一緒してください!!」
「――ふっ、くく……」
「なぁーに笑ってんだよ」
「いやすまぬ……お主と初めて言葉を交わしたときのことをふと思い出して」
「なッ……、早く忘れろ!」
恥ずかしい思い出を引き摺り出されて、俺はゲゲ郎を肘で小突いた。ゲゲ郎は嫌じゃ嫌じゃと唇を尖らせてベッドに転がりながらふざけている。
「嬉しかったんじゃよ。水木から声を掛けてくれて」
「本当かよ……ファンとしてあるまじき行為だっただろ。プロに対して失礼にも程がある」
「構うものか。それに、お主は特別じゃ」
「特別ねえ……」
「水木、どうか儂から離れないでおくれ。お主がいないと儂は……」
ゲゲ郎はいつも躊躇いなくこういう言葉を口にするので照れくさい。ぎゅうと抱き寄せてくる身体はときどき、大きな迷子のようにも思えた。今までずっと一人でやってきた癖に、実のところはとんでもない寂しがり屋であったのだ。
俺とゲゲ郎が二人組として活動するようになってからまだ日が浅いことは周知の事実なのだが、俺たちのことを昔からの古い友人の組み合わせだと思っている人間が何故か少なくない。それくらい息がぴったりだということらしいけれど、知り合った時期もほとんど同じだと明かすと仰天される。
確かに、初めてゲゲ郎と音を合わせたときは俺自身も驚いた。
あのあと手近な音楽スタジオを借り、長年憧れ続けた存在を目の前にしてガチガチに緊張していたのに、演奏が始まるとそんなつまらない足枷はすぐさまどこかへ吹き飛んだ。本来あるべき姿を取り戻したかのように、何もかもがとにかくしっくりきた。俺がチェロを弾けるようになったのは、やはりこいつと演奏するためだったのだと確信が持てた。
譜面を追うごとにゲゲ郎のバイオリンと出会ったあの日の衝撃が鮮やかに蘇る。当時はまだガキだったから上手く言葉にできすにいた感情に、このときようやく名前が付いた。
すぐ隣に、遥か彼方に、優しく語りかけるような響き。美しくも切ない音色に感じていたのは懐かしさだ。まだ生まれてほんの数年しか生きていない癖に、俺はそんな途方もない懐かしさの虜になったのだ。
俺の音楽人生で、他のバイオリニストと合奏したことは何度かある。それなりに楽しかったし、達成感もあった。しかしゲゲ郎との二重奏はそのどれでもない、全く初めての体験だった。俺にチェロを教えてくれた恩師からはたびたび「お前の演奏は独り善がりすぎる」と苦言を呈されていたのだが、俺の演奏は元々大勢に届けるためではなくゲゲ郎一人の隣に立つことばかりを目指していたので、恩師はそれを見抜いていたのだ。
俺は今こんなに気持ちがいいけれどゲゲ郎の方はどうだろう。不安になって様子を窺えば、ゲゲ郎の方も全身で「楽しい!」と言いながら演奏してくれていたので、これまで積み重ねた時間が報われた気がして本当に嬉しかった。
時には這いつくばるようにして歩んできた長い道のりや思い出が次々に溢れてきてつい感極まってしまったのと、曲が終わってしまうのが寂しくて、目頭がどんどん熱くなる。いい歳をした男が情けないと、最後の一音の余韻が消えない内から弓を持った拳で目元を拭う。
正に夢のようなひとときたった。感謝の言葉を告げるつもりでゲゲ郎を見上げると、ふいに視界が暗くなった。火照った頬を打つ雫がゲゲ郎の涙だと理解するよりも早く、唇を塞がれて息が止まる。見開いたまま固まった俺の瞳と、ゆっくりと持ち上がったゲゲ郎の瞼に隠されていた赤い瞳が、ほとんどゼロ距離で交わった。
俺は咄嗟に弓を持ち替え、離れていこうとした胸倉を掴んで引き寄せた。歯がぶつかる硬い音と舌を絡ませる濡れた音、荒っぽい二人分の息遣いが四方の壁に吸い込まれていく。
「……っ、俺の家、ここのすぐ近く」
息継ぎをしながら、酸欠になりかけの頭で囁いた。くらくらする。でも離れたくない。
「――よいのか?」
「来て、……来てくれ」
「承知」
それはゲゲ郎も同じようで、切れ切れに言葉を紡ぐ間にもキスを止めようとはしなかった。
「――うわぁ……」
「なんじゃ、突然」
「あああ……お前が変なこと言うから、余計なことまで思い出しちまった……!」
初めての夜の記憶が蘇ってきた俺は、ゲゲ郎の腕の中で頭を抱えて丸まった。自分があんなに大胆で向こう見ずな行動に出るなんて、未だにちょっと信じられない。
ゲゲ郎を通した音楽以外のものに熱を上げた経験がなかったので、後先考えずに勢いだけで誰かを部屋を誘うことなど前代未聞だったのだ。おまけに男と寝られることも、ゲゲ郎に対して抱いていた想いが単なる憧れだけではなかったことも、あのとき初めて知った。
興奮冷めやらず知り合ったその日に夜を共にし、一夜の過ちなんかで終わらせたくなくて、朝を迎える前にデュオを組むことを決めた。どちらからともなく言い出して、トントン拍子で話はまとまった。交際ゼロ日で結婚したカップルかとよく揶揄われるが、実際に付き合っていることは伏せているもののあながち間違っていないのがまた恥ずかしい。
「終始必死で可愛かったのう、あの晩の水木は」
「……俺はずっと憧れてた奴が、実はファンを取って喰うクソ野郎だった可能性に気付いてちょっと怖くなった」
「ひ、人聞きの悪いことを言うでない。お主から誘ってきたんじゃぞ?」
「いや、断りもなく先にキスしてきたのはお前だろ」
「それはその、つい、な……? もしや水木は儂とこうなったことを後悔しておるのか?」
「そんな訳あるか。怒るぞ」
ゲゲ郎が俺の髪を梳きながら拗ねたように零す。くるくると毛先を弄ぶ手つきから、本心でないことは丸分かりだ。それでも一応否定してやる俺はこいつに弱い。相手に甘いのはお互い様か。
二人で舞台に立った日は、今日のように会場の熱気に浮かされたまま、帰宅してすぐベッドになだれ込むのがすっかりお決まりになっていた。以前の俺は、人脈を広げるために打ち上げには必ず顔を出していたので最近は付き合いが悪いと言われるけれど、クールダウンする術が他にないのだから仕方ない。
ゲゲ郎なんてどう少なく見積もっても俺より一回り以上は年上のはずなのに、いつまでも若さがあり余っているらしかった。今もまた、俺の頭を撫でていた掌が項の生え際に移動して際どいところを擽っている。
「のう、水木……やはりまだ足りぬ」
「……俺も」
「しかし今更じゃが、衣装が皺になってしまうのう。ああ、水木が見立ててくれたしゃつが……」
一度身体を起こしたゲゲ郎が着ている黒のシャツは、無惨にも皺くちゃになっていた。
衣装と呼ぶほど大したものではなく、手持ちの服からそれらしい組み合わせを選んだだけの格好だ。髪だっていつも自分たちで簡単にセットする程度。ゲゲ郎はこういったことにまるで関心がないため、これ幸いと専ら俺の趣味でやらせてもらっている。
今日は揃いのシャツとパンツスタイルで、ゆったりとしたシルエットのショート丈のシャツは長身のゲゲ郎によく似合っていた。
「どうせ洗濯するだろ」
「じゃが……」
「……脱ぐなって言ってる」
「ん?」
上から順にボタンを外そうとしていたゲゲ郎の手が俺の一言で止まった。ボソボソと口籠る俺を見て首を傾げたあと、にやりと笑う。
「ほう? いやぁすまん、そうじゃったか」
「何だよ」
「水木はそういう気分じゃったかあ、気付かずにすまんかった」
「腹立つな……」
顔を背けた俺の上にゲゲ郎が覆い被さってきてベッドが軋んだ。ゲゲ郎はほとんど崩れていた髪を再び耳に掛け、照れ隠しに寄せた俺の眉間に唇で触れる。
「今度は声を聞かせてくれるな?」
そう耳元で囁かれて肌が粟立つ。バイオリンを奏でるあの指先が、掌が、俺のこめかみから頬、顎から首筋を辿っていく。思わず引き結んだ唇を親指がなぞって、上下の歯の間を割った。声を我慢させないために、ゲゲ郎は平気で口に指を突っ込んでくるので怪我をさせてしまわないかと気が気じゃない。俺が意地を張らずにいればすむのだけれど、そう単純な話でもなかった。
「この部屋、外に音は漏れないのじゃろう。何を躊躇うことがある」
「そういう問題じゃあないんだよな……!」
理解に苦しむとこれ見よがしに溜め息をつくゲゲ郎に、俺はいつだって翻弄されていた。
*
「俺もゴーシュになりたかったんだよなあ」
眠りに落ちた鬼太郎に温かい布団を掛けてやりながら、水木は今し方読み聞かせをしていた絵本を再び開いた。
「ガキの頃、ゴーシュみたいなセロ弾きになりたかったのを思い出した。こうやって毎晩動物たちが訪ねてきたら面白そうだなって。今の今まですっかり忘れちまってた」
「今からでも目指せばよいではないか」
「そうだなぁ、老後の趣味にしてもいいかもな。それでお前の調子が悪くなったときは、この子鼠みたいにセロの中に放り込んで治してやるよ。その大きさなら入れるだろ」
「儂らは病気とは無縁なんじゃが」
「元の身体に戻ったら流石に無理かぁ」
「どう考えても無理じゃよ」
水木は何を想像したのか、くっくと喉の奥で笑っていた。
随分と懐かしい夢を見た。
自分たちにとってはまだまだこの間、人間にとっては遠い遠い記憶。どちらにせよ、懐かしく愛おしい思い出であることには変わりない。
――そうか、今の水木は夢を叶えることができたのじゃな。
今にも転がり落ちそうに狭苦しい寝台の上で身を寄せ合い、眠る水木の寝顔は記憶の中のものと同じだった。左の耳と目、肩に刻まれた傷痕もそっくりそのままだ。
今生では事故によって負った怪我だと聞いていたが、当の本人はそのお陰で音楽と生きていこうと腹を括って、こうしてお前に会えたんだから感謝すらしているとあっけらかんと笑っていた。相も変わらず、逞しくて強かな男だった。
あの村で出会った水木には本当に世話になった。目玉の姿では自由のきかなかった自分に代わり、赤ん坊の鬼太郎の面倒をよく見てくれた。きっと驚かせてしまうだろうからと陰から見守るつもりでいたところ、ひょんなことから共に子育てをすることになった。
一緒に過ごす内に水木は村での記憶を取り戻し、もがき苦しみながら何度でも立ち上がり、しっかりと前を向いて生きていた。そんな水木にとうの昔から惚れていたのだと、認めるまでにやや時間を要した。一大決心をして想いを告げてみたら、いつまで待たせる気だったんだと叱られた。
蓄えた妖力で肉体が再生してから水木と過ごした時間はけして長くはなかったが、愛する者を我が手に抱き締める喜びはこの上なく幸せなものだった。無論目玉のときにも目玉なりの幸せがあったけれど、やはりもう一度肉体を得てしまうと、与える愛も受け取る愛も小さな身体では到底物足りなく思えた。
幸せが過ぎた分、旅立つ魂をただ見送ることしかできないのは辛かった。いっそこの手で人間の理から外してやろうかと、一度も思わなかったと言えば嘘になる。勝手にそんなことをしたら間違いなく嫌われてしまうから、機会があるごとに誘ってはみたものの、水木は最期までうんと言ってくれなかった。それもまた、水木らしいといえば水木らしい。永遠の眠りに就く水木にまた会おうと約束はしたが、果たしてその声は届いていたのか。
次はこちらから探しにいってもよかったが、新しい生を受けた水木にはまた新しい生き方が待っている。ひとまずのところは、自ら進んで関わりにいくのは涙を呑んで我慢することにした。けれどももし、もし水木から見付け出してくれたのなら、伸ばされた手はけして離さないと決めていた。
探しにはいけないが、どうか見付けてほしい。水木の世界にほんの少しでいい、何か切っ掛けを作りたい。
諦めきれずに思いついたのが何らかの形で名を揚げる方法で、あり余る時間を腕を磨くことに費やしたのが功を奏し、一風変わったバイオリン弾きとして衆目を集めることができた。嘗て水木が夢見ていたのと同じセロ弾きを目指してもよかったのだが、そこは敢えて似て非なる楽器を選んだ。この世のどこかに生まれ落ちた命を想いながらバイオリンを弾き、いつか再会できる日を夢見ていた。
かくして水木は、見事に見付け出してくれたのだった。
「ん……ゲゲ郎……?」
視線を感じたせいか、眠っていた水木が目を覚ましてしまった。
過去に水木が付けた名を、そのまま芸名として使ったのは少々狡い手段だったかもしれない。この名はきっと、名付け親と再び巡り会うのに一役買っていた。
「眠れないのか?」
寝起きの低い声がやや舌足らずに聞こえる。噛み殺しきれなかった大欠伸に、整った童顔がくしゃりと歪んだ。
「たまたま目が覚めてしまっただけじゃよ、心配要らぬ」
「……嘘つけ。怖い夢でも見たんだろ、泣いてるぞ」
温かい指が眦に触れて確かに濡れた感触があった。知らず、涙が滲んでいたようだった。
「分かった。さては夢の中でも練習さぼって、また俺に怒鳴られてたな」
「はは、違うわ」
揶揄う水木につられ、笑い声が零れる。
怖くはない。悲しくもない。幸せだった。ただそれだけ。
「いい夢だったんじゃよ、懐かしくてな」
「泣けるくらいに?」
「ああ、そうじゃ」
「夢から覚めたのが残念だって?」
「いいや、それは違う」
どこか不満げな眼差しを向ける水木を抱き締め直し、首を振った。
今の水木には前世の記憶がない。あの日々を思い出しても思い出さなくても、水木は水木だ。
「夢から覚めても幸せで、思わず泣けてしまったんじゃ」