続き封神とは奇妙な体験であった、と黄飛虎は思う
される直前までは、自分の命はここまでという覚悟と諦念が確かにあったのだ。ところがいざ封神されてみると肉体があり、感触があり、熱も痛みも匂いも感じ、魂魄体とはおおよそ人であった時とは大差が無い体であった。
死の覚悟を否定されたようにも感じ最初は少し混乱した飛虎であったが、やがて新しい体も悪くねぇと、彼なりの解釈で受け入れられるようになった。
封神された者達は駅と呼ばれる浮島でしばらく過ごした後、神界へと居住を移した。
聞仲と飛虎は近接する銘々の邸に住んでいた。お互いに行き来していたものの、生前から統治の中心に在った二人である。結局、新たなる世界の構築に於いてもいかんなく能力を発揮するところとなり多忙な毎日を送っていたのだった。
その日、聞仲は珍しく邸に居た。屋敷は湖畔にあり白壁に黒瓦、家屋の一部が水面に張り出した水榭様の作りになっており、周囲の柳と湖の蓮と相まって質素ながら趣深い空気を纏っていた。
昼だというのに薄暗い。書斎から外を眺めると空は明るいが雲が厚く、いつ降り出してもおかしくなさそうな天気だった。
ここは人工の世界だというのに、昼夜があり天気や季節まで微細に変化する…良く出来ているものだ…
書類の整理をしながら聞仲はそんな事に感心していた。
卓に置いた茶を飲もうとした時、入口の方から声がした。
「おい、居るか?邪魔するぜ!」
こちらの返事も聞かずに上がってくる。いつもの事だ。
ドスドスと大股の足音と共に現れたのはいつもの飛虎だが、いささか様子がおかしい。まず服装だ。普段の服よりかしこまった黒の長衣を着ている。そして手には麻布で包まれた小さな包みを大事そうに持っていた。
「何か…あったか?」
心当たりが無く問うてみた。
「別に。何もねぇが今日は家に居ると教主から聞いたからよ」
そう答えて飛虎は置いてあった茶碗を無造作にあおった。
「おい!勝手に飲むな。自分の茶碗を出せ」
「固い事言うなよ。歩いて来たから喉乾いてんだ」
悪びれもせずに飲み干した。
一息つくと飛虎は聞仲の方を真っ直ぐに向いた。真剣な目だ
「……どうかしたか、様子が変だぞ?」
どうにも違和感をぬぐえず重ねて問うた。
「なんだ…結局家でも仕事してたのか。お前、変わらねぇなぁ…」
部屋に散らばった書類を一瞥して呆れ顔で言う。
「仕事ではない。単なる整理だ。最近、家に居る暇も無かったからな。お前も同じだろう」
「ああ。もたもたしてるとまた忙殺されそうだなと思ってさ。だから今日にした」
「だから…何なのだ?さっきから要領を得ないぞ」
「本当はもっと前に言うつもりだったんだ。まさかここでもこんなにコキ使われると思ってなかったんだよ」
口調は笑っているが表情は至極真剣なままで飛虎は続ける。
聞仲は持っていた巻物を棚に戻し椅子に座った。飛虎も手に持っていた包みを卓に置いた。そして頬を搔きながら何か考え込んでいるのか少しウロウロして窓際に寄った。要件をはっきり言え!と言おうとした瞬間、飛虎が口を開いた。
「聞仲、お前に結婚を申し込む。それを言いに来た」
いきなりの事に言葉を失っているうちに飛虎の口上は続いた。
「本当は初めっから一緒に暮らそうって言おうと思ってたんだ。でもまぁ、こうなる前に俺らは色々あっただろ?オメーの様子見て許してくれてるんだろうとは思ってたけど、結局別々の所に住む事になっちまったし。あーつまり言うタイミングを逃してたんだよ。でも俺たちの今の状況って付き合ってるのと変わら」
「分かった」
朗々とした声が遮った
「お前が唐突なのは知った事だ。申し出を受ける。断る理由も無いからな。だが私からも話がある」
今度は飛虎が言葉を失う番だった。拍子抜けしていると聞仲はサッと立って
奥の間へ行ってしまった。
しばらくすると、何やら箱を持って戻ってきた。
飛虎の前に立つと真剣そのものの真っ直ぐな目で言い放った。
「飛虎、今日がその日とお前が決めたのなら私からもお前に結婚を申し込むことにする。これは誓いの品だ。受け取れ」
ぽかーーんと口を開けている飛虎を少し眺めて聞仲は続けて言った。
「何を驚いているのだ…同じ事を考えていたって不思議じゃないだろう」
「いや…その…嬉しくてさ、死ぬんじゃねぇかと思った」
「我々はもう死んでいる」
「そうだけど!そうじゃねーよ!!」
飛虎は顔を赤くして喚いた。あーあ!と大きく溜息を一つついて聞仲の手の箱を指さした。
「俺もとっておきのを持って来たのに、先越されちまったなぁ…何なんだ?見せてくれよ」
「ああ…早く開けてみろ」
黒い塗りの細長い箱を開けると収められていたのは帯であった。
海老色に染められた鰐の革に金細工の虎の留め金が付いていた。一目で最高の素材と意匠によるものだと分かる品であった。
「すごいな…鰐革か…こんな貴重な物、どうやって…」
手に取って感嘆する男を満足そうに眺めながら聞仲は答えた。
「少し前に教主の依頼で数日間、人間界に介入した。現在の王朝に関する事で私が適任だったのだ。その時たまたま西国の大商隊が王都に滞在していたから、そこの頭領から買い求めたのだ」
「買ったって…人間の姿で?」
「ほんの少しの間な。数刻、人間の姿になるくらい問題ないだろう」
封神された者は神に封じられたため、人間にその姿は見えない。人間界で人間のように振る舞うには顕現の術を使わなくてはならず、しかもその使用は厳しく制限されていた。
「そりゃ苦労かけたな。素晴らしい物だ。有り難く頂くぜ…」
もう一度帯をじっくりと見て丁寧に箱に戻してから、飛虎は持ってきた包みを聞仲に渡した。
「さぁ、俺のも見てくれよ。きっと気に入る」
「分かった、急かすな。」
飛虎の熱意に笑いながら包みを解く。似たような黒い塗りの小箱が出て来た。男の顔をチラと見ると早く!というように目配せしてきた。
箱を開けると絹地を敷いた上にかんざしが一つあった。聞仲の顔に小さく驚きの色が広がる。
「麒麟…か……」
感じ入った様子でため息混じりに、ごく静かに呟いた。そっ…と手に取ると指を滑らせる。
「目は…珊瑚か…綺麗な赤色だ…」
聞仲はかんざしを見つめて押し黙った。
「麒麟……好きだろ?」
送り主がそっと問いかける。
聞仲の顔がほころぶ。それは如来か菩薩を想起させる慈愛の表情であった。
「ああ…好きだ」
小さくうなづく。
乳を混ぜたような薄緑の翡翠を丁寧に彫刻した上に精緻な金細工が施され、麒麟の目には血色の珊瑚が嵌められていた。
「これは…わざわざ作らせた物か?こんな意匠の作品は、探してもそうそう無いだろう」
「あーー……うん。お見通しだな。そうなんだ、作らせた物だ。義兄弟達に頼んでな。腕の良い職人につてがあるんだ…」
「義兄弟達に何て説明した」
クスクスと声を立てて笑っている。
照れ隠しかバリバリと頭を掻きながら飛虎は投げやりに答える。
「何もねーよ!アイツら大体の事知ってるしな。何がアニキ!上手く行くといーな!だ。上手く行くに決まってらぁ!」
色々な物が噴出している男を放置して、聞仲はまた奥の間へ行ってしまった。
勝手に茶をおかわりしていると、今度は紐を持って戻って来た。
「ちょうど良いのがあったな。後ろ向けよ。結ってやるよ」
昔からこういう細かい所で妙な器用さを発揮する男であった。白金の髪をさっと結わくと括った根本にかんざしを刺した。
「いいな。すごくいい。似合ってる。たまに使ってくれ」
振り向くと満足気な男の顔があった。釣られて笑みがこぼれる。どちらからともなく体が寄ってしっかりと抱きしめ合った。
「求婚のつもりが…結納になっちまったな…」
ぼそりと呟くと抱きしめた肩が軽く揺れた。笑いながら聞仲が答える。
「ああ…そうだな…そのとおりだ」
「いいか?こんな簡単で」
「十分だろう。お互いにこれだけの品を用意して…十分過ぎる」
いつの間にか外は雨が降り出していた。室内が一段と暗くなった。
自然と、触れ合った体温と雨音に意識が行く。激しくなる雨音は二人に辛く哀しい記憶を思い出させた。聞仲は男の肩口に顔を埋めて無意識なのか、しがみつくように手に力が入っていた。
「聞仲…もう…過ぎた事だ。何もかも…終わったんだ…」
事実を淡々と見つめる口調であった。そして暖かく大きな掌で何度も腕の中の男の背中をなぜた。触れ合った体の暖かさが、冷たい雨の記憶を溶かし塗り替えて行くような気がした。この体になっても温度を感じる事が出来て良かったと、心から聞仲は思った。
「よく降るなぁ…どんどん強くなる」
「どうせやまぬさ…泊まっていけばいい」
窓の外をうんざり眺めていた飛虎は、少し驚いて聞仲を見た。
「なんだよ。積極的だな」
「別に、大雨だから泊まれと言ってるだけだろう!」
慌てて言い返しても説得力が無い。白い顔が耳まで赤い。
飛虎はニコニコ満面の笑みで、長身で案外重たい聞仲をひょいと抱き上げると、浴びせかけられる文句も耳に入らないのか鼻歌交じりで奥の間へ運んで行ってしまった。