『ただいま』 ルチアーノが部屋を訪ねて来たときは、すぐに分かる。部屋の中を光の粒子が包み込んで、時空が歪む感覚がするのだ。光が消えると、そこにはルチアーノが佇んでいる。
「来てやったぜ。一人で寂しがったりしてなかったかい?」
からかうように言って、彼はにやりと笑みを浮かべる。
「寂しくはなかったけど、会いたかったよ」
僕が答えると、彼は嬉しそうに笑って、僕の隣に座るのだ。
「さて、今日は何をして過ごそうか」
僕とルチアーノが半同棲生活を送るようになって、ひと月と少しが経った。既に、ルチアーノが家にいることが当たり前になっているし、彼にとっても、ここは第二の家のような感覚になっているようだった。
でも、僕にはひとつだけ引っ掛かっていることがある。それは、とても些細なことで、だけど、僕にとっては大きなことだった。
ルチアーノは、僕の家に上がった時に、『ただいま』と言ってくれないのだ。僕が帰ってきた時にも、『おかえり』とは言ってくれない。たったそれだけのことだけど、この家を帰る場所だと思ってくれていないのかと、少し寂しくなってしまう。
僕は、ルチアーノにもここを自分の家のように思ってほしい。帰ってきて『ただいま』と言ってほしいのだ。
それは、ただの独占欲かもしれないけど、細やかな僕の願いだった。
「子供に心を開いてもらう方法かい?」
僕の質問を繰り返すと、マーサは思案顔を見せた。
僕はマーサハウスに来ていた。マーサはたくさんの子供たちの母親だ。子供と打ち解けるためのコツなら、彼女の専門だと思ったのだ。
ちなみに、相談しているのはルチアーノのことである。マーサには、ルチアーノが孤児であると伝えていた。
「心を許してくれるきっかけなんて、人それぞれだからね……。一言では言えないよ」
「そっか……」
僕は呟く。やっぱり、簡単に家族になろうなんて、甘い考えなんだろう。
「自分から声をかけたりはしてるのかい?」
しばらく考えたあとに、思い出したようにマーサは尋ねた。
「自分から、声をかけるって?」
僕が尋ねると、彼女は微笑みを浮かべて言う。
「その子が帰ってきた時に、『おかえり』って言ってあげるんだよ。自分が帰ったときにも、『ただいま』って。そうすれば、いつかは答えてくれるよ」
「確かに、そうだね」
マーサにお礼を言って、その場を去る。早く、ルチアーノに会いたかった。
家に帰ると、ルチアーノがソファに座っていた。もう、日常の一部になってしまった光景だ。
ルチアーノは、人の家に上がることに抵抗が無い。恋人関係になる前も、勝手に家に上がり込んでは僕を叩き起こしていた。だから、これは信頼の証と言うよりも、所有物としての扱いなのだろう。
「ただいま」
僕が声をかけると、ルチアーノはくるりとこちらを振り向いた。不機嫌そうな声で言う。
「ずいぶん遅いじゃないか。何してたんだよ」
「ごめんね。途中で知り合いに会ったから、話をしてたんだ」
「それって、シグナーじゃないだろうな」
詮索するような声だった。気持ちがあることを知って、少しだけ嬉しくなってしまう。
「違うよ」
シグナーたちの育ての親に当たる存在だから、全く関係がないわけではないんだけど、それとこれとは別だ。
「なら、いいけど」
僕の否定を聞いて、ルチアーノは機嫌を直してくれた。疑わない程度には、僕のことを信頼してくれているらしい。
でも、『おかえり』は言ってもらえなかった。
それから数日して、今度は、ルチアーノが僕の部屋を訪れた。時空の歪む気配を感じて、視線を向けると、ルチアーノが嬉しそうに笑っている。
「おかえり、ルチアーノ」
僕が声をかけると、ルチアーノは怪訝そうな顔をした。奇妙なものを見るような目で僕を見る。
「おかえりって、ここは君の家じゃないか」
「僕の家だけど、今はルチアーノの家でもあるでしょう? 一緒に暮らしてるんだから」
ルチアーノは怪訝そうに首を傾げる。どうやら、一緒に暮らしてるという認識がないみたいだった。
「泊まりに来てるだけじゃないか。もしかして、一緒に暮らしてるつもりだったのかい?」
「そうだよ」
答えると、ルチアーノはケラケラと笑った。面白そうに言う。
「君って、変なやつだよな。僕と同棲したいなんてさ」
「僕は、ルチアーノとこの家で一緒に暮らしたいんだよ。だから、僕がかける言葉は『おかえり』なんだ」
僕の思いが、どこまで彼に伝わっているのかは分からない。それでも、僕は彼に家族になってほしかったのだ。
それからも、僕はルチアーノに言葉をかけ続けた。繰り返される『ただいま』と『おかえり』を、彼は戸惑ったり照れたり怒ったりしながらも、否定せずに受け入れてくれた。それどころか、少しずつ照れが勝ってきているようである。僕の言葉に対して、もごもごと口を動かすこともあった。
後は、彼の気持ち次第だ。ルチアーノの心が溶けるまで、僕はゆっくりと待ち続けた。
その日は、思っていたよりも早く訪れた。いつものように、家でカードの整理をしていると、ルチアーノが家に上がってきた。眩い光と共に、時空を切り裂いて姿を現す。
「おかえり」
振り向いて声をかけると、彼は恥ずかしそうにこちらを向いた。何かを言おうとして口ごもり、すぐに視線を反らす。その横顔は、ほんのりと赤く染まっていた。
「ただいま……」
彼の口から、小さな声が漏れた。それは、微かな響きだったけど、確かに僕の耳に届いた。
僕はルチアーノを見つめた。視線は合わない。それでも、彼が今どんな気持ちでいるのかは、はっきりと分かった。
「おかえり、ルチアーノ」
もう一度言うと、席を立ってルチアーノを抱き締める。
「離せよ! そんな大したことじゃないだろ!」
腕の中で、ルチアーノはじたばたと暴れる。なんとか抜け出すと、怒ったようにソファに腰をかけた。
「そうだけど、嬉しかったから」
僕が言うと、不満そうに鼻を鳴らす。そんな態度を、かわいいと思ってしまう。
『おかえり』と言って、『ただいま』の声が返ってくる。それは、日常の中では当たり前のことだけど、僕たちにとっては、大きな変化だった。