こどもの日 ルチアーノは不貞腐れていた。理由は明白だ。クローゼットの上には兜飾りが置かれ、机の上にはちまきと柏餅が置かれている。庭に漂っているのは、カラフルな鯉のぼりだ。
五月五日、端午の節句と呼ばれるこの日は、いわゆるこどもの日である。子供の成長を祝い、幸せを祈る、日本の伝統行事である。
「なんだよ、これ」
ルチアーノは不満そうに口を開く、それは、机の上のものを指しているのだろう。
「ちまきと柏餅だよ。今日は端午の節句だからね」
「そんなことくらい見れば分かるよ。なんでこんなものを用意したのかって聞いてるんだ」
不機嫌そうに鼻を鳴らしながら、彼は僕を睨み付ける。その姿は、幼い子供そのものだ。
「こどもの日だからだよ。季節の伝統行事は、ちゃんと楽しみたいでしょ」
僕は、伝統行事が好きだ。伝統行事には、先祖代々から伝わる日本人の心が残っている。伝統文化を知ることは、先祖の思いを知ることにもなるのだ。
でも、ルチアーノはあまり乗り気ではないようだった。『こどもの日』という名前が嫌なのだろう。彼は、子供扱いされることが何よりも嫌いなのだから。
「僕は子供じゃないよ。見た目は子供かもしれないけど、君よりも長い時間を生きてるんだ。祝いはしても、祝われる筋合いはないね」
拗ねたような声でルチアーノは言う。今日は、かなりの長期戦になりそうだ。覚悟は決めていたが、実際に対峙すると、身体に力が入ってしまう。
「そんなこと言わないでよ。一緒に食べよう」
僕はちまきを手に取った。包んでいた葉っぱを剥がして、用意したお皿の上に乗せる。餅米はまだ温かくて、ほかほかと湯気を立てていた。
「要らないよ。子供扱いされたくないね」
彼はつんとした態度で突っぱねる。お皿を押し返され、仕方なく僕一人で食べることになった。
ちまきを食べると、今度は柏餅に手を伸ばす。葉っぱをめくると、甘いお餅を頬張った。
「おいしいよ。ここに置いておくから、気が向いたら食べてね」
声をかけると、ルチアーノは黙ってそっぽを向いた。子供扱いされたのが相当嫌だったのだろう。機嫌を損ねたまま、直してはくれないらしい。
僕は途方にくれるしかなかった。ルチアーノとこどもの日を祝いたいけれど、彼は子供として祝われるのを拒絶する。今回の伝統行事は、諦めるしかなさそうだった。
「小さい頃は、よくこうやって祝ってもらってたんだ。ちまきを食べて、柏餅を食べて、菖蒲湯に入る。端午の節句は男の子の日だからね、盛大に祝ってもらったんだ」
話題に困って、ついつい思い出話をしてしまう。両親は伝統行事を大切にするタイプで、特に成長を祝う行事が好きだったのだ。
「飾ってある鯉のぼりも兜飾りも、両親が買ってくれたものなんだ。元気に大きくなってほしいって願ってくれてたんだね」
僕の話を聞くと、ルチアーノは少しだけ寂しそうな顔をした。兜飾りを眺めると、寂しそうな声で言う。
「君はいいよな。祝ってくれる両親がいてさ」
しまった、と思った。ルチアーノには、親という存在がいない。いるのは神だけで、神は彼を眷属としてしか扱わないのだ。彼にとって、これは地雷のような話題だったのだろう。
彼は、自分でも分からなくなっているのだろう。自分の抱える感情が何なのかを掴めずにいるのだ。子供扱いはされたくないが、子供として親に祝福される僕を羨ましく思っている。その感情の複雑さが、彼にこんな態度を取らせるのだろう。
僕には、何をしてあげることもできない。親というものは唯一無二の存在で、僕では代わりになることができないのだ。
「僕は、ルチアーノのことを祝いたいよ。ルチアーノは嫌かもしれないけど、生まれてきてくれたことを祝いたいし、幸せを願いたいんだ」
ルチアーノは静かに下を向いた。まだ、感情の整理がついていないようだ。視線を揺らしながら、小さな声で呟く。
「僕は、幸せになんてなれないよ」
珍しく、弱気な言葉だった。素を見せてくれるようになったことに、嬉しさを感じてしまう。少なくとも、弱味を見せられるくらいには、僕のことを信頼してくれているのだ。
「そんなことない。僕が幸せにするよ」
本気の気持ちで答えるが、ルチアーノは受け止めてくれなかった。俯いたまま、冷たい声で言う。
「嘘ばっかり」
今日の彼は、いつもより手強いみたいだった。たくさん拗ねて、心の弱さをさらけ出してくれる。子供のように振る舞ってくれることを、嬉しいと感じてしまう僕がいた。
「嘘じゃないよ。僕は、ルチアーノを愛してる」
そう言うと、彼は恥ずかしそうに頬を染めた。席を立つと、一瞬だけ僕を見る。
「気持ち悪いこと言ってんじゃねーぞ」
捨てゼリフを吐くと、部屋から出ていってしまう。ここまでは想定内だ。律儀な彼のことだから、きっと夜までには帰ってくるだろう。
予想通り、日が暮れる頃になると、ルチアーノは家へと帰ってきた。気まずそうに席に着いて、机の上の料理を見る。
今日の夕食はちらし寿司だった。ひな祭りの料理だけど、普通のお寿司よりもお祝いに相応しいと思ったのだ。
「これ、君が作ったのかよ」
気まずそうな声で、ルチアーノが尋ねる。
「そうだよ。ルチアーノに楽しんでもらいたくて、買ってきたんだ」
「君って、本当に変なやつだよな」
呆れたように言って、箸を手に取った。ちらし寿司を取り分けると、黙ったままつつき始める。
食べ終わる頃には、ルチアーノの機嫌は直っていた。嬉しそうにお刺身を頬張り、デザートの葡萄に手を伸ばす。
「菖蒲も用意してあるから、一緒にお風呂に入ろうね」
僕が言うと、彼は少しだけ嫌そうな顔をした。じっとりとした目でこちらを見て、身体を庇うように腕を回す。
「そんなこと言って、いやらしいことをするつもりだろ」
ルチアーノは、僕のことをなんだと思っているのだろう。少し心外だった。
「そんなことしないよ!」
慌てて否定するが、余計に怪しまれてしまった。にやにやと笑いながら、からかうように言葉を続ける。
「図星だな。変態」
「違うのに……」
なんだか誤解されているが、機嫌を直してくれたみたいだから、まあよしとしよう。実際にいやらしいことをする時もあるのだから、弁解のしようはない。
必要以上に触らないという約束で、一緒にお風呂に入ることになった。菖蒲の葉を浮かべた湯船の中に、二人で身体を押し込む。
「菖蒲の葉は、『勝負』や『尚武』と同じ響きだから、こどもの日に使われるようになったんだって。僕たちにぴったりだと思わない?」
菖蒲の葉を撫でながら、僕は由来を説明した。日本の伝統には、言葉遊びのようなものが多い。昔の人たちは言葉遊びを文化のひとつとしていて、願掛けや験担ぎをしていたのだ。
「この期に及んで願掛けかよ。そんな不確かなことで、勝ち負けなんか決まらないだろ」
「そんなことないよ。人間の実力は、気持ちの持ちようで変わるんだから。願掛けをしたことが心の支えになって、いつもよりも力を出せるかもしれないからね」
「人間って、本当に変な生き物だよな」
呆れたように言って、ルチアーノは菖蒲の葉に手を伸ばした。小さな手で葉を握ると、剣のように構えた。
「菖蒲、か……」
小さな声で呟きながら、葉の表面を撫でる。見慣れない植物に、興味を持っているのかもしれない。
「こどもの日は、子供の成長を祝うだけの行事じゃないんだよ。一族の繁栄を願う、重要な行事なんだ」
菖蒲の葉は、湯船の中でゆらゆらと揺れている。葉の形は剣のようで、ルチアーノによく似合った。ルチアーノの小さい手が愛おしくて、思わず手のひらを重ねてしまう。
「触らないって約束だろ」
不満そうにルチアーノが言う。見上げる顔は、頬が上気していて、妙に艶かしかった。抱き締めたくなる衝動を、なんとか抑え込む。
「これくらいはいいでしょ」
僕は、本当にルチアーノが好きなのだ。大人びた態度も、子供らしい態度も、その全てを愛している。健やかな成長と、将来の幸せを願うくらいには、彼のことを大切に思っているのだ。
「じゃあ、お風呂を上がってからなら触ってもいい?」
尋ねると、ルチアーノは恥ずかしそうに俯いた。頬を赤く染めて、小さな声で答える。
「…………好きにしろよ」
ベッドの上だと、ルチアーノは妙にしおらしい。温かい布団に包まれると、彼の凍りついた心は、少しだけ溶けてくれる。それは、僕しか見ることができない、恋人の愛すべき一面だった。
僕は、ルチアーノを愛している。彼が健やかに幸せに成長してほしいと願ってしまうくらいに。叶わないと分かっていても、そう思わずにはいられなかった。