レインコート その2 目を覚ますと、外から雨音が聞こえてきた。ベッドから抜け出して、窓の外を見る。大雨とは言えないが、傘を差さずに歩ける量ではない雨が、ポツポツと大地に水滴を落としていた。
ついに、雨が降った。ルチアーノにレインコートを贈ってから、初めての雨だ。じめじめした空気も、雨特有の妙な暑さも、今日だけは気にならなかった。雨が降ったら、ルチアーノにレインコートを着てもらえるのだから。
ルチアーノの来訪は、昼過ぎになった。気候が気に入らないのか、不機嫌そうに表情を歪めている。準備万端の僕と、部屋に吊り下げられたレインコートを見て、不快そうに眉をしかめた。
「珍しいじゃないか。君が外出の用意を終えているなんて。そんなに僕にレインコートを着せたかったのかい?」
ルチアーノは問い詰めるように言う。返答に困る質問だった。彼の指摘は図星だ。だけど、そのまま答えたら、彼は絶対に怒るのだ。
「そういうわけじゃないけど、雨の日に出掛けることなんてそんなにないから、ちょっと楽しみだったんだ」
誤魔化すように言うと、彼はなんとも言えない表情を見せた。じっとりした視線で僕を見て、冷めた声で言う。
「そんなこと言って、本当は着せたいだけなんだろ。誤魔化そうとしても、目が泳いでるぜ」
そこまで言われたら。もう誤魔化せなかった。観念して本心を伝えることにする。
「そうだよ。僕は、ルチアーノにレインコートを着てほしかったんだ」
僕の言葉を聞くと、彼は満足そうな顔をした。僕に詰め寄ると、からかうように笑いながら言葉を続ける。
「どうせバレるんだから、最初から白状すればいいんだよ。わざわざ怒らせるようなことをするなんて、君って本当に変なやつだよな」
彼はそう言うが、素直に伝えても怒るときは怒るのだ。難しい要求だった。
「ルチアーノだって、いつも本当のことを隠すでしょ。お互い様だよ」
「それ、いつのことだよ。君の妄想じゃないのかい?」
今まさに隠しているのだけど、そんなことは言えなかった。彼は、本心を伝えることが苦手なのだ。スキンシップをする時だって、素直に甘えられなくて本心と正反対のことを言ってしまう。彼と関わるうちに、僕は彼の本心を読めるようになったのだ。
「妄想じゃないよ。とりあえず、支度もできてることだし出掛けようよ。レインコートの着方も教えてあげるから」
話を切り上げるように、本題に軌道修正した。これ以上深入りされたら、余計なことを口走ってしまいそうだ。
彼は面倒臭そうにため息をついた。吊り下げられたレインコートに視線を向けると、少し嫌そうな声色で言う。
「そこまで言うなら、聞いてやるよ。その代わり、僕の条件を聞いてもらうからな」
「いいよ。こっちもお願いを聞かないと、フェアじゃないもんね」
ルチアーノの頼みなら、普段から聞いている。たまにびっくりすることを言われることはあるが、大抵は大したことないものばかりなのだ。今回もそうだろうと思って、二つ返事で答えてしまった。
でも、その選択は間違いだったのだ。ここで頼み事の詳細を聞かなかったことを、僕は一日中後悔することになるのだった。
それから十分ほどがたった頃、僕はシティ繁華街を歩いていた。隣には、レインコートに身を包んだルチアーノの姿がある。透けないタイプの白いレインコートは、膝下まである裾がふわりと広がっていて、てるてる坊主のようなシルエットになっている。赤い髪とのコントラストがかわいかった。
耳元では、ポツポツと雨の音が響いている。雨が身体を叩きつける感触が、布地越しに感じられる。湿気の籠った服の中はじめじめとしていて、少し歩いただけでも汗が滲んでくる。
僕は、レインコートを着せられていた。ルチアーノとお揃いの、真っ白なロングコートである。足元を飾るのは、これもルチアーノとお揃いの青い長靴だ。
丈の長いレインコートは、歩く度にがさがさと音を立てる。ゴム製の長靴も、タイルを踏む度にきゅっきゅっと奇妙な音を鳴らしていた。通りすがりの大人たちが、ちらりと僕の様子を見た。
レインコートを着るのは、いつぶりなのだろうか。もしかしたら、小学生以来なのかもしれない。大人になると、レインコートを着る機会なんてほとんどないのだ。大人は雨の中を遊んだりしないし、服が濡れるような歩き方はしないのだ。
町を行く大人たちは、みんな傘を差していた。カラフルな傘の間で、僕たちの白いレインコートは、少しだけ浮いている。通りすがりの町人に見られる度に、恥ずかしさで顔が赤くなった。
ルチアーノからこのレインコートを渡されたとき、変な声を出してしまった。彼の抱えた袋には、前ボタンで留めるタイプの真っ白なレインコートと、脛の辺りまである青い長靴が入っていたのだ。それは大人サイズではあるが、デザインは僕が彼に贈ったものとほとんど同じだったのだ。
ルチアーノの求めた条件は、レインコートを着ることだった。『片方だけレインコートを着ているのは不自然だから君も着るべきだ』。そう言われたら、僕は断る口実など思い付かなかった。レインコートに拒否感を感じているのは、彼も同じはずだからだ。
ルチアーノは、上機嫌で町の中を歩いている。僕の手を握りしめて、嬉しそうに町の中を引摺り回すのだ。僕の恥ずかしがる様子を楽しんでいるのは確実だった。
「このレインコート、ルチアーノが買ってきたの?」
小声で尋ねると、彼は嬉しそうに笑い声を上げた。フードの隙間から僕を見上げて、誇らしげな声で言う。
「そうだよ。わざわざお揃いにしてやったんだ。喜んでくれたかい?」
「それは、嬉しいけど……」
僕は返事に詰まってしまう。確かに、ルチアーノとお揃いを着られるのは嬉しい。でも、このレインコートは子供が着ることを考えて選んだものだ。大人が町を歩くには、あまりにも子供っぽすぎた。
「なんだよ。僕の好意が気に入らないのかい? わがままなやつだな」
にやにやと笑いながら、ルチアーノは言葉を続ける。完全にからかいの態度だった。
「そうじゃないよ。ただ、ちょっと恥ずかしいだけで」
僕は言う。こうなったら、隠しても意味はない。素直に白状するしかなかった。
ルチアーノがきひひと笑い声を上げる。子供のようにあどけない、それでも、悪意を潜ませた声だった。いつもの、何かを企むときの声色だ。
「つまり、君は人に恥ずかしい格好をさせようとしてたわけだ。羞恥プレイを強要するなんて、変態なのかい?」
「そんなんじゃないよ……!」
「だったら、なんなんだよ。こんなの、羞恥プレイ以外のなんでもないだろ」
そう言われたら、僕は何も言い返せない。ルチアーノの恥ずかしがる様子を見たかったのは本心なのだから。
「それは…………ごめん」
謝ると、彼は嬉しそうに笑った。にやにやしながら僕の手を引いて、繁華街の角を曲がる。
「認めるのかよ。なら、僕にも君を恥ずかしがらせる権利があるよな。今日は、一日付き合ってもらうよ」
ルチアーノは囁く。いつの間にか、完全に彼の手のひらの上に乗せられてしまっていた。観念して辱しめを受けるしかないようだ。
「あんまり、変なところには行かないでね。恥ずかしいから」
「そっか。じゃあ、不動遊星にでも会いに行くかい?」
「絶対にやめて!」
僕が必死に抵抗すると、ルチアーノはきひひと笑った。楽しそうに顔を歪めて、ケラケラと笑う。
「冗談だよ。まさか、本気にしたのかい?」
息を切らして笑いながら、ルチアーノは言う。その言葉を聞いていると、不安にしかならなかった。
もし、この格好で知り合いに会ったら、彼らはどんな顔をするのだろう。呆れるのだろうか。それとも、驚くのだろうか。恥ずかしがったりされたら、こっちもいたたまれない。
そんなことを考えて、僕は誰とも出会わないことを祈ったのだった。