浮気「君に、お願いがあるんだ」
その夜、ルチアーノは唐突にそう言った。
僕は身構えてしまった。彼の言う『お願い』は、日に日に過激さを増している。今回も、恐ろしいことではないのかと思ったのだ。
「どんなこと?」
尋ねる声が強ばってしまった。僕の反応を見て、ルチアーノが笑い声を上げる。
「そんなに身構えるなよ。大したことじゃないんだからさ」
どうやら、任務に関することではないらしい。胸を撫で下ろして、彼の言葉を待つ。
「これからしばらく、外で僕に会いに来るのはやめてほしいんだ。通りで見かけても、他人の振りをしていてくれ。分かったかい」
予想外の言葉だった。要するに、任務の邪魔をするなということらしい。僕にとっては、少し寂しいお願いだった。
「いいけど、夜は会いに来てくれるよね」
尋ねると、彼は嬉しそうに笑った。からかうような声色で、即座に言葉を返す。
「当たり前だろ。君は、僕に会えないとすぐに寂しがるよな。子供みたいだぜ」
「ルチアーノのことが好きなんだから、当たり前でしょ。じゃあ、ルチアーノは寂しくないの?」
「僕は、寂しくなんてならないぜ。少し物足りないとは思うけどさ」
それは、寂しいってことなんじゃないだろうか。素直じゃない言葉に、思わず微笑んでしまう。
「何にやにやしてんだよ。気持ち悪いな」
冷たい声が飛んできて、笑みを引っ込めた。ルチアーノ曰く、こういう時の僕は不審者に見えるらしいのだ。
「嬉しいなって思っただけだよ。ルチアーノが僕と一緒にいることを喜んでくれて」
答えると、彼は一瞬だけ頬を染めた。すぐに表情を戻すと、突き放すように言う。
「とにかく、明日からは外では会わないからな。忘れるなよ」
「分かってるよ」
会話を終えると、彼はリビングを出ていった。それが照れ隠しであることは、確かめなくても分かった。
翌朝目を覚ましたときには、既にルチアーノの姿はなかった。日は高く登っていて、部屋には朝の日差しが差し込んでいる。起こしてくれなかったことを恨みながらも、重い身体を引きずって布団から出た。
洗面所に向かい、顔を洗って身だしなみを整える。髪に手を伸ばして、普段よりも長くなっていることに気付いた。ここのところ忙しくて、散髪を怠っていたのだ。
このままでは、ルチアーノにコモンドールと言われてしまう。権力を握る役職に就いていたからか、彼は妙に身だしなみに厳しいのだ。
幸いなことに、今日は何も予定が無かった。ルチアーノも任務に向かっているから、急に呼び出されることもない。自分の用事を済ませるには、いい機会だと思った。
服を着替えると、鞄を持って家から出る。外はカラリと晴れていて、いい天気だ。軽い足取りで繁華街へと向かう。
散髪を済ませると、気分がすっきりとした。まだ、時刻は正午を回った頃だ。このまま帰るにはもったいない気がした。
そういえば、友達との約束が中途半端になっていた。少し前にネオドミノシティに引っ越してきた中学校の同級生が、家に遊びに来るように誘ってくれたのだ。その日は用事があって行けなかったが、今なら空いている。訪ねてもいいか聞いてみることにした。
電話をかけると、彼は快く了承してくれた。繁華街で手土産を買って、送られた地図の場所へと向かう。そこは、シティ郊外のマンションだった。
チャイムを鳴らすと、彼はすぐに応対してくれた。オートロックの玄関を通って、目的の部屋へと向かう。僕はマンションに住んだことがないから、なんだか新鮮だった。
彼の部屋の玄関に辿り着くと、もう一度チャイムを鳴らす。モニターを確認する気配がした後、彼が扉を開いた。
「よく来たな。ほら、上がれよ」
にこやかに笑いながら、彼は僕を室内へと誘導する。靴を揃えて上がり込むと、買ったばかりの手土産を渡した。
「急にごめんね。これ、お土産」
紙袋を受け取ると、彼は驚いた顔をした。中を覗きこんで、さらに驚いた顔をする。
「わざわざ買ってきたのかよ。気にしなくて良かったのに」
「急にお願いしちゃったから、悪いと思って。良かったら食べて」
「じゃあ、有りがたくもらっとくぜ。お茶くらいなら出せるし、今から食べるか」
そう言うと、彼は右の部屋へと向かった。僕は黙ってその後に続く。案内された部屋は、シンプルな家具の並んだリビングだった。
「そこに座って待ってて」
彼が示したのは、中央に置かれたソファだった。長いソファがひとつだけ設置され、前には小さなテーブルが置かれている。反対側には、テレビ台が置かれていた。
「いいの? 座る場所、無くならない?」
「俺は床でいいから、座れよ」
そこまで言われたら、断れなかった。ソファに座り、彼が戻ってくるのを待つ。
「ほら。ただの麦茶だけど」
ことんと音を立てて、グラスが机の上に置かれる。まとわりついた水滴が、中身の冷たさを教えてくれた。
「ありがとう」
彼は、ごそごそと音を立ててお菓子の包み紙を開いた。中から出てきたものを見て、驚いたように目を見開く。
「これ、デパートで売ってるやつじゃないか?」
「そうだよ。僕のおすすめなんだ」
食べるように勧めると、彼はさっそく中身を頬張った。せっかくだから、僕もひとつもらうことにする。お菓子を食べて一息つくと、彼は口を開いた。
「そういえば、今日はあの子は一緒じゃないんだな」
「あの子って?」
何も心当たりがなくて、質問を返してしまう。彼は声を潜めると、窺うように言う。
「あの子だよ。ナタリアちゃんだっけ?」
思わず、口の中のものを吹き出しそうになってしまった。まさか、彼がルチアーノのことを覚えていたとは。いや、あんな出会い方をしたら当然かもしれない。
僕は、口の中のものを飲み込むと、大きく深呼吸をした。平静を装うと、何事もないといった様子で答える。
「今日は、別行動なんだよ。用事があるんだって」
「そうか。あんなにべったりだったのにな」
「いくら一緒に居たくても、用事がある時は仕方ないからね。そういう日もあるんだよ」
ルチアーノのことのように言っているが、これは僕自身のことだった。できれば、ルチアーノとはあまり離れていたくない。時間には限りがあるのだから、一分一秒を一緒に過ごしたかったのだ。
僕の話を聞くと、彼は含み笑いをした。秘密の話をするように身を乗り出して、耳元で囁く。
「案外、愛想を尽かして浮気してるかもしれないぞ。お前って、鈍いところがあるからさ」
またもや、吹き出してしまいそうになった。ルチアーノが浮気なんて、考えたこともない。彼は、僕に負けず劣らず抱えている気持ちが強いのだ。
「そんなことないって。昨日も、僕に大好きって言ってくれたんだから」
「分かんないだろ。あの年頃の女の子はませてるから、手応えがなかったら移り気するかもしれないぜ」
「あり得ないよ。ちゃんと気持ちには答えてあげてるんだから」
彼は知らないが、僕たちは体の関係を持っている恋人同士だ。気移りなんてあり得ない。
「お前がそこまで言うなら、大丈夫なのかもな。なあ、せっかくだからデュエルでもしようぜ」
これ以上話が膨らまないことを察したのか、彼はようやく話題を変えた。デッキと取り出すと、机の上に並べる。ずいぶん久しぶりの、デュエルディスクを使わないデュエルだった。
目の前のデッキに触れながらも、僕は考えていた。今まで、僕はルチアーノが浮気をする可能性なんて一度も考えなかったのだ。彼は僕のことを好きみたいだし、僕も彼のことを愛している。ここに、心変わりの余地なんてないと思っていたのだ。
遊んでいるうちに、すっかり夕方になっていた。友達の家を出ると、ゆっくり家へと向かう。
ルチアーノは、既に帰ってきていた。僕の姿を見ると、にやりと笑って声をかける。
「おかえり。思ったより遅かったんだな」
「ただいま。ルチアーノこそ、意外と早かったんだね」
「早く用事が済んだからな。今からでも、遊びに付き合ってやれるぜ」
ルチアーノは楽しそうに言う。その様子は、いつもと何も変わらなかった。浮気なんてしてそうにない。
でも、僕の心はざわめいていた。何もないと分かっているのに、ルチアーノの様子を観察してしまうのだ。何か違和感がないかと、仕草の一つ一つに目を光らせてしまう。
「なんだよ。視線が気持ち悪いぜ」
ルチアーノに言われて、慌てて目を逸らした。僕が疑心暗鬼になっていたら、ルチアーノに疑われてしまうかもしれない。ルチアーノは僕はルチアーノの恋人なのだ。僕が信じなくてどうするのだろう。
翌朝も、ルチアーノは朝早くに家を出ていった。起きて見送ってあげたかったけど、僕は物音を聞きながら二度寝してしまった。僕には、早起きというものは合わないのだ。
二度寝から覚めた時には、外はすっかり明るくなっていた。そろそろと布団から抜け出し、洗面所へと向かう。
今日は、どこへ行こうか。そう考えて、忘れていた手続きがあったことを思い出した。届いていた通知を引っ張り出し、期限を確認する。恐ろしいことに、一ヶ月を切っていた。
これは、急いで片付けなくては。鞄を手にすると、家を飛び出した。
手続きの場所は、治安維持局の近くだった。平日の昼だからか、待ち時間は長くない。手早く用事を済ませると、建物の外に出た。
思ったより早く終わってしまった。まだ、帰るには早すぎるだろう。せっかくだから、繁華街を見ていくことにした。
大通りを抜け、デパートの並ぶ通りへと向かう。ルチアーノにプレゼントを買おうかと思ったのだ。大通りをぼんやりと眺めながら、目当てのビルへと向かう。
そこで、見慣れた人影を見つけた。
最初は、気のせいかと思った。でも、その後ろ姿はどう見ても本人だ。赤い髪を左で三つ編みにして、アカデミアの男子制服を纏った少年なんて、僕の知り合いには一人しかいない。間違えようがなかった。
ルチアーノは、隣に女の子を連れていた。クラシカルなワンピースに身を包んだ、いかにもトップス育ちという雰囲気の少女だ。彼は女の子を誘導すると、優しい笑顔で話しかけていた。
僕は、二日前のルチアーノの言葉を思い出していた。確かに、今の彼は完全に取り込み中で、話しかける隙もない。できることは、呆然と二人の後ろ姿を見つめることだけだった。
ルチアーノが少女に声をかけた。少女が笑顔で答える。そのまま、二人はデパートの並ぶ通りを歩いていった。
それ以上は追いかけられなかった。ルチアーノには知らん振りをするように言われていたし、これ以上追いかけてもいい思いをしないと分かっていたからだ。僕の瞳には、少女に笑いかけるルチアーノの姿がしっかりと焼き付いていた。
どうして、ルチアーノは知らんぷりをするように言ったのだろう。それは、あの少女と一緒にいるところを見られたくなかったからなのだろうかと、何となく思った。
デパートには寄らなかった。
ルチアーノの姿を見たら、そういう気分ではなくなってしまったのだ。僕は重い足取りで家へと向かい、ソファに身体を沈めた。
思い出していたのは、昨日友達が言った一言だった。ルチアーノが浮気しているかもしれないと、確かに彼は言った。そんなこと考えたくもなかったが、一度気になってしまえば、全てが怪しく思えてしまう。
ルチアーノの帰りは、思っていたよりも早かった。なんとなく気まずい気持ちになって、目を合わせられなかった。そんな僕を気にしていないのか、彼はいつもと変わらない態度で言う。
「ただいま。君のために、早く帰ってきてやったぜ」
「お帰り……」
弱々しい声が出てしまって、自分でもびっくりした。ルチアーノが怪訝そうな声を出す。
「なんだよ、元気ないな。せっかく早帰りしてやったんだ。もっと喜べよ」
「ごめんね。ちょっと、考え事してたんだ」
そう言うと、彼は口を閉じた。二人の間に気まずい空気が流れる。ルチアーノは外見を変化させると、僕の隣に座った。どちらも口を聞かないまま、しばらくの時間が流れる。
「考え事っていうのは、昼間のことかい?」
不意に、ルチアーノが口を開いた。
僕は、心臓が凍りつくかと思った。まさか、気づかれていたなんて。思わず顔を上げてしまった。
そんな僕を見て、ルチアーノはにやりと笑う。全てを見透かしたような声色で、堂々とこう言い放った。
「なぜって顔をしてるね。忘れたのかい。君が持っているチョーカーには、発振器が埋め込まれているんだよ」
そこで、ようやく僕は思い出した。ルチアーノからもらったチョーカーには、GPSが付けられているのだ。僕がどこにいるのかも、彼にはバレバレだったのだ。
「君は、僕たちを見てたみたいじゃないか。何か気になることでもあったのかい?」
ルチアーノは僕を問い詰める。僕は、いたずらがバレた子供のような気分になっていた。冷や汗が背中を流れ、心臓がドクドクと鳴る。
僕には、聞きたいことがあったのだ。あの女の子が誰だったのか、聞くなら今しかない。意を決して、僕はその言葉を口にした。
「ねぇ、あの子は誰だったの? ルチアーノが一緒にいた女の子」
尋ねると、彼はあっけらかんとした顔で言った。
「ああ、あの子かい? 彼女は、政治家の娘だよ」
「政治家の娘?」
「そうさ。昨日から、有名な政治家がネオドミノシティに来てるんだ。そいつは娘を連れてきててさ、治安維持局関係者の僕が町案内を任されたのさ」
彼の言葉を聞いて、僕は、ぽかんと口を開けてしまった。彼の言葉の意味を理解するまでに、時間を要してしまったのだ。数分かけて内容を咀嚼すると、大きく息をついた。
「良かった……!」
身体の力が抜けて、ソファにぐたりとへたりこむ。ルチアーノが呆れ顔で僕を見た。
「どうしたんだよ。そんなぐったりして」
「心配だったんだよ。ルチアーノが浮気してるんじゃないかと思って……」
「浮気? なんでそうなるんだよ」
「だって…………」
僕がここ二日の敬意を話すと、ルチアーノはケラケラと笑い始めた。大きく息を吸うと、苦しそうな声で言う。
「なんでそうなるんだよ。僕が浮気なんてするわけ無いだろ」
「だって、怪しかったんだよ。知らん振りをしてほしいなんて言うし、友達には浮気を指摘されるし」
弁明すると、彼は笑みを引っ込めた。凄むような態度を見せると、威圧するように言う。
「君は、僕が嘘を吐いて女と密会するようなやつだと思ったのかい? 人間の癖に、生意気だな」
「それは……」
そうだ。僕は、ルチアーノを疑ってしまったのだ。彼の言葉と置かれている状況を見て、密会じゃないかと思ってしまったのだ。僕だけは、彼を信じなくてはいけないのに、流されるままに疑ってしまった。こんなんじゃ、恋人失格だった。
「それは、悪かったと思う。ごめんね」
謝ると、彼はにやりと笑った。からかうような口調で顔を近づける。美しくて深い緑の瞳が、真っ直ぐに僕を見据えた。
「君って、ほんと単純だよな。他人の口車に乗せられて、浮気を疑うなんてさ」
「ごめんね」
「まあ、そういう単純さは嫌いじゃないぜ。操りやすくて助かるからな」
きひひと笑うと、ルチアーノは顔を離した。ソファから立ち上がると、僕に背を向ける。
「安心しなよ。僕は、君以外とは関係を持たないから」
頭上から、小さな声が降り注ぐ。顔を上げたときには、既に彼はソファから離れていた。