『いただきます』 リビングに入ると、手に下げていたレジ袋を下ろした。中身のトレイを取り出して、机の上に並べる。今日のメニューは唐揚げ弁当だ。唐揚げの詰まった惣菜のトレイと、白米の詰まったパックを並べると、両方の蓋を開けた。割り箸を取り出すと、両手を合わせて声を上げる。
「いただきます」
割り箸を割ると、一番大きな唐揚げをつまみ上げた。白米の上に乗せると、大きな口を開けてかぶり付く。カリカリとした皮が剥がれて、肉汁が口の中に溢れた。
白米のパックを手に取ると、口の中に掻き込んだ。白米と唐揚げの相性は抜群だ。美味しさの黄金比に、幸せな気持ちが溢れた。
視線を感じて顔を上げると、ルチアーノが僕を見ていた。ソファに腰を掛け、背もたれに手をかけてこちらを振り返っている。
ルチアーノは呆れたような顔をしていた。唐揚げを頬張る僕を見ると、呆れ声で口を開く。
「君って、いつも幸せそうにものを食べるよな。そんなに食べるのが好きなのかよ」
僕は口の中のものを飲み込んだ。コップを手に取ると、お茶で口の中を整える。
「食べることは好きだよ。美味しいものを食べると幸せな気持ちになれるし、食事は生命の源だからね」
答えると、再び唐揚げに手を伸ばす。大きな口を開けてかぶり付くと、すぐに白米を掻き込んだ。
「栄養が取れるなら、何を食べても同じだろ。人間って変だよな」
隣からは、ルチアーノの呆れた声が飛んでくる。彼は食事を必要としないから、ものを食べる幸せが分からないのだろう。無理に分かってもらいたいとも思わなかった。
僕は黙って食事を続けた。次から次へと唐揚げを頬張り、トレイの中を空にしていく。あっという間に、弁当は空っぽになった。
割り箸を置くと、僕は両手を合わせた。空になった箱を見ながら、感謝の気持ちを込めて言葉を告げる。
「ごちそうさまでした」
トレイを重ねると、キッチンへと向かった。洗剤をつけたスポンジで軽く洗うと、お湯で油を落としていく。トレイをシンクの隅に立て掛けていると、ルチアーノと目が合った。
「どうしたの?」
僕は尋ねた。彼の視線が、疑問を孕んでいるように見えたのだ。問いかけを投げると、彼は不思議そうに言葉を発した。
「君は、いつも『いただきます』とか言うだろ。あれはなんなんだよ」
予想外の質問に、言葉を失ってしまった。日本に住んでいて、こんなことを聞かれるとは思わなかったのだ。食前食後の挨拶は、この国では義務教育レベルの常識である。少し面食らいながらも、僕は返事をした。
「これは、食前食後の挨拶だよ。食べ物と作ってくれた人たちに感謝を伝えるために、お礼の言葉を口にするんだ」
答えると、ルチアーノは不満そうな顔をした。ふすんと鼻を鳴らすと、刺のある声で言う。
「君は、僕を馬鹿にしてるのかい? それくらい常識だろ。教わらなくても分かるよ」
どうやら、質問の意図が違ったらしい。会話を思い返すが、思い当たる節はなかった。
「なら、何が不思議なの?食べ物に感謝をするのは普通の事でしょ?」
聞き返すと、ルチアーノは眉を動かした。理解できないと言った様子で、疑問の本質を突きつけてくる。
「君は、一人の時にも挨拶をするのかい? 誰もいないのに独り言を言うなんて、ただの変なやつだろ」
その言葉を聞いて、僕はようやく納得した。彼は、僕の行動が理解できなかったのだ。彼らアンドロイドにとっては、僕の食事の挨拶は非合理的なものにしか見えないのだろう。
「変な人じゃないよ。心の中で考えていることは、口に出さないと伝わらないんだ。感謝の言葉を口に出すことで、食事を取れる幸せを感じてるんだよ」
彼は、あまり納得していないようだった。眉を歪めたまま、冷めた目で僕を見ている。
「誰も見てないんだから、口に出さなくてもいいだろ? 言葉にすれば、作った人に伝わるとでも言うのかい?」
僕は唸ってしまった。彼の言うことは、間違っている。しかし、僕にはそう告げるだけの言葉が見つからなかったのだ。少しの間考え込んで、ようやく答えを見つけた。
「神様が見てるよ」
僕が呟くと、ルチアーノが顔を上げた。彼の瞳を真っ直ぐに見つめながら、はっきりと言葉を口にした。
「神様が見てるんだよ。僕たちが感謝の気持ちを言葉にしたら、神様が見ていてくれる。感謝を言葉にしていれば、神様が良き心の持ち主だと認めてくれるよ」
ルチアーノは、はっとしたような顔をした。世界がひっくり返ったかのような、驚きの表情だった。表情を固定したまま、譫言のように呟く。
「神様が、見てる……?」
そこで、ようやく僕も思い出した。ルチアーノの主人である存在は、彼らに神と呼ばれていたのだ。彼にとって、神とはこの世の全てに等しい存在だ。気を悪くしたかもしれなかった。
「神様って言っても、日本の民間信仰の神様だけどね。日本には、八百万の神がいるから」
僕は言う。ルチアーノは気を取り直したのか、表情を戻した。空の容器をちらりと見ると、呟くように言う。
「そうか、神が見てるのか」
それだけ言うと、前を向いてソファに沈みこんだ。テレビのリモコンに手を伸ばすと、電波を飛ばして電源を入れる。
彼が納得してくれたのかは分からなかった。僕は神様という言葉を持ち出したのだ。あまり嬉しくはなかったのかもしれない。嫌な気持ちにさせたのではないかと、少しだけ反省する。
感謝を言葉にすることは、心の清らかさを示すことにもなる。感謝とは、他人との繋がりをありがたく思う気持ちそのものなのだ。いつか、ルチアーノにもそれが伝わったらいいと、僕は思うのだった。