あの日の太陽高校3年目も半ば、委員会の仕事を終えて渡り廊下を歩いていると校庭の隅に紫陽花が見えた。
雨に打たれ花弁から支えきれなくなった雫が落ちていくのを見ていると、腹の底がズンと重くなったような感覚に襲われる。
おそらくこの紫陽花が、ここ数週間の憂鬱の原因である男の目と同じ色だからだろう。
名の通り太陽のような男だった。
まだ肌寒さの残っていたあの春の日、たっぷりとしたまつげに光を反射させながら真夏の太陽のように俺を狂わせた。
しかし最近、その太陽が消えたのだ。
毎日バカみたいに笑って…実際バカだが…とにかく楽しそうにしていたのに、突然学校を休みがちになり、久しぶりに登校しても生傷だらけの身体を引きずって、今日の空模様のような顔で笑うようになった奴を思い出しては気分が悪くなる。
奴にも色々あるのだろうが、3年弱の付き合いだ。おかしくなった理由と関係なくてもいい、そんな顔みせるなら泣き言や愚痴の一つでもこぼさんかバカめ。
勝手だとはわかっていても俺やカメ谷にさえなにも言わないのには正直腹が立つ。
…何もできない自分にも。
「…貴様がそんなではライバルとして困るのだ…っあ、」
濡れた階段を降りながら本音が口からこぼれ落ち、同時に足場を失った。
「(あ、落ち…)」
しくじった。あいつで頭がいっぱいだからだ。
スローモーションの中でももはや思考でさえない思いは止まらない。
襲いくるであろう衝撃に身構えると、生ぬるい何かに包まれた。
「っと、あぶね…あれ、半田じゃん」
タイミングを測ったかのように現れたのは、
頭の中に巣食う男だった。
「珍しいな、階段踏み外すほどボーっとするなんて。委員会忙しいとか?ちゃんと休めよ。」
先程まで思い悩んでいたことがバカらしくなるほどの馬鹿面で、そっくりそのまま返してやるぞ!と言いたくなるようなセリフを並べている悩みのタネゴリラことロナルドは、階段を踏み外した(お前のせいだバカめ!)俺を抱き止めると踊り場へと追いやってきた。
「貴様に言われんでも自己管理は完璧だバカめ」
なんとかいつもの調子を保とうと気合いを入れてみるが、同じくいつもの調子を取り繕おうとする目の前のバカに色々言ってやりたくて仕方がなくなる。
…なのに、色々言ってやりたいはずなのに、重圧を隠しきれていない萎れたひまわりのような表情のロナルドを前にした途端何も言えなくなってしまった。
長い沈黙が訪れた。
これまでロナルドと居てこんなに長く静かなことがなかったからか、やけに緊張する。
湿度とは逆に乾いた喉が張り付く。
知らない、知らなくて怖い表情から目を背けたくて視線をロナルドの右手へと向けた。
包帯、絆創膏、数針縫った跡、人差し指と親指の間と人差し指の第一関節あたりの皮膚が擦れ、痛々しくめくれている。
表情から逃げた意味はなかった。もう俺が知っているロナルドはいない。コイツの頭から爪の先までどこを見てもその現実が…
「(そうか、これが現実か。もう俺が入る余地はないのかもしれない。しかし)」
しかしだ、俺だって変わったのだ。
図々しくてバカでネギで小さいイモムシのコイツにあてられたあの日から。俺もバカになったのだ。頭の中のロナルドにどんなに悩まされようと、現実のロナルドに会えばバカで図々しくなってしまうのだ。貴様のそんな顔は見たくない。
「ロナルド、右手を出せ」
「えっ?あ、コレ?擦り傷だから大丈…」
「いいから出せ」
剣道、手芸と手のケアは大事なので、万が一火傷などした時、適切な処置を施せるように持ち歩いているワセリンを取り出す。
「…傷、少し触るぞ」
「ん。」
手に触れた瞬間ロナルドが恥ずかしいときのダサいスカした態度になったのを愉快に思いながら、手に取り少し温めたワセリンを、傷だらけの大きな手に丁寧に塗り込んでいく。
傷を中心にささくれ立った指の先や手の皺をなぞるように、貴様がどんなに逃げても逃がしてやらんのだという気持ちを込めて。
塗り込みながらロナルドの表情を確認してみるが、伏せたまつ毛が影を落として読み取れない。
ワセリンを塗り終わり、傷に絆創膏を貼ってやる。
「本当はラップを巻くと良いのだが、生憎持ち合わせていなくてな」
「ラップ持ち合わせてることなんてないだろ…はは、ほんとおまえは…そういう変に律儀なトコ…変わんない…」
何が面白かったのだろうかロナルドが笑う。
ウハハ、お前にはその馬鹿面がお似合いだ。
しかしすぐにその笑みは失われて、代わりにいつもの”知らない”とは別の”知らない顔”が現れた。
両腕を掴まれ壁に押し付けらると知らない顔が近づいてきた。
涼しげな青と真逆の熱を持つ瞳は呼吸を忘れるほど綺麗だ。
次の瞬間それは消えて、唇に冷たいものが当たった。冷たいのにくっついたところは熱く感じる。
これは、所謂キスというものか。
クラスにもふざけて友達同士でやっている奴らがいたがこんな感じだったか?
唇を上下と喰み、わざとらしく音を立てて離す。
熱い舌が口内に割り入って、歯列を舐り、俺の舌を捕まえ絡め取っていく。
おかしな状況だということはわかるが、拒む気持ちはわかない。
正直なところ嬉しいのだ。久々のロナルド、久々のロナルドからのアクション。身体中にロナルドを感じる。嬉しい。
なにがロナルドの感情スイッチを入れたのかわからないがバカになってみてよかった。
と、喜びを噛み締める中突然ロナルドが我に返ったような顔で俺から離れた。
「…ごめん」
「謝るならするなバカめ」
「ごめん」
赤くなったり青くなったりしながら謝る姿が…これはどう言う感情なのだろうか? とにかく愉快だ。
「手、たくさん使うなら大事にしろ。…そうすると約束するなら許してやる」
ワセリンをロナルドのシャツの胸ポケットに入れてやる。
勝手にいなくなるヤツへの選別だ。ありがたく思え。
「…半田」
「忙しいのだろう?こんなところで油を売っている暇があるのか?さっさと行ってこいバカめ!」
「…おう」
俺好みの情けない顔を見せてからロナルドが階段を降りていく。
あとひと押しすれば全て吐くのではないかとも思ったがそれでは面白くない。
いつか強くなったロナルドを、いつか強くなった俺が倒すのだから、それまで聞かないでおいてやる。
「半田」
曇り空にくすんだ銀髪が揺れ、晴れ空が俺を見つめた。
「ありがとうな」
そしてあの日の太陽が俺を射抜いた