服部耀と年上彼女服部耀にとって後に彼女となる女との出会いはそれなりに派手なイベントだった。
それはある通勤電車の出来事だ。
その日の服部はたまたま捜査で泊まりになり、いつもとは違う電車に乗っていた。
その線路は東京の西から都心に向かう唯一の電車で、朝の通勤時間は恐ろしく混んでいた。
電車の混雑事情に明るくなかった服部は押し寄せてくる人の波を自身の体で受け止めながら内心舌打ちをした。
こんなに混むと知っていたらタクシーでもなんでも使うんだった。
どこかで人が減ってくれないだろうか。
服部の微かな希望を打ち砕くように、駅が進むにつれて人の濁流は激しくなって行く。
残念なことに電車の乗客はほとんどが同じ駅を目指しており、更に悲しいことにその行き先は終点を指している。
つまり、服部が今以上に楽になることはないのだ。
混じり合う汗と整髪料の香り、それから少しの香水の匂いに顔を歪めて天井を仰ぐ。
幸いなことに服部は背が高い。
少しばかり顔を上に傾ければささやかながら新鮮な酸素を吸うことができた。
服部がもう一生この時間のこの電車は乗るまいと心に固く決め、苦痛な時間が過ぎ去るのを待っていた時だった。
「お前!ふざけるなよ!」
女性の声でどう足掻いても上品とは決して言えない言葉が、服部のいる車両の中で響いた。
「すみません!この男痴漢なので捕まえてください!」
車内の空気が揺らいだ。
それは明らかに迷惑そうな空気だった。
朝の一分一秒でも惜しい通勤電車。
痴漢如きに邪魔されたくないという陰鬱な空気だった。
しかし服部はその空気に流されることはしなかった。
視線だけで声の主を探す。
しかしながら声が発せられた方向は出入り口付近だ。
服部は車両の中心にいる。
移動しようにも人の壁で1ミリも動けそうになかった。
内心舌打ちをしたが、幸いにも電車は駅に着いたため扉が開く。
新鮮な空気と共に僅かながら降りる人間もいるため人の流れが出来る。
しかし電車が止まって幸いだったのは服部だけではない。
「あ!こら!逃げるな!」
痴漢と名指された男と思しき人物が弾かれたようにホームへまろび出て走り出す。
それを追いかけるように声の主も電車を降りて追いかけようとする。
けれど女性は運動神経がよくないのか男との距離が無常にも開いて行く。
やっとの思いで電車から脱出した服部は自分が代わりに追うとの意思表示のつもりで女性の肩に手を置き問うた。
「特徴は」
服部の視界からは男の姿はほとんど見えなかった。改札で人混みに紛れられたら服部には捕まえられない。
だから、服部でも分かる特徴を教えてもらう必要があった。
女性は驚いたように一瞬目を見開き、それから叫んだ。
「顔に緑のマーカーが付いてる!」
それだけ聞ければ十分だ。
服部は弾丸のごとく走り出した。
警察学校でこれでもかと鍛えた脚力は、あっさり男を捕まえた。
男はホームの階段を駆け下り、改札に切符を差し込もうとしていたところだった。
頬にはマッキーで一直線に斜めにインクを振り翳したような線が付いていた。
「あ、捕まえてくれました!?」
間をおいて女性が駆け寄って来る。
その右手には緑のマッキーが握られていた。
「君がこれ書いたの」
男の頬を指して服部が問う。
「あぁ、はい。たまたまポッケに入ってたので。咄嗟に」
たまたまポケットにマッキーが入っているってどう言う状況だろう。
変な女。
それが服部が女性に抱いた最初の印象だった。
「捕まえてくれて本当にありがとうございます!それであの、乗り掛かった船で申し訳ないと言うかなんというか。駅員さんに引き渡すところまで手伝ってもらっても大丈夫ですか?」
言われなくてもそのつもりだった。
服部に後手に腕を強く掴まれた男は口汚く罵りながら暴れている。
女性にこれを御せるとも思わなかったし、ここで見捨てるほど服部は薄情ではなかった。
良かった!ありがとうございます!
痴漢されたとは思えない軽やかさで女性は礼を告げると、改札口にいる駅員に向かって小走りに向かって行った。
結論として、服部が付き添って正解だった。
何故なら女性があまりにも堂々としていたので本当に痴漢被害者か駅員に疑われたのだ。
痴漢は軽く扱われがちだ。
忙しい平日の朝、仕事を増やしたくない駅員は取り合うことを渋ったのだ。
服部は自分の警察手帳を駅員に見せると、駅員は手の平を返すように粛々と手続きを始めた。
怠惰な駅員に噛み付かんとしていた女性も口をぽかんと開けて服部の手帳を見ていたため、服部はやや気まずい思いで手帳を仕舞う羽目になった。
必要な手続きを全て終えた頃には日が天辺に登っており、完全に遅刻の時間だった。
服部が最後まで付き合う義理はなかったが、服部がいた方が話が早かったことも事実であったし、じゃあここでさようならとするのは気が引けたというのが正直なところだ。
「あの、色々ありがとうございました」
全てを終え晴れやかな表情を浮かべていた女性は服部に向き直ると深々と腰を折った。
「別に、乗り掛かった船だったから」
服部は女性が使った言葉を復唱することで暗に気にするなと伝えたつもりだった。
「服部さんがいなければ有耶無耶になるところでした。なので本当に本当に助かりました」
告げたはずのない名を呼ばれ一瞬服部は動揺したが、なんてことはない。駅員に提示した警察手帳の名前を女性も見たのだ。
「……次ああいうことがあった時、あんまり自分で追いかけない方がいいよ」
危ないから。
「でも、やられっぱなしも悔しいじゃないですか」
真っ直ぐに告げられ、服部は一瞬虚を突かれる。
それから、確かにそうかもしれないと納得してしまった。
そこで初めて服部は女性を正面からまじまじと見つめた。
胸元まで伸ばされた少し癖の入った長い髪。
上品なデザインではあるが、恐らく安価な品であろうトレンチコート。
これでもかとパンパンに中身が詰められた大きめのトートバッグ。
意志の強い瞳を覆い隠すようなシルバーフレームのメガネ。
見た感じ働いていてもおかしくない年齢のように見えるが、どこか世間ずれしていて幼い印象も受ける。
何故だろうと考えてやがてあぁと思い至る。
化粧気がないのだ。
服部の周りの女性(と言ってもすぐに出て来るのは母親と上長である未守しかいないが)はもっとファンデーションをしっかり塗って強いアイシャドウで己を飾り立てている。
けれど目の前の女性はギリギリ付いていると言い張ることのできるくらいの薄いファンデーションの上に申し訳程度のアイシャドウが乗っているだけだ。
けれどやぼったい感じではなく、むしろ凛とした瞳が化粧の力がなくとも絶妙なバランスで大人の女性としての存在感を成立させていた。
そこまで考えて服部は再び思案する。
目の前の女性は己の忠告を聞くことはしないだろう。
むしろ自分が正しいと思ったことはリスクを顧みずに突進していくタイプだと見た。今日は自分が側にいたから良いが、似たようなことがあった際危ない目に遭わないとも限らない。
ひとり思考の海に潜っていた服部は一つの結論を出すと、懐から名刺を一枚出すと裏面に自分の携帯番号を記載した。
「今日みたいなことがあったら呼んで。いつでもは無理だけど、出来る範囲では力になるから」
女性は二、三度瞬きをして恐る恐る名刺を受け取ると、ふっと息を零すように小さく笑った。
「そう言って頂いて助かります。でも、なるべく電話することがないようにしますね」
女性はもう一度丁寧なお辞儀をすると、服部に改めてお礼と仕事は大丈夫かひとしきり心配をして去っていった。
その時服部は女性の名前を聞きそびれたことに気がついたが、まぁもう会うことはないだろうと女性のことは頭の隅に追いやったのだった。