5.陶酔 十月にしては気の早い空っ風が吹いて、蔵馬は「さむっ」と肩を竦める。同僚やら取引先やらと別れて、ちょうど一人になったところだった。飲み会終わりと思しき会社員たちで賑やかな街中を、駅へ向かって歩き始める。金曜二十一時過ぎの都内は宴もたけなわ、二次会の始まる今からこそが本番という空気だったが、蔵馬は一足先に帰路に着くことにした。
結論から言えば、つまらない会食だった。
取引先が選んだのはなんともお上品な料亭の個室。相手を観察しつつ、同僚の手綱を握りつつ、懐石料理も日本酒も美味しく頂いたけれど。
混み合う電車の中で、蔵馬は小さなため息をつく。
このまま話を進めても実りは少ないだろう。だが父の代から付き合いのある取引先のため無碍にもできない。人間社会はままならぬところが面白いが、今夜のようにつまらなさを感じることもある。
とりあえず腹いっぱい食べたいな、と思った瞬間に、電車を下りた足が向かう先は変わっていた。
「らっしゃーい……って、あれ、蔵馬じゃねーか」
ども、とラーメン屋台の店主、つまりは幽助に小さく会釈して席に座る。風が冷たいせいか、珍しく他に客はいなかった。
「いつものお願い。あ、チャーシューとニンニク増し増しで」
「お、おう」
幽助はちょっと目を丸くする。そういえば彼の屋台でこんな悪食の見本みたいなオプション追加をしたのは初めてかもしれない。
待つこと数分、オーダー通りにチャーシューが五枚に増えてニンニクの匂いが強烈に漂ってくるラーメンが蔵馬の前に置かれた。ちまちまと出てきた先程の懐石料理とはまるで正反対の、暴力的な外観。
その対比がなんだか愉快で、蔵馬はクスクス笑いながら割り箸を割る。幽助の訝しげな視線を感じながら、濃厚な豚骨スープが絡む太めの麺を一気にかきこんでいった。こんなものを深夜に食べる時点で既に健康には悪いので、潔くスープも飲み干して完食する。
「ああ、美味しかった。ごちそうさま。やっぱり幽助のラーメンが一番だよ」
空の丼をあげて、蔵馬はうっとりと呟いた。
「そりゃありがてーけどさ。特盛りなんて珍しいじゃねえか、腹減ってた?」
――何かあった? 言外にこちらの様子を窺っている幽助をまっすぐ見据えて微笑む。
「お前がいるから一番美味しい」
ここが一番、面白くて、余計なものがなくて、ただの自分でいられる。勿論ラーメン自体も純粋に美味しいけれど。
幽助は目をぱちくりさせたあと、こちらをじっと見つめ返してきた。
「……酔っ払ってる?」
「酒は飲んできたけど正気だよ」
それを確かめようとでもいうのか、幽助がカウンターの中から出てきて蔵馬の隣に座った。
「そんならキスしようぜ?」
本音なのか冗談なのか。幽助とならしてもいいかな、という考えはなくもなかったが、それは引き返せない舟に乗ることでもある。酒ならぬラーメンの勢いに任せるような事案ではない。
「ニンニクくさいよ」
と蔵馬が一笑に付すと、
「ニンニクが嫌でラーメン屋やれるかっつーの!」
幽助は乗っかるように絡んできた。二人してじゃれ合いながら笑っているうちに、晩秋の夜風はいつしか気持ちのいいものになっていた。
――あ、ニンニクくさかったかな。
帰宅するなり幽助にキスをされて、今夜の忘年会のメインが牛モツ鍋だったことがちらりと頭を過った。
約二週間ぶりに魔界から戻ってきた幽助は飢えているのか、まったく気にしていない様子でキスを繰り返す。こちらの頬を両手で包み込んで、蔵馬冷えてるなあ、と笑う。
手洗いとうがいくらいはさせてほしいのだが、彼がうっとりとした表情で触れてくるのでもう少しだけ流されることにする。
こんな関係になる前にも同じようなことがあったことを懐かしく思い返しながら。
寒い夜、ニンニク、キス。そして、陶酔。