字を書く話水差しを持ち硯に水を落とし、その上で墨を摩る。
水に濡れた硯の上で、先端が丸くなった墨を滑らせるのは容易だった。短くなっているところを見るとよく使っていることも分かる。
「もう少し力を抜いて、前後に動かすんだ」
「……わかってる。ちょっと久しぶりすぎて感覚が鈍っただけだ」
自然と力が入ってしまうのは硯をもつ自分の手を包むように握られて長い指先から伝わる熱が手に伝わって緊張が走るからだし、静かで穏やかな低音が耳を撫でるからであって……つまりは俺の手を握るこいつのせいだということだ。
事の発端は何となく、本当に何となく同僚と趣味の話になり、強いていえば字を書くのが割りと好きだと知りその流れでなぜかこうなった。まさか硬筆ではなく毛筆だったとは思わず、しかも墨汁ではなくわざわざ水で墨を摩ると言うもんだからわりとどころの話じゃないだろと突っ込んだのは間違っていない筈だ。
墨は摩られる度に少しずつ溶けていき、透明な水は黒く染まりながら海へと落ちて広がっていく。ほんのりと香る墨の匂いは嫌いじゃないと思いながら少しずつ力加減を把握できるようになってきた。それを感じ取った同僚は握っていた手を離して隣に座り直す。
手の甲から熱が離れていくのは惜しいと思った頃には墨汁となった液体は十分に溜まり、色の濃さも申し分なかったので墨を摩るのをやめて隣の同僚へと手渡した。
「結構使い込んでるよな。摩りやすかった」
「まあな。墨を摩るのは結構好きなんだ。字を書くのはおまけみたいなもんだ」
「ふーん……」
そんな会話をしながら同僚は背筋を伸ばし、先ほどの自分と同じように墨を摩り始めた。普段はあまり意識していなかったが横顔が綺麗だなと手際よく摩られる墨の音に耳を傾けながら、思わず見惚れてしまっていた事に気づいた俺は同僚に気づかれないうちにと慌てて視線を硯の方へと落とした……のだが。
「俺の顔になんかついてたか?」
「別に」
見ていることにはしっかり気づかれていて、耳が熱くなったような感覚を覚えてそれを振り払うように否定をしたが、目の前の同僚は全てわかっていると言うようにふっと笑うので少しばかり腹が立ったが、こういうところが付き合いやすいと思う理由のひとつなので少しすれば湧いた怒りはすぐに冷めていく。
そうしているうちに墨を摩り終えた同僚は濡れた墨を拭き取り傍らに置いて今度は筆を手に取った。
「お前さん、普段はどんなことを書くんだ?」
「んー……特に決めてないな。思い付いたものとか、目についたもの……本の題名とか、野菜の名前とかそんな感じだ」
「そうか。俺はてっきり写経とかするのかと思ってたが違ったんだな」
「写経もやったことはある……けど、あれは性に合わん」
同僚の返答に思わず目を丸くした。大体の事をそつなくこなして器用なやつだと思っていたが、意外な面もあったものだとそんな風に思っていると自分がどう思われたのかを何となく察したのか、同僚は少しばかり困ったように頬を掻いた。
会社では表情の変化に乏しくて目つきの悪い寡黙な同僚は俺とふたりでいるときだけはこうして表情を表に出す。曰く、言葉だけでは気持ちが伝わらないだろうからと同僚なりの誠意のようで、これは俺だけの特権だ。
そんな風に思うと嬉しさと優越感で笑い声が口からこぼれ落ちて、それは同僚の耳にも届いたのか笑うなよと軽く肘で小突かれたがこれもまたひとつのじゃれ合いだと思えば楽しいもので……。
「水木……俺はお前が思ってるほど完璧じゃないよ」
「そんなのはわかってる。だから良いんだ」
「お前はなに考えてるのかわからん」
「ははっ、お前さんに言われたかねえよ」
俺は軽く笑い、同僚もまた笑い声を上げる。
そして示し合わせるでもなく、座り直して筆を手に取り背筋を伸ばして筆先を墨に浸し、程よく落として半紙に向かって筆を運んだ。書きたい文字はひとつしか思い付かなかった。
それ以外無いと思った。たった一文字だが、それでよかった。
「なんて書いたんだ?」
「ずっと視界に入れていたいやつの名前だ」
「奇遇だな。俺も同じだ。……こうしたらもっと入るか?」
膝を横にずらしながら体を寄せ、顔を近づけると自然と瞼は閉じていって最終的には唇が重なりあった。自分の物とは違う薄い唇に自分の唇を這わせながら軽く吸うと仕返しとばかりに唇を這わすのでそれを受け入れる。
何度も重ねて離してを繰り返しながら手を近づけて指先が触れ合って絡めながら指先で手の甲を撫で合った。墨を摩っているときに握られたときよりもずっと熱くてそれだけで頭の奥で何かが開くように甘く痺れて口から小さく声を漏らしてしまう。
気がつけば事に及んでいて、同僚は俺の中に自身を埋めて抽挿を繰り返し、その度に体が跳ねて良すぎてトびそうになる意識は行って帰ってを繰り返した。
普段は穏やかで物静に話す声が余裕の無い声に変じて、それが俺だけのものだと思うと目の前で腰を動かして中を攻め何度も奥を突く同僚の全てが欲しいと思う。
「お前さんが、ほしい……」
「俺も、お前がほしいよ」
俺がそう言うと、同僚も同じように返してくる。これは体を重ねている間のいつものやり取りだ。同僚から自分の全てをやろうという言葉を引き出すまでの攻防を繰り返すのは楽しくて、同僚もそれを分かっていて俺が欲しい言葉を敢えて言わないでいるから余計にもどかしくて……それが良すぎてどうしようもなかった。
だからこちらも同僚が望むようによがり、鳴いて見せるとその顔が好きだと嬉しそうに笑みを浮かべたので満足して同じように笑みを返した。
事を終えて、同僚の書いた半紙を手に取った。半紙には自分の名前が書かれていて……その字を見て、先ほどの机に向かう横顔を思い出して、綺麗だと思わず呟いていた。同僚もまた俺の書いた字を見て、綺麗な字だと呟いていつもの穏やかな口調で笑った。
「なぁ、これ貰っても良いか?」
「貰ってどうすんだよ」
「そうだなぁ……記念に額縁にでも飾るか」
「やめとけやめとけ。お前がそれ持ってくなら、俺もこれ貰ってくぞ。そうでなくても貰うけどな」
「それこそ貰ってどうするんだよ」
「記念として額縁に飾る」
「やめろよ」
俺が笑い声を上げると同僚もくすくすと笑い、それぞれ手に持った半紙は丁寧に枕元に置いてから腕を伸ばして抱き合う。
こうしてじゃれ合い体を繋げるのは後にも先にもこいつくらいしかいないだろう。こいつがどう思っているのか分からないが、同じように思ってくれているのならそれ以上に嬉しいことはない。そう思いながら唇を重ね合わせ、背中に腕を回した。