ヒスムル(仮)ヒースクリフは不機嫌を露わにした顔でアパートの扉の前に立って呼び鈴を鳴らした。
時刻は20時。
普通の人間であれば迷惑に思う時間帯だが、ヒースクリフはそんな常識など関係無いと言うようにもう一回呼び鈴を鳴らした。
……出ない。
ヒースクリフは舌打ちをした。
(クソ……まだ帰ってねえのかよ……)
実はこの訪問は今日に限った事では無かった。
昨日も一昨日も、一週間は連続で訪問していると言うのに家主はまだ帰っていないのだ。
そして一日の訪問もこの一回だけではない。
朝の6時、昼の13時にも呼び鈴を鳴らして出ないのだから一日中家に居ない筈だ。
あるいは気絶したように寝ているか、だが。
「ハァ……」
溜め息を吐き、ヒースクリフはその場に胡座をかいて座った。
膝に肘をついてヒースクリフはこの部屋の家主であるムルソーの事を考えた。
ヒースクリフの記憶に隈の無いムルソーの姿は無かった。
ムルソーはいつも目の下に隈を湛えていて、目を離せば倒れるのではないかと思う程弱々しい姿が記憶に焼き付いていた。
そんな弱々しい姿なのにハンマーを振り回して傷一つ負わずに敵を一掃している姿が、ムルソーについての最初の記憶だった。
ヒースクリフが呆気に取られている中でよろめいてその場に倒れたムルソーに驚かされたのも最初の記憶の一つだった。
『おい……大丈夫か、あんた……?』
肩を揺さぶってみるとムルソーは呻きながら上半身を起こした。
『……ああ……少し……動き過ぎたようです……』
『共倒れすんなよ、折角カッコよかったのに……』
ヒースクリフがぼやくとムルソーは怪訝そうな顔でヒースクリフを見た。
『……格好付けている訳ではありません。ただの仕事ですので……』
『知ってるよ。つーか、これからどーすんだ?』
『……事務所に……帰還、しなければ……』
『……肩、貸すか?』
『……お願いします……』
それから事務所に着いた瞬間にムルソーが書類の山が出来たデスクに向かってパソコンを起動したのを見て何か見てはいけない物を見てしまったような気持ちになったものの、これ以上何かをする事も出来なかったのでヒースクリフはそのまま事務所から出た。
次に会ったのは道端のベンチでムルソーが寝ているのを発見した時だった。
その時は早朝で、流石に心配になってヒースクリフはまたムルソーを揺さぶり起こした。
『おい……こんなとこで寝てたら危ねえだろうが……!』
『……ああ……貴方は……先日はお世話になりました……』
『お世話になりましたじゃねえよ。なんでこんなとこで寝てんだよ。』
『……帰宅する途中で眠気に襲われまして……仮眠を取っていた所です。』
『いつから寝てたんだよ?』
『2時36分……』
そう言ってムルソーは街灯の時計を見て「あ……」と声を漏らした。
もう5時を過ぎていた。
『……一応聞きたいんだけどよ……まさか今日出勤日じゃねえよな?』
『……午後から出勤です。』
『………もうここで寝とけよ。』
自分が起こしたと言うのに思わずそう言っていた。
『……そう、ですね。家に帰る理由も特にありませんので……』
『……あんた、ちゃんと毎日家帰ってるんだろうな?』
『……いえ、数週間に一度ぐらいです。』
『……は?』
『仕事がありますので、仕方ありません。』
『いや……』
おかしいだろ、と言いかけてヒースクリフは口をつぐんだ。
家出したばかりのヒースクリフにとってはおかしい事でも、世間ではそれが普通なのかもしれないと思ったからだ。
『……では、私はここで眠りますので……貴方はお気をつけてお帰りください……』
『いや、俺は……』
ヒースクリフが何かを言う前にムルソーは眠りに落ちていた。
ヒースクリフはそんなムルソーを見て悪い事をしたような気分になり、ベンチの側でしゃがみ込んだ。
そのままムルソーが起きるまでの時間をただ座って過ごした自分に対して、ヒースクリフは今でも驚いていた。
きっとあの時の自分は気分が落ち込んでいたのだろう。
今では待つ事すらままならない……と言うのは当たり前なのだが。
ヒースクリフには金も家も無かった。
ムルソーを家に送り届けたのをきっかけにムルソーが帰る日に家に泊まっているヒースクリフはここ一週間ずっと野宿する羽目になっていたのだ。
(……事務所……行くか……)
ヒースクリフは重い腰を上げて事務所に向かった。
だが、もうすぐ事務所に着くと言う所でヒースクリフはムルソーと鉢合わせた。
「あ。」
「……こんばんは。何かご用でしょうか。」
「……っ!お前、一週間も家空けやがって!お陰で俺は……」
ヒースクリフはそこまで言ってハッとして口を閉じた。
「……何か不都合がありましたか?」
「……、」
もうここは恥を忍んで言った方が良いのかもしれない。
ヒースクリフは諦めにも似た決心をしてムルソーと向き直った。
「……その……実は、俺……家出、してて……あんたの家に泊まらないと……野宿なんだよ……」
我ながら本当に情け無い話だと思った。
ついムルソーから目線を逸らして俯いたのがその証拠だ。
それも含めて屈辱的だった。
「……ああ、そう言う事でしたか。」
「ぇ……」
返ってきた返答が想像の何倍も軽い物だったので、ヒースクリフは思わずムルソーを見上げた。
「早く言ってくだされば鍵を渡したのに……」
「な……」
「次からはこの鍵を使って……」
ムルソーに鍵を手渡され、ヒースクリフは少しの間黙り込んで……
「……どうかしましたか?」
「……クソッ‼︎じゃあ俺は無駄に野宿したって事か⁉︎」
鍵を地面に叩き付けて叫んだ。
随分な物言いだと自分でも思ったが、ヒースクリフの中では悔しさが勝った。
「あ……」
その鍵が、まさか側溝に落ちるだなんて思ってもみなかったのだ。
2人はじっとその側溝を見つめた。
コンクリートの地面に、小さくシンプルなグレーチングが一つ付いているだけの側溝の奥を覗き込んでみると、底がかなり深い事が分かった。
「……」
ヒースクリフは恐る恐るムルソーの方を振り向いた。
が、ムルソーは変わらぬいつもの無表情でそれを見つめているだけだった。
「……わ、悪い……まさか、落ちるなんて思わなかったから……」
「……ああ、合鍵がまだあるので大丈夫です。」
そう言ってムルソーは来た道を戻り始めた。
「どこ行くんだよ?」
「合鍵は人に預けてあるので……少々お待ちください。」
「……人に……?」
ヒースクリフの頭に邪な考えが浮かんだが、ムルソーの顔を見ているとどうしても想像と結び付かなかった。
だが、どうしても相手が気になったヒースクリフはムルソーに付いていき、事務所に入って行った。
ヒースクリフが以前見た場所よりも奥へ進んでいくと、明らかに部外者の立ち入りが禁止されていそうな場所に入ってしまった。
一応この事務所は工房らしく、この部屋で何かしら作っているのだろう。
だが、それを止める人間は事務所に居なかった。
……文字通り、人が居なかったからだ。
そんな静かな事務所に僅かに響く鼻歌が人の気配を感じさせていた。
「グレゴール、少し良いか?」
「ん?どうしたんだ?」
陰からそっと様子を見ると、ムルソーよりは小柄(相対的にそう見えるだけで実際は平均なのだろう)に見える男が立ち上がってムルソーに近付いた。
「合鍵を返してほしい。持っていた鍵を紛失してしまった。」
「……おう……一瞬心臓止まるかと思ったよ。出来れば理由先に言ってくれると安心出来るんだけど。」
「……合鍵を返却した所で関係が終わる訳では無いと思うのだが。」
「はは、そうだよな。そう言う所に関しては安心出来るんだけどさ……」
(……?)
ヒースクリフが思っていた邪な考えに近い会話が行われているように感じた。
「ほい。ちゃんと複製しとけよ。」
「分かった。……また明日。」
「あ、ちょっと待て。」
グレゴールと呼ばれた男がムルソーを引き止めたのを見て首を傾げた。
グレゴールがヒソヒソと話すと、ムルソーはこちらを振り向いてきた。
「……あ、」
「……ああ。彼が家の鍵を紛失した原因だ。これから泊める予定でもある。」
「……お前さん……そんな奴を家に泊めるのかよ……」
「彼に悪意は無かった。」
「……まあ、良いけどさ……」
グレゴールが何かボソリと呟いたようだが、ヒースクリフには聞こえなかった。
「では、行きましょうか。」
「え、あ……」
ヒースクリフがまごついていると、ムルソーは構わず部屋を出て行った。
ヒースクリフはグレゴールを見てからムルソーについて行こうとしたのだが、グレゴールと目が合ってしまい、その場に立ち尽くした。
グレゴールは品定めするような目でヒースクリフを見つめてから視線を手元に戻した。
それを見てヒースクリフも部屋を出て行った。
ムルソーを追って走ると、突然ムルソーが立ち止まってヒースクリフはムルソーの背中に突っ込んだ。
「うわっ!急に立ち止まるなよ……!」
「……ちゃんと付いてきていますね。」
「……」
ヒースクリフは複雑な気持ちになって黙り込んで、不意に鼻をついた香りを確かめる為に鼻を嗅いだ。
「……あんた、煙草吸うのか?」
ムルソーの服からは煙草の匂いが漂っていた。
かなり濃い匂いだったのでそう聞くと、ムルソーは首を横に振った。
「いえ。恐らく匂いが移ったのでしょう。」
「……そうか……?」
煙草の匂いが移るとしたらあの事務所は室内喫煙者だらけと言う事になりそうだが……
一瞬だけグレゴールの姿が頭に浮かんだが、煙草の件は別の思考に持って行かれた。
「……つーか、あんた、敬語じゃなくても話せるんだな。」
「……ええ。敬語でなくても良いと言われましたので。」
「……なら、俺にも敬語で話さなくて良いよ。敬語使われる程偉くないし……」
「……では、そうしよう。」
驚く程簡単に、あっと言う間に敬語を崩したムルソーに少し驚きつつもヒースクリフはムルソーに黙ってついて行った。
……続けたい