ヒスムル(仮)5『お前さんのそう言う所好きだよ。』
ただのセフレに過ぎないグレゴールにそう言われたのは恐らく3年前だったと思う。
私は「好き」と言う言葉をあまりよく考えた事が無かった。
人は簡単に「好き」と言う言葉を口にするからだ。
それは私もまた同じ事だった。
口に出して言わずとも好ましい物は好ましいと表す。
私も、皆も、深く考えずにそう表す。
そんな風に生きて来たからこそ、今更そんな言葉の意味を考えた事が無かった。
私はグレゴールの仕草は好きだがグレゴール自体が好きだと言える訳ではなかった。
笑顔も、声も、手も、私にとっては好ましいがグレゴール自身を好きであるとははっきりと言えなかった。
グレゴールが私の好きな所は分かりやすいが、彼はどうなのだろうか。
彼は、私の体が好きなのだろうか。
それとも私自身が好きなのだろうか。
(……分からない。)
いつも、私は行き止まりに辿り着いてしまう。
そこで諦めて、いつも引き返すのだ。
(ヒースクリフは……)
彼は、私が好きなのだろうか。
だが、それはどう言う「好き」なのだろうか。
私は……好ましいとは思っているが、彼の「好き」と同じなのかどうかは分からない。
彼は怒ったり塩らしくなったり笑ったりとコロコロと表情が変わる。
感情の起伏が掴みづらいと言うべきか、怒るかと思えば困惑していたり、思わぬ所で怒り出したりする。
私に対してはよく怒っている印象があった。
そんな彼が、本当に私の事を好きなのだろうか?
いつもよりも早く仕事を切り上げられた私はどこか落ち着かない気分のまま帰宅した。
「……ぁ……」
扉の前まで来て自分が鍵を持っていない事に気付いた私はチャイムを鳴らした。
15秒程経って扉が開いたが、中に居たのはグレゴールだった。
「……グレゴール?」
「あー……ヒースクリフに鍵貸してたんだけど合鍵と一緒に渡しちゃっててな……返してもらいに来たらあいつが勉強したいとか言って教えてたんだけど……」
グレゴールは私について来るように示して、私はそれについて行った。
部屋を覗き込むとヒースクリフが毛布に包まっていた。
「熱でダウンしてな……ずっと頭抱えながら睨めっこしてたから倒れるまで気付かなかったんだよ。」
「……勉強、とは?」
「……工房のフィクサー免許……」
私は驚いてグレゴールを見た。
「何故そんな物を……?嫌いな筈では……」
グレゴールは気まずそうに口を真一文字に伸ばしてヒースクリフを見た。
よく見ると毛布が小刻みに震えており、微かに鼻を啜る音が聞こえてきた。
「……泣いているのか……?」
「ちょっ……あー……すぐそう言って詰め寄る……」
「……?」
額に手をやるグレゴールに何故責められているのか分からなかった。
「……俺は……」
しゃくり上げながら、ヒースクリフが声を出した。
「……あんたみたいに……なりたくて……」
「……」
私は一歩踏み出して、彼に近付いた。
「絶対、なってやるんだって……っう……」
「……」
ヒースクリフはゆっくりと上半身を起き上がらせた。
そして、涙を流しながら私を睨み付けた。
「……だが、今は休んだ方が……」
「休んだら、駄目なんだよ‼︎」
私は驚いて立ち止まった。
「俺みたいな馬鹿はあんた達と違って死ぬ気でやんなきゃ駄目なんだよ‼︎毎日、一日中勉強しねぇと、何にも身につかねぇんだ‼︎今立ち止まったら……俺は……もう、進めないんだよ……」
「……」
……私は、こんな風に悩んだ事が無かった。
こんな風に、何かを成した事が無かった。
だからこそ、自分には何も言えないのだと分かった。
「……クソ……あんな奴らが……正しいなんて……」
「……お前さんは……ただ慣れてないだけだ。馬鹿じゃないよ。ちゃんと出来てたじゃないか。」
見かねたのかグレゴールがそう声を掛けるが、ヒースクリフは顔を歪めて唸るように言葉を絞り出した。
「……それでも、あんた達に比べたら馬鹿なんだよ。ずっとずっと下に居るんだ……」
「……」
「ほんとは……俺だって、こんな事考えたくなかったんだよ……でも……工房の奴らをどれだけ負かそうとしたって……あいつらは、俺より上なんだよ……俺と違って、簡単に免許取って、あそこで働いてる奴らなんだよ……‼︎ちょっとやったぐらいでブッ倒れた俺とは違って‼︎」
震えながら出された声は、泣いているからではなく怒りで震えているように聞こえた。
「……あいつらが正しかったんだ……これが事実なんだ……ずっと認めようとしてなかったのは俺だったんだ……皆……皆、俺よりも、上だった……俺が、そんなとこに行ける訳が無かったんだ……」
ヒースクリフは膝に目を擦り付けて、腕で顔を隠して、泣いていた。
私は、どうするべきか、分からなかった。
言葉をかけようとしても、何も思い付かなかった。
彼にとって、私達は劣等感の根源のようだと言う事は理解出来ていた。
きっと何をしても、彼に傷を付ける結果にしかならないだろう。
……それでも、私は彼に近付いて……そっと頭を撫でた。
「……ぇ……?」
ヒースクリフは驚いたようでこちらを見上げたが、拒む気配は見られなかった。
だから、癖のある髪を撫で付けるように、撫で続けた。
言葉は送れそうにないが、せめて……何かを伝えられたら良いと、そう思っての行動だった。
「……なん、だよ……俺の親じゃ、ないくせに……」
ヒースクリフは私の服を掴んで、引っ張った。
私はその場に膝をついて、ヒースクリフを抱きながら、あやすように背中を撫でた。
これが、正解のような気がした。
グレゴールの話によると、ヒースクリフは初めて会ったあの日から私に憧れていたらしい。
そして最近は同じ事務所のフィクサーになって私を助けたいと願っていたようだった。
「……まあ、それに関しては勧誘した俺にも責任があると言うか……焦らせちゃったのかもしれないな。」
「……ヒースクリフは元からそのつもりだったように見える。どちらにしても同じだったのではないか?」
「うん……そうだな。」
グレゴールは苦い顔をしながら頷いた。
……グレゴールはヒースクリフの気持ちが分かっていて、それで思う所があるのかもしれない。
「……なあ、ムルソー。明日どうする……?俺も休みたいのはやまやまなんだけど……」
「……」
グレゴールは目標の為に金が必要だ。
私もまだあの書類の山を全て処理出来ていない。
それどころか増える事があるだろう。
私とグレゴールは、あの事務所に居なくてはならない存在だ。
「……」
私は目を閉じて、開いた。
「……私が1日だけ休もう。」
彼には、私が必要に思えた。
事務所から逃げ出したあの日。
走り疲れて公園のベンチで座っていると、ボールが足にぶつかって、コロコロと転がった。
「早く取ってよ〜!」
「あ?」
サッカーをしていた子供達をジロリと見るが、取りに来ようとする気配が一切無かった。
ヒースクリフは溜め息を吐いてボールを蹴ってやった。
子供は当然のようにボールを受け取ってそのまま他の子供と向き直った。
「チッ……礼も無しかよ。」
ヒースクリフは公園から出てムルソーの家に向かって歩き始めて、入り口の所で立ち止まって振り向いた。
「……」
ヒースクリフは当たり前のように礼を求めた。
子供もまた当たり前のようにボールを返してくれる事を求めた。
お互いがお互いを下に見ていたのだ。
ヒースクリフと子供は対等ではないのだ。
それを……何故自分が咎める権利がある?
家から、学業から逃げて、赤の他人に養ってもらっている自分は……
「……ッ……!」
ヒースクリフは、また走り出した。
何もかもから、逃げるように。
ムルソーの家に帰って、まず思いつく限りの家事をした。
風呂掃除をして、洗濯をして、掃除機をかけて、洗い終わった食器を拭いて……
やる事が無くなると、一気に虚しくなった。
(……これだけやったって、俺は……結局、養われてる事に変わりは無い……)
ムルソーとは、対等になれないのだ。
(……勉強……しないと……)
グレゴールが来て、鍵を返す時に基礎知識を教えてもらう事にした。
(俺は……あの人と、対等に……)
次の日、グレゴールに資料を持ってきてもらった。
頭が上手く働かなくて、話を聞くので手一杯だった。
(……ムルソーもこのおっさんも……このぐらいやってきたんだから……)
気付けば、かつて家族に散々言われた事を頭の中で繰り返していた。
話すらも入って来なくなった時には、頭痛で叫び散らす寸前まで来ていた。
(……こんなとこで、躓いたら……)
俺は、あのガキ以下になる。
「……ヒースクリフ?……おい……!」
……何を必死になってたんだ、俺は?
こうなった時点で、俺はもう……
「……ッ!」
ひゅぅっ、と息を吸って、ヒースクリフは目を覚ました。
顔中が汗に塗れているような気持ち悪い感覚がして、顔を手で拭うと目元が濡れている事に気付いた。
「……クソ……」
目を擦って、起き上がって深呼吸をした。
そうしないと、自分が叫び出しそうで怖かった。
(……続き……やらねえと……)
頭痛は僅かにあったが熱は下がっていた。
ヒースクリフはよろよろと起き上がり、リビングに向かった。
「……ぇ、」
リビングには、ムルソーが居た。
ソファに座って、昨日ヒースクリフが資料に書き込んだ物を読んでいたようだった。
「……おはよう。熱は下がったか?」
「……多分……」
ヒースクリフはそう答えて、時計を見た。
もう10時を過ぎていた。
「……今日、仕事は……」
「1日だけ休暇を取った。個人的な理由だから貴方は気にしなくても良い。」
「……」
「……朝食は作っておいた。食べなくても構わないが……」
ヒースクリフは気が気でなかった。
ムルソーは明らかにヒースクリフを理由に休みを取っている。
そして……汚い字で殴り書きしたメモを、じっと見つめて読み解こうとしていた。
「……なあ……その字……汚いだろ。多分、読めねぇよ、あんたにも……」
「……『歯車の回転スピードによって相手に与える振動量が増える』、『実戦で使うには高過ぎず低過ぎない電流が必要、武器が振動し過ぎて振り回すどころじゃなくなるから』と書いてあるのではないのか?」
「そうだけど……時間、かかったろ……?」
「それは否定出来ない。だが……最初はここまで酷い文字ではなかった。」
「……」
「それに……ただ書き写している訳ではない筈だ。自分が理解しやすいように工夫して書いているように見える。」
『何だよ、「〜だから」って。子供じゃねえんだから……』
『ちょっと……これ何て読むの?』
『もっと丁寧に字を書け!』
「……ヒースクリフ?」
「……」
気付けば、涙がボロボロと溢れていた。
「何故、泣いているんだ……?」
「……っ……」
目をごしごしと擦るが、擦れば擦る程涙は滲み出てきた。
「……私は、貴方にとって何か……嫌な事をしてしまったか?」
ヒースクリフは首を横に振った。
「……なら、何故……」
「ぅ……ぅっ……く……」
「……、すまない……今聞いても仕方の無い事だった。」
ムルソーは、ヒースクリフの事を理解しようとしてくれていた。
その優しさが、逆に苦しかった。
ムルソーが、更に上の存在になって行くようで……
「……やだよ……」
「……?」
「……もう……俺の先、行かないでくれよ……惨めなんだよ……もう……振り向かれるの、やなんだよ……」
自分でも情けないと思うぐらいに弱い声音だった。
憧れの象徴だったあの背中が、今では障害になろうとしていた。
そんな風に、思いたくなかった。
あの日、あの背中に惚れた思い出を、こんな風に変えたくなかった。
「……私は、どうすれば良いんだ?どうすれば……貴方は楽になるんだ?」
……ああ……そうやって、すぐ俺に向き合おうとするから……
「……クズに、なってくれよ……」
「……クズに……?」
「俺が、あんたの事見限るくらい……」
「……それで、収まるのか?」
「……ん……」
ムルソーは何かを考えているようで小さく唸ると……
ぺち、とヒースクリフの頬を叩いた。
「……?」
「……!」
ヒースクリフが呆気に取られてムルソーを見ると、ムルソーは手応えがあったかのような顔をしていた。
「……何、喜んでんだよ……全然ちげーし……」
「む……では、どうすれば……」
「……良いよ、もう。」
ヒースクリフは涙を拭ってキッチンに向かった。
「……あ……腹が減っていたのか?」
「……まさか泣いた理由がそれだと思ってねえよな?」
「……一瞬思ったが恐らく違うのだろうな。」
「赤んぼじゃねえんだぞ、俺は。」
明らかに萎んでいるムルソーを見て溜め息を吐いてからヒースクリフは冷蔵庫を開けた。
ラップの掛かったピラフを電子レンジに入れて温めると、ムルソーが何か言いたげにこちらを見ている事に気が付いた。
「……何だよ。」
ムルソーは逡巡しているのか目を泳がせた後、ヒースクリフを見据えて口を開いた。
「……貴方は、自分の事を赤ん坊ではないと言ったな。」
「こんだけデカいんだからそりゃそうだろ。」
ヒースクリフは声を低めてそう返すと。
「……正直、貴方は子供っぽい所がある。いきなり怒り出したり泣き出したりして、予測し難い。総合的な観点からして赤ん坊とまでは行かなくとも貴方は……子供のようだと、言う他無いだろう。」
「…………」
ピクリと、指が勝手に動いた。
は、と息が詰まって……視界が揺れた。
「だから……どう、接したら良いのか分からない。貴方は私にどうしてほしいんだ?」
勝手に息が震えて、勝手に体が震え始めた。
……ああ、そうか。
「……そう言うとこが……あんたに一番迷惑かけてたとこなんだな……?」
ムルソーがハッとしたように目を見開いた。
「ヒースクリフ、」
「そりゃそうだよな。癇癪持ちなんか、相手にしたかねぇもんな。」
「違う、ただ私は……!」
「……知ってたよ、そのぐらい。」
本当は、叫び出したかった。
でも……これ以上、酷くなったら……
「良いよ。家、帰るから。」
「ヒースクリフ……!」
肩を掴んできたムルソーが何かを言うより先に、その胸ぐらを掴んで叫んだ。
「一緒に居て疲れるような相手、側に置きたいって思う奴が居る訳ねえだろうが!!」
「……、」
「あんただって同じ筈だろ⁉︎ただでさえ疲れてんのに家にはこんな居候が居るんだからな!あんなクソみてえな事務所に居た方がマシだろうよ!!……なんで早く言ってくれなかったんだ……?迷惑だって、邪魔だって一言言ってくれりゃあさっさと出てったのに……‼︎あんたが、一言もそんな事言わないから……」
言葉に詰まった所で、レンジが音を鳴らした。
ヒースクリフは言葉を飲み込んで、震える息を吐いて、手を離した。
「……今まで迷惑かけたな。……もう、あんたの世話にならないと思うから。」
「……は……っ、」
肩から手を外して、急ぎ足でムルソーの横を通り過ぎる。
「待ってくれ、私は貴方の事を迷惑だと思った事は……」
「……何、マジになってんだよ?」
ムルソーが体を僅かに跳ねさせて、口を閉じて、また開いた。
「……だって、貴方は……私の代わりに、家事をやってくれただろう……?それに、私は……」
「どうせ俺が居なくなったって何にも変わらないくせに。」
ヒースクリフは逆光で影に包まれているムルソーを見て自嘲的に笑いながら、玄関を出た。
(……最初からこうしておけば、楽だったのにな。)