ヒスムル(仮)10「……くそ……なんでだよ……」
どこを探してもヒースクリフは居なかった。
(なんで、いきなり……)
グレゴールは来た道を戻りながらヒースクリフとのやり取りを必死に思い返していた。
ヒースクリフの表情が曇り始めたのは買い物に行く事が決まった時だった。
だが、その後にグレゴール達が何か気に障るような事をしたかどうか、それだけが分からなかった。
(……何か嫌な事思い出したのかな……いや、それにしたってあの変わりようは……)
そう思いかけて、以前のヒースクリフを思い出した。
『……基礎、とか……教えて、ほしいんだけど……』
あの時のグレゴールは気付かなかったが、あの時のヒースクリフの目は不安が滲み出ていた。
「……」
今ならムルソーの気持ちが分かるような気がした。
どうすればヒースクリフの気が楽になるのか、見当もつかなかった。
先程ムルソーと別れた場所に着いた時、ムルソーが店の入り口の脇で佇んでいるのが見えた。
「見つかったか?」
グレゴールがそう声を掛けるとムルソーは首を横に振った。
「そうか……参ったな……」
「……」
ムルソーの視線が、何か含みを持っているように見えた。
「……どうかしたのか?」
「……貴方はヒースクリフの事をどう思っているんだ?」
「……何だよ、急に?」
「前から気になっていたが聞けていなかったから、今の内に聞いておこうかと思っただけだ。」
「……随分呑気だな、お前。」
「……」
グレゴールは咥えた煙草に火を点けて、吸った煙を吐いてから話し始めた。
「まあ、何と言うか……孫が出来たような感覚だな。」
「……子供ではなく?」
「うん。そう。孫。子供はお前だからな。」
「……」
「……でも、なんか……やっぱり、義理って感じはするな。実際そうっちゃそうなんだけど……難しいよ、あいつは。お前の言ってる事、ちょっと分かっちまった。」
ムルソーはじっとグレゴールを見つめていた。
「……貴方はヒースクリフを見つけたら、どうするつもりだったんだ?」
「……とりあえずメシ食わせてやるかな。チキン食わせた時の話してなかったよな?」
「……」
「泣き止むまで待ってから食わせたら結構良い食いっぷりだったんだよ。何つーか……そう言うとこ正直なんだよな。」
「……そうか。」
「……またチキン買ってやったら嫌がらせって思われるかな。」
「……私には分からない。」
ムルソーが微妙な顔をしてそう返してきた。
「……昼メシどうしようか?」
「……」
ムルソーがチラリと横を見た。
「……貴方は何が食べたいんだ?」
「う〜〜ん……特に何も無いな……」
「……」
「……ヒースクリフが食いたいもんにしたら、逆に気にしちまうかな。」
「……そうかもしれない。」
グレゴールは深く息を吐いて、携帯灰皿に吸い終わった煙草を入れた。
「……もう一回探して来る。行き違いになってたかもしれない。お前は?」
「……」
「……?」
ムルソーはグレゴールを見つめたまま何も答えようとしなかった。
「……ムルソー?何かあったのか?」
「……貴方と私は問題を解決する為にする行動がまるで違っているらしい。」
「……?」
「……今、彼がどんな行動を望んでいるのか、私達には分からない。そんな状態で行動を起こすのは……少し、リスクが大きいのではないか?」
「……」
「……確かに彼は探してもらう事を求めているのかもしれない。だが……本当は違ったとしたら、彼にとっても、私達にとっても、良くないのではないか?」
ムルソーの言っている事は最もだった。
ヒースクリフは今不安定な状態だ。
グレゴールが良かれと思ってやった事がヒースクリフにとってはどうなのかは分からないのだ。
「……貴方がヒースクリフに対して何かしてやりたいと思う気持ちは分かる。だが、私は1人にしてやった方が良い時も、ある筈だと思っている。……お互いに、辛くなるだけだからだ。」
ムルソーはそう言って小さく息を吐いた。
「……確かに貴方が動いてくれる事でヒースクリフの心は多少救われるだろう。だが……それと同じぐらい苦しむのなら、考え直す必要があると、私は思っている。」
「……」
グレゴールは地面を見つめて黙り込んだ。
ムルソーは左腕に手をやって、俯いていた。
「……そうだな。」
グレゴールはそう返して、ムルソーと一緒にここで待つ事にした。
ヒースクリフもこちらを探していたら、動き回るとかえって合流出来なくなると思ったからだ。
「……せめて連絡取れたら良かったんだけどな……多分携帯とか持ってないよな……」
「……流石に携帯まで買うと今月の支払いに響きそうだ。」
「そうだなぁ……買ってやりたいのはやまやまなんだけど……」
そんな事を話しながらグレゴールが煙草を取り出した時だった。
視界の端でムルソーがこちらに背を向けて建物の隙間を覗き込んだ。
一瞬の事だったが何事も無かったかのように定位置に戻ったムルソーを目撃してしまっては嫌でも察するしか無かった。
「……え……もしかして、そこに居るのか……?」
グレゴールが小声でそう聞いてきたのに驚いたのかムルソーは少しだけ目を見開いてこちらを見た。
「……貴方には申し訳ないが、彼には時間が必要だと思った。」
「えええ……」
途端に足の痛みが増した気がした。
「はぁ……ん……まあ、良いけどさ……仕方無いし……」
グレゴールは煙草を咥え、先端に火を点けた。
「……まあ、これで探し回る必要は無くなった訳だ。……で、どうよ、ヒースクリフは?」
「……泣き止みはしたがあと数分は出て来ないだろう。」
「焦ったいなぁ……今話しかけちゃ駄目なのか?」
「……自然に出て来るのを待った方が良いと思っていたが、出て来るきっかけを作る工程は必要かもしれないな。」
「……きっかけはどうする?」
「……一芝居打とうか。」
打ち合わせをしてから2人は丁度ヒースクリフから見える位置に移動して小芝居を見せる事にした。
「なあ、ヒースクリフ……もしかして家帰ったんじゃないか?」
「……家に……?」
「とりあえず俺、行って確認して来るからお前は買い物済ませて来いよ。服のセンスはもうお前に任せるからさ……」
「ああ、分かった。」
グレゴールはムルソーと反対方向へ進み、物陰からムルソーの姿を見守った。
ヒースクリフが出て来れば何かと理由を付けて戻るつもりだったのだ。
(流石にムルソーに服選ばれるのは嫌だろ……)
そう思ってのあの会話だった。
「……!」
果たしてグレゴールが思った通りの考えで出て来たのかは分からないが、ヒースクリフがムルソーの後に付いて行くのが見えた。
グレゴールは物陰から出て2人に近付いた。
(……あ……偶然見つけた体を装った方が自然かな……)
直前でそんな事を思い付いて急遽追加で小芝居を入れる事にした。
「お、おお!ヒースクリフ!探したんだぞ〜!」
「……」
「……」
振り向いたヒースクリフの暗い表情を見てグレゴールは引き攣った笑みを消した。
「……ヒースクリフ。いつの間に私の後ろに……」
「ぁ……あの、さ……全部……聞いてたから……」
グレゴールとムルソーは目を見合わせた。
「あ……あはっ……そうだったのか。」
「……迷惑かけて、ごめん……」
「……」
ヒースクリフがこうして謝る時は大抵心に余裕が無い時だ。
ヒースクリフとそこまで長い時間を過ごした訳ではないが、グレゴールはそれが分かっていた。
「……」
「……?」
ムルソーが目配せをして来たのが見えたが、グレゴールには意図が分からなかった。
「……では、昼食をとってから買い物に行こうか。」
「……ぇ……?」
グレゴールが何か言うより早いか、ムルソーはヒースクリフに背中を向けて歩き出した。
そして、その上着をヒースクリフが掴んだ。
「な、なあ……さっき、言えなかったんだけど……」
ムルソーは足を止めて振り向いた。
「……いいよ。俺に、そんな金使わなくて……ベッドとか、ソファで充分寝れるし……」
「……」
「間に合ってるから……大丈夫だって……なあ、せっかく、休み取ったんだから……時間、勿体無いよ……」
「……ヒースクリフ。」
必死にムルソーを引き止めるヒースクリフに耐えきれずグレゴールは間に入った。
「どうしたんだ……?お前さんの中で何があってこうしてるんだ?何がそんなに不安なんだよ?」
「……」
「……一回、話してみようぜ。な?そしたらちょっとは……」
グレゴールはそこで言葉を切った。
ヒースクリフは、冷や汗を流して、目を見開いて、唇を震わせていた。
何かに怯え切った表情で、グレゴールを見ていた。
「……ヒースクリフ……?」
「ッ……」
ムルソーの呼びかけによってその顔が更に歪んだのを見て、グレゴールは唖然としてしまった。
ヒースクリフが走って行っても、追いかける事が出来なかった。
「……」
ムルソーは何かを見極めようとするかのようにヒースクリフを見つめていた。
グレゴールには、一体何が悪かったのか、ヒースクリフに何があったのか、何故こうなったのか、分からなかった。
「……彼の状態には周期があるようだ。」
ムルソーは至って冷静にそう呟いた。
「色々な感情を怒りで表現する時と、ああやって沈む時と、それ故に感情的になる時がある。」
「……随分落ち着いてんな。」
「貴方よりも彼と対峙しているつもりだから。」
「……それは何だ?マウント取ってんのか?」
「マウントを取っているつもりは無い。」
「ふ〜〜ん……?で、何だよ?」
「……次は感情的になる時期だ。」
ムルソーはハッキリと、そう言い切った。