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    inumata0823

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    inumata0823

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    ニコル&シルヴィア
    短編小説

    星と星を繋ぐ手白い壁に囲まれたメインルームは、空調の低い唸りと書類の紙音だけで満たされていた。

    ニコルは机の端で端末を操作しながら、横目で反対側のソファに腰をかけてタブレット端末を操作するシルヴィアを見る。

    「.....設備点検の要請書を午前中までに回すように、との事だ。君が昨日まとめていたEGO抽出要請リストも添付してくれ。」

    「分かった。」

    「よろしく頼むよ。」

    静かな時間がしばらく続く。
    新規幻想体のエンサイクロペディアの件、収容室の点検予定、換気設備の再調整.....業務的なの会話を交わしながら、ニコルの指先はどこか落ち着かず、提出書類を留めるクリップをカチカチ鳴らす。

    ふいにその指が止まる。
    ニコルはゆっくりと顔を上げ、まるで日常会話をするような自然なトーンで問いかけた。

    「.....若しも、私が君のことを忘れたら、君はどう思う?」

    シルヴィアの瞳が一瞬だけ細くなる。
    2秒ほどの沈黙の後、その返答は意外なほどあっさりとしたものだった。

    「.....なんとも思わん。ただ、最初から仕事を教えるのが面倒だ。」

    その言葉を聞いてニコルは小さく息を吐いた。
    安堵とも楽単ともつかぬ表情で白い紙を這う文字の大群を眺める。

    「そうか。.....話を戻そう。午後の洞察作業だが、湿度調整の優先度を上げておいた方がよい。」

    まるで何事もなかったかのように再び業務のやり取りが続いた。
    しかしその一瞬のやり取りは、確かに二人の間の空気を重くしていた。


    ニコルが作業へ向かった後、メインルームにはシルヴィア一人だけが残った。
    壁際の棚に立てかけられた書類束に目をやるが手は伸びない。
    白いソファに腰を下ろし、腕を組んだまま天井を見上げる。

    .....なぜ、あんなことを聞いた。

    ..... 若しも、私が君のことを忘れたら、君はどう思う?

    唐突で脈絡のない質問.....ニコルは意味不明な事を頻繁に言うが、あんなに真剣で真っ直ぐな質問はかなり新鮮だった。

    シルヴィアは眉間に皺を寄せ、脚を組み替える。
    忘れる、というのは記憶喪失の意味か.....それとももっと別の.....。
    頭の中に浮かぶ可能性を次々と否定しながらも完全には振り払えない。

    「ただの戯言だ。」

    と低く吐き捨てるように呟く。
    しかし、その声色には苛立ちだけでなくわずかな不穏が滲んでいた。

    端末の着信音も、遠くで作業を行っているはずのニコルの足音も、この空虚な部屋には届かない。
    シルヴィアはただ答えのない問いを抱えたまま、じわじわと胸に広がる不快なざわめきを抑えきれずにいた。


    ニコルは静かな廊下を歩きながら作業用端末を胸に抱えたまま足を止めた。
    ふと、脳裏に昨日の「検診」の情景が蘇る。

    .....定期検診。健康管理の一環。そういう名目で、ニコルだけが定期的に受けている。
    しかし昨日受けた検診で、モニター越しに映る管理人が何気ない口調で言った言葉が耳に引っかかっていた。

    「次の検診で記憶の一部が消えるかもしれない。特に頻繁に接触している人物については。」

    その時は冗談だと思っていた。
    しかし今、シルヴィアの顔が脳裏に浮かび胸の奥で不安がどんどん大きくなる。

    自分は“蒼星”の光に触れた存在。
    無意識のうちに蒼星と繋がった脳は、外郭の秘密や真理と呼ばれるものを、断片的に知ってしまっている.....らしい。
    その断片は管理人によって時折抜き取られる。
    危険な記憶や知識は自己崩壊を防ぐためという名目で削除され、別の記憶に書き換えられることもある。

    しかし、ニコル自身はそれがどんな意味を持つのか深く理解してはいない。
    ただの健康診断、精神安定のための措置、そう信じている。

    廊下の照明が彼女の影を長く落とす。

    .....もし、シルヴィアと過ごした記憶が消えてしまったら?

    一瞬立ち止まり思考したが、考えるのをやめた。
    そして何事もなかったように再び歩き出し、収容室の扉を開けた。


    ニコルは作業を終えて設計チームの殺風景なメインルームに戻ってきた。
    白いソファに深く腰を下ろすと端末を膝に置き、歪な模様が走る白い壁をただ見つめる。

    .....記憶が、消えるかもしれない。
    特に、頻繁に接触している人物の記憶が。

    その言葉が頭の中で何度も反響していた。
    指先を無意識に組み合わせ、ゆっくりと解く。その繰り返しで時間が過ぎていく。

    すると足音が近づき、大きな影が視界に映る。
    そこには幻想体の作業レポートを持ったシルヴィアが立っていた。
    普段なら向かいのソファに座る彼女が何故か躊躇なくニコルの隣に腰を下ろす。

    「ニコル。」

    低く、硬い声が名前を呼んだ。

    「さっきの質問だ。.....あれは何故聞いた?」

    ニコルは少しだけ視線を上げてシルヴィアと目を合わせる。
    真っ黒な瞳に映る自分の顔がわずかに揺れて見えた。

    「ただ、確認しておきたかっただけだ。」

    淡々とした口調でそう返す。

    「確認?」

    シルヴィアは眉をひそめる。
    シルヴィアの視線はしばらく鋭くニコルを捉えた。

    「.....訳を言え。貴様、何か隠しているな。」

    ニコルはほんの一瞬だけ視線を逸らしたが、シルヴィアの鋭い眼光に耐えられず、やがて静かに口を開いた。

    「.....管理人に、次の定期検診で記憶の一部が消えるかもしれない、と言われた。」

    その声色は淡々としていたが言葉の内容は重く響いた。

    「特に.....頻繁に接触している人間に関する記憶が、だそうだ。」

    その抑揚のない声の調子が逆に現実感を増す。

    シルヴィアの表情がわずかに揺らぐ。

    「.....何だと?」

    シルヴィアは微かに動揺し、必死に次の言葉を探す。

    「ニコル...」

    呼びかけたその瞬間ニコルはゆるやかに立ち上がった。

    「書類を提出してくる。すぐ戻る。」

    それだけ告げるとデスクから黒いファイルを手に取り、ヒラヒラと手を振って白い壁の向こうへと歩いていく。

    残されたシルヴィアは遠ざかっていくその小さな背中を黙って見送った。


    その日も設計チームのフロアはいつも通りの静寂に包まれていた。
    白い空間にわずかな足音と機械の低い稼働音だけが響く。

    午前は書類整理と報告書の下書き。ニコルはソファ横のデスクに座り、手際よくPCへ入力を続ける。ソファに深く腰掛けたシルヴィアは、幻想体の抑圧作業に使う端末を点検しながら何度もトランシーバーに短く通信を受けていた。

    昼休憩も二人は同じソファに座ってそれぞれ無言で軽食を済ませるだけ。

    午後には抽出チームへの書類の受け渡しがあり、ニコルは一人でフロアを出た。廊下の照明が白く反射するたびに朝のやり取りが頭をよぎる。

    .....次の検診で記憶の一部が消えるかもしれない。

    管理人の声は淡々としていながらも、耳の奥に張り付いたまま離れない。

    作業の合間、資料棚から必要なファイルを抜き取る指先が一瞬止まる。

    もし、今日隣にいた彼女のことを忘れてしまったら.....。

    考えるたび、胸の奥に小さな痛みが走る。

    夕方。愛着作業の報告を終えた後もニコルの視線は時折遠い景色に吸い込まれる。
    打ち明けた時のシルヴィアの顔が頭から離れない。
    タブレット端末を叩きながら黙々と仕事を続ける。
    やがて定時を過ぎ、2人は管理人に作業の進捗メールを送信したが、ニコルの耳にはまだ管理人のあの言葉が残響のように響き続けていた。


    深夜のメインルーム。
    部屋の照明は落とされ、薄暗い空間にソファの上の小さな寝息だけが規則正しく響いていた。ニコルは静かに眠っており、白い毛布の端から細い指先が覗いている。

    シルヴィアは部屋の壁際に立ったまま、その姿をしばらく見つめていた。普段は何かと口を挟む彼女が何も言わない。ただ、昼間のやり取りが脳裏を離れなかった。

    .....記憶の一部が消えるかもしれない。

    あの時の微かに揺らいだニコルの笑顔が重なって、胸の奥に重たいものが沈んでいく。

    忘れさせない方法。

    いくつも思い浮かべてはすぐに打ち消す。
    記録に残すか? だが記憶が消されるのなら記録も同時に消される可能性がある。
    物を贈るか? その物が「誰からのものか」を忘れたら意味はない。
    それなら.....感覚で刻むしかないのかもしれない。声の響き、仕草、反射的に浮かぶ匂いや感触.....それらを日常に染み込ませれば、完全に消されることはないかもしれない。

    シルヴィアはそっと壁から離れ、ソファの肘掛けに腰を下ろした。毛布から覗くニコルの手を握ろうとして、触れることなく引っ込める。

    「.....面倒だ。」

    そう小さく呟き、向かいのソファに横たわる。瞼の裏にはいつものニコルの顔が浮かぶ。それを必死にかき消している間に夜が更けていった。


    朝のメインルーム。
    人工灯の光が白く床を照らす中、シルヴィアは珍しく早くから忙しなく動き回る。コーヒーを片手に、黙々と何かを机に並べている。

    ニコルはソファから起き上がると、その光景をじっと見た。

    「朝から随分と忙しないな。」

    シルヴィアは返事をせずに手元の作業を続ける。机の端にはメモのような紙、細かい備品、そして小さな金属製のタグが置かれていた。

    午前の業務が始まっても、シルヴィアはやけにニコルの動きに干渉してくる。資料を受け取るとき妙に近くに立ったり、短い会話の中でニコルの名前を呼ぶ回数を増やしたり。

    「.....今日はやけに距離が近いな。何かあったのか?」

    「気にするな。業務上の都合だ」

    言葉を濁し、すぐに話題を切り替える。

    昼休憩になってもその態度は続いた。普段はこちらを気にもとめないシルヴィアが、黒いマグカップにココアを淹れ、手渡す時には名前を口にする。視線も必要以上に合わせてくる。淹れてくれたココアはニコルが好んで飲んでいたものだった。

    「シルヴィア。何を企んでいる?」

    「企みなどない。」

    そう言ってまたもすぐ別の話題に移す。

    午後の作業に向かうニコルは小さく首を傾げながらもそれ以上追及しなかった。シルヴィアはニコルに気付かれずやり過ごす度に胸を撫で下ろしながらも、頭の中では次の手段を既に考え始めていた。

    午後の業務が終わりに差し掛かる頃、シルヴィアはニコルが立ち寄る場所や机の引き出し、さらにはPCの上にも、小さなメモやタグ、付箋をさりげなく貼り付けていた。それらには日付や些細な出来事、そして必ず「シルヴィア」という名前が記されていた。

    ニコルは引き出しを開けてそれを見つけるたびに首を傾げる。

    「.....また君か。此れも業務の効率化の一環か?」

    「そうだ。後で役に立つ。」

    「何に?」

    「.....後でわかる。」

    明らかに答えをはぐらかしているが、ニコルはそれ以上問い詰めなかった。


    夕方。シルヴィアは強引にニコルの横に座る。会話の節々に意図的に自分の名前を挟み込み、さりげなく互いの記憶に刻み込むようなやり取りを繰り返す。

    「今日の君は本当に妙だな。」

    「妙で結構だ。」

    シルヴィアはニコルから目線を逸らすものの、その目には確かな焦りが滲んでいた。


    夜。業務を終えた後もシルヴィアはニコルが通る通路の片隅に目印のような小物を配置していく。
    それはまるで、見えない鎖でニコルの記憶を繋ぎとめようとするかのようだった。

    翌朝もその行動は続き、ニコルの疑問は日に日に強くなっていく。

    「君は一体何を恐れている?」

    「恐れてなどいない。ただ.....」

    短い沈黙のあと、シルヴィアは視線を逸らし、いつものように業務の話へ切り替えた。

    メインルームの片隅。
    業務の手を止めたニコルが真っ直ぐシルヴィアを見据えていた。

    「シルヴィア。君は最近ずっと様子がおかしい。私の行く先々に目印を置き、やたらと名前を出す。.....何を、恐れている?」

    向かいのデスクに座るシルヴィアはタブレット端末から視線を外さずに短く返す。

    「恐れてはいない。業務の一環だ。」

    「嘘をつくな。君はもっと合理的に動く人間だ。」

    淡々とした追及にシルヴィアの眉がわずかに寄る。

    「詮索はやめろ。」

    「話してくれ。私は知らなければならない。」

    静かな圧力に押され、シルヴィアは短く息を吐いた。

    「.....貴様が次の検診を受けるとき、一部の記憶が消えるかもしれないと言ったからだ。」

    「.....」

    「特に頻繁に接触している者の記憶が、だ。」

    ニコルはしばし沈黙したままシルヴィアを見つめた。
    その視線は怒りでも悲しみでもなく、ただ深く考え込む色を帯びている。

    「其れで.....君は私を忘れない様にしているつもりか。」

    「面倒ではあるが、貴様の記憶が消えるのは.....嫌だ。だからやる。」

    真っ直ぐな告白にニコルは目を丸くする。
    その後顔を逸らし、少し切なげな表情を浮かべてすぐにいつもの笑顔に戻る。

    「然らば努力は認めよう。但し、成功するかどうかは別の話だ。」


    夜の空気がメインルームを包み込む中、ニコルはロベリアから貰った分厚い天体の本のページを意味もなくめくりながら、シルヴィアの言葉を反芻していた。

    「貴様の記憶が消えるのは.....嫌だ。」

    その一言が頭にこびりついている。

    本来定期検診はただの業務の一環に過ぎなかった。
    脳波の数値の確認、軽い問診、いくつかの検査。終わればまた淡々と日常に戻る。

    けれど今は.....それがすぐそこ迫っているというだけで妙なざわめきが心の奥で広がっていく。

    もしもシルヴィアのことを忘れてしまったら。

    彼女の声も、表情も、時折見せる不器用な優しさも、全て濃い霧の向こうに消えてしまったら..........

    端末の時計に目をやる。

    あと三日。

    数字は確かにそれだけを示しているのに、胸の奥では数字が進む度にシルヴィアとの思い出が霞んでいってしまうような、そんな感覚に囚われていた。

    作業報告書や資料を整理する手を動かしながらも、意識は何度も同じ場所に戻ってくる。

    .....検診を受けたくない。

    こんな感情は初めてだった。
    命令に従うことを疑ったことがなかった自分が、今はどうにかしてこれを避けられないかと考えている。

    向かいのデスクでシルヴィアは相変わらず資料に目を走らせている。
    視線を向ければ彼女はきっといつも通りの鋭い目で睨み返すだろう。
    そのやり取りすら、もしかすると三日後には.....と考え、思わず視線を逸らした。

    時間は止まらない。

    秒単位で減っていく残りの日々が、今までよりもずっと重く感じられた。


    翌日。検診まであと3日。
    メインルームの静寂の中、ニコルはシルヴィアを注意深く観察するようになった。
    資料の整理中にふと視線を上げ、対面に座るシルヴィアの顔をじっと見てみる。表情や瞳の色、わずかな癖まで心に刻み込むように。
    休憩中には、何気なく会話の端々を録音機能付きの端末で記録する.....もちろんそれを悟られないように自然な笑みを添えて。

    「.....貴様、何をしている。」

    シルヴィアが眉をひそめて問う。

    ニコルは手元の紙をトントンと揃えながら淡々と答えた。

    「君の表情を観察していたんだ。」

    「観察?」

    「少しでも君の記憶を焼き付けておきたい。」

    それ以上は何も説明せず、再び視線を資料に戻す。
    シルヴィアはしばらくこちらを睨みつけたあと、再びキーボードを叩き始める。

    午後になれば二人で食事を取るいつもの時間。
    ニコルは何気なく座る位置を変え、シルヴィアの動きがよく見える場所に陣取る。

    「今日はそこに座るのか。」

    「気分だ。」

    そう短く返すと、味気ない真っ白な缶詰を掻き込むシルヴィア。その手の動きや視線の動かし方まで、静かに記憶へと焼き付けていった。

    全てを強く記憶に焼き付ける.....そんな一日が淡々と続いていく。

    作業の合間、シルヴィアは黒いマグカップにココアを淹れ、無言でニコルのデスクに置いた。

    「ありがとう。」

    その一言を言いながらニコルは少し長めにシルヴィアに視線を送る。そしてココアに向き合い、香りや温度を記憶し、マグカップの縁を指でなぞる。ただの備品だったマグカップにシルヴィアの影を刷り込む。

    夕方には作業報告を終えた二人でソファに並んで座り、何気ない話をした。

    「君は、此の様なゆったりした時間は嫌いか?」

    「.....ふん、悪くない。」

    ただの会話.....だが、それは互いにとって小さな思い出になっていく。

    二人とも明確に「残そう」とは言わない。
    それでもその一瞬一瞬を、相手が心に刻むために共有していることは互いに分かっていた。

    その夜、業務を終えても二人はいつもより言葉が少なかった。
    静まり返ったメインルームに、機械の低い稼働音だけが響く。

    「もう寝る時間だ。」

    ソファに腰掛けたシルヴィアは、毛布を持って目の前に立つニコルにそう告げる。

    ニコルはほんの一瞬だけためらい、それからシルヴィアを見つめる。

    「今日は床ではなく、其処で君と眠っても好いだろうか。」

    その問いにシルヴィアは渋い顔をした。普段なら断るところだが、ため息を吐きながら頭を搔く。

    「.....勝手にしろ。」

    その声音は、拒絶ではなく、不器用な許容の響きを帯びていた。

    毛布を広げたニコルがソファの端に腰を下ろすと、シルヴィアも深く背もたれに沈み込む。
    ニコルがもぞもぞと動き始めたかと思うと、シルヴィアの膝に頭を乗せる。
    シルヴィアは一瞬硬直したものの、膝に感じる温もりに解され、やがて瞼を閉じた。

    .....温かい。

    その感覚を、忘れたくないと強く思う。

    二人は言葉を交わさずに眠りへ落ちていった。

    この部屋も、施設も、変わらず地下の闇に閉ざされたまま。しかしこの夜だけは、ほんの少しその闇が薄れたように感じられた。


    翌日。検診まであと2日。
    ニコルは書類作業の合間にこっそりと紙と鉛筆を取り出していた。
    横のソファでノートPCを叩くシルヴィアをちらりと見やり、その輪郭をなぞるように線を走らせる。
    表情は少し鋭く、しかし瞳の奥に宿る光まで描き込もうと何度も筆先を往復させた。

    仕上がった似顔絵は、本人の冷徹さと、どこか無意識に滲む優しさを同時に捉えていた。
    ニコルはそれを何も言わず壁に貼り付ける。

    それに気づいたシルヴィアがずかずかと壁に近寄る。

    「貴様、何を勝手に貼っている。」

    その声はいつものように低く、即座に紙を剥がそうと腕を伸ばしかけた.....が、その手は空中で止まった。

    紙の中の自分をただじっと見つめる。
    眉間にわずかな皺を寄せながらもゆっくりと伸ばした手を下ろす。
    普段なら即座に処分するはずのそれを、長く目に留めてしまっている自分に気づき、シルヴィアは小さく鼻を鳴らした。

    「.....ふん。くだらん。」

    ニコルは何も言わず、ただその様子を横目に見て静かに席へ戻った。

    昼下がりのメインルーム。
    書類の山を片付け終えたシルヴィアが何かを考え込み、机の引き出しを開けた。
    中から小さな黒い革のしおりが出てくる。角には銀の細い金具がつき、端に短い紐が垂れている。

    シルヴィアは、2本の人差し指でノートPCのキーボードを鳴らすニコルをちらりと見やり、何の前触れもなくそれをニコルの机の上に置いた。

    「.....余っていた。使うなら勝手にしろ。」

    そうぶっきらぼうに呟き、視線も合わせない。

    ニコルは手を止め、その小さな品をじっと見つめた。
    触れると、革の感触が手に吸い付くようで、紐の先の細工が柔らかく揺れる。

    「ありがとう、シルヴィア。」

    そう呟き、シルヴィアの背を見送る。

    それからしばらくニコルは、そのしおりを両手で大切に抱えたまま眺め、机の上に置いたカップの横にそっと置き直した。
    その仕草はまるで壊れやすい宝物を扱うかのように慎重だった。

    シルヴィアは少し離れた場所からその様子を横目で見るが、何も言わず、ただ書棚に背を預けて煙草に火をつける。
    だがその視線は、しおりを手にしたニコルの指先から離れようとはしなかった。


    夜のメインルーム。
    ソファに座って壁を凝視しながら煙草を吸っているシルヴィアの元に、ニコルが小さな箱を抱えて入ってきた。

    「シルヴィア。此れをやろう。ちょっとした遊びを持ってきた。」

    箱の中には白黒の駒とボード、簡単なルールの説明書。
    シルヴィアはそれを見て眉をひそめた。

    「.....子供の遊戯に付き合う趣味ない。」

    しかしニコルは空のダンボールを引きずりソファの前に置くと、自分のデスクから持ってきたクッションをダンボールを隔てて正面に置く、急いたように腰を下ろし、ダンボールの上に盤を広げる。

    「仕事ばかりでは頭も鈍る。ほんの少し、試してみても損はない。」

    シルヴィアはため息を吐きながら渋々白い駒を手に取った。

    数十分後。
    盤面はほぼニコルの優勢。次の一手でシルヴィアは敗北した。

    「.....っ、何故そこでその駒を動かした。」

    低く唸るような声でシルヴィアが詰め寄る。

    「君が次に動かす場所を星に聞いただけだ。」

    淡々と返すニコルは満面の笑みを浮かべている。

    シルヴィアは腕を組み、そっぽを向いた。

    「くだらん。運が良かっただけだ。」

    しかし耳まで赤くなっているのを、ニコルは見逃さない。

    「.....次は勝てるといいな。」

    その一言にシルヴィアはさらに顔をしかめた。

    .....次、か。


    翌日。検診前日。
    早朝の事だった。珍しく台所から香ばしい匂い.....というよりは、何かが焦げたような匂いが漂ってきた。

    ニコルが眉をひそめながら覗くと、簡易キッチンのあちこちに本を散らかしたままで、エプロン姿のシルヴィアが無骨にフライパンを振っている。

    「シルヴィア。一体何をしている。」

    問いかけるニコルにシルヴィアはデタラメにフライパンを振りながら答える。

    「見ればわかるだろう。朝食だ。」

    テーブルに並べられたのは、もはやスクランブルエッグに見えるぐちゃぐちゃの卵焼きと、漆黒の食パン、そして具が偏った変な色のスープ。

    ニコルは一瞬言葉を失う。

    「.....君が此れを?」

    「そうだ。」

    腕を組んで短く頷くシルヴィア。

    仕方なくスプーンを取り、スープをひと口。
    .....しょっぱい。やけにしょっぱい。
    それでもニコルは飲み込み、いつもの笑みを浮かべた。

    「.....驚いたよ。まさか君が料理など。」

    シルヴィアは腕を組み、視線を逸らしたまま言う。

    「こういう方が記憶に残るだろう。.....少なくとも忘れられない味のはずだ。」

    ニコルはスープをもう一口すすり、口に広がる個性的な味を感じて顔が引き攣る。しかし不器用ながらも朝食を作ってくれたシルヴィアの顔を見ると、自然と優しい笑みが零れた。
    味はともかく、この奇妙な朝の光景は確かに記憶に刻まれるような気がした。


    午前中の設計チーム。
    今朝の異様な朝食の記憶を引きずりながら、ニコルは静かに机に向かって書類整理をしていた。
    隣のソファにはシルヴィアが座り、いつものように幻想体の研究資料を淡々と読んでいる.....はずなのだが、視線が時折こちらに流れてくるのをニコルは感じ取っていた。

    「何か御用かな?」

    視線を外さずに問いかけるニコル。

    「別に。」

    と、いつもよりも早口で返すシルヴィア。

    午前中最後の仕事。ニコルは記録チームへ書類を提出しに向かっている。廊下を歩きながらも頭には管理人の言葉と、シルヴィアの不器用な行動が交互に浮かんで離れなかった。

    昼食時、蕩けた顔でドーナツを頬張るニコルの隣でシルヴィアが横で白い缶詰を掻き込みながら言った。

    「.....貴様。昼食を菓子で済ませる気か?」

    「最後に残る味は、最も好きなものの方が好い。.....記憶にも残りやすい。」

    その答えにシルヴィアは一瞬だけ言葉を詰まらせ、何も言わずに不味い缶詰めを口に運んだ。

    突然目の前に細かい砂糖の粒がついた薄茶色のドーナツが差し出される。
    ニコルの方を見ると、目をキラキラさせながらこちらの様子を伺っているようだ。

    シルヴィアは深く息をついてそれを受け取ると、三口で口に詰め込み咀嚼する。
    初めて口にするドーナツの甘い味は、不思議と舌の上に残り続ける。

    昼下がりの空気は、いつもよりも少しだけ重く、そしてどこか温かった。


    午後、設計チームは静まり返っていた。
    ニコルは机に向かい、午前中に記録チームから受け取った新しい資料をまとめていたが、ふとした瞬間にペン先が止まり、何度も同じ文面を読み返している。
    理由は分かっていた.....管理人の告げた「検診」のことが、頭から離れない。

    .....明日。2人だけのこの小さな思い出が、全て無くなってしまうかもしれない。

    向かい側では、シルヴィアが管理人からの分厚い指示書に目を通している。
    その表情はいつも通り冷淡で集中しているように見えるが、時折視線が紙から外れてニコルの手元にちらりと向く。
    ニコルはその視線を感じながらも、何も言わずに作業を続けた。

    午後三時を過ぎた頃、アンジェラから短い業務連絡が入る。
    シルヴィアはそれを受け取り、即座に立ち上がった。

    「少し出る。この書類をそこに置いてる黒いファイルに綴じておけ。」

    「わかった。」

    ニコルは淡々と答えてペンを置く。

    シルヴィアがフロアを出て行くと、広い空間には機器の微かな作動音だけが残る。

    ニコルは深く息を吐き、机上の資料を整える。ふと視線を壁に貼られた似顔絵へ移した。
    あれを見たシルヴィアのあの微妙な表情.....迷っているような、喜んでいるような。
    思い出そうとすると胸の奥が妙にざわつく。

    夕方、シルヴィアが戻ってくると二人は並んで次の報告書を仕上げた。
    互いに口数は少ないけれど、妙に時間がゆっくりと流れる午後だった。


    深夜。
    静まり返った設計チームのメインルーム。ニコルはタブレット端末を膝に置き、ソファに身を預けてまぶたを落としかけていた。
    その時不意に影が差す。顔を上げるとシルヴィアが何も言わずに立っている。

    「.....どうした?」

    問いかける間もなく冷たい指が手首を掴み、強く引っ張る。

    「黙って来い。」

    返答も待たずにシルヴィアは歩き出す。

    ニコルは半歩遅れてシルヴィアについて行く。その大きな歩幅についていけず、走って追いつき、また遅れては追いつき、と繰り返す。
    二人はエレベーターに乗り込み、上昇する。そのうち妙だとすぐに気付いた。

    抽出チームの管理区画に降りるには長い。やがて扉が開くと、目前に真っ赤な床が広がる。
    そこはニコルが入ることを禁じられている区画だった。

    「シルヴィア.....何をしている。私は此処へ立ち入ってはならな.....」

    「黙れ。」

    傷だらけの赤い廊下を歩きながら、先程からシルヴィアがエレベーターにかざしている黒いカードを覗き込む。
    それはロベリアの社員証だった、再びそれをかざして扉を開けると黄色い床が広がり、中央に設置された巨大なエレベーターに乗り込む。

    エレベーターを降りた先、紫色の床が広がる廊下の奥で、分厚いバインダーを持ったロベリアが他の職員達に指示を出しながら夜間工事の監督をしている。こちらに気づいたロベリアは優しい笑みを浮かべて小さく手を振る。
    シルヴィアはそんなロベリアを見て頭を搔きながらため息を吐き、少し渋い顔をしながらも軽く手を上げて振り返す。

    二人はそのまま反対側の廊下を突っ切り、再びエレベーターへ乗り込む。
    ニコルの胸中に不安が広がる。規則と命令に絶対に背くことのないはずのシルヴィアが、自ら禁を破っている。

    さらに上階へ。
    夜間灯の赤い明かりが時折廊下を照らし、シルヴィアの横顔を血のように染める。
    そんな横顔を眺めながら、ただひたすらにシルヴィアについて行く。

    階段をひたすら上り続け、息を整える間もなくニコルはシルヴィアの後を追う。
    周囲に人の気配はなく、壁に並ぶ監視カメラは何故か全てあらぬ方向を向いていた。

    「.....シルヴィア.....君は本当に何をしている。」

    ようやく口を開いたニコルの声は震えている。
    しかしシルヴィアは振り返ることもなく、歩調を崩さずに答える。

    「貴様に見せたいものがある。」

    「見せたいものとは?」

    疑問を重ねてもそれ以上は語られない。

    やがて階段は終わり、長く狭い廊下が現れる。
    不安な表情を隠せないニコルを尻目にシルヴィアはさらに前へ進んでいく。

    廊下の突き当たり、黒鉄のような重い扉が立ちはだかっていた。
    光沢はなく、表面には古い擦り傷が無数にはしっている。

    シルヴィアはそこでようやく歩みを止めた。

    「.....着いた。」

    シルヴィアは迷いなく重い扉を押し開ける。
    軋む音が廊下に反響し、その隙間から柔らかな光が漏れ出す。

    ニコルが一歩踏み出すと、

    そこは頭上いっぱいに広がる無限の星空だった。

    黒々とした天幕に数え切れぬほどの星々が瞬き、流れ星のような光跡がゆるやかに横切っていく。
    緩やかな冷たい風が頬を掠め、肌を冷やしていく。

    .....屋上。
    そう見えるが、実際は壁一面を覆う巨大なスクリーンに映し出された虚構の星空。自然風を再現したファン。この景色は本物ではない。

    しかしニコルの目に映る星空は、間違いなく本物の星空と同じ煌めきを放っていた。

    「.....貴様。暇さえあればあのヘンテコな星の本を読んでいたな。同じ星空のページを、クセがつくまで何度も。」

    隣に立つシルヴィアの声が妙に穏やかに響く。

    「実物は無理だが、これぐらいなら見せてやれる。」

    ニコルは声を出そうとしたものの、喉が震えただけで言葉にはならなかった。

    ただ、視界のすべてを埋め尽くす星々を、瞬きも惜しんで焼き付ける。

    二度とこの美しい星空が見られなくても、せめてこの一瞬を、永遠に留めておきたい。そう胸の奥で静かに願いながらキラキラと輝く星たちを、その背景にある漆黒の闇を、呼吸も忘れて目に映す。

    シルヴィアはそんなニコルを横目で見やり、何も言わず、星の海の中にただ立ち続けた。

    シルヴィアがおもむろにポケットを探って白色の箱を取り出し、一本のタバコを咥える。
    オイルライターを開くピーンという音と、火打石が火花を散らし、煙草がジジ...と焼ける音が小さく弾け、白い煙がゆるやかに夜空へ溶けていく。

    しばらく二人の間に静寂が漂った。
    シルヴィアが短く息を吐きながら口を開く。

    「.....私がここに来る前にも、星を見たことがある。」

    ニコルは少しだけシルヴィアの顔を見る。

    「本物の星空だ。空気は刺すように冷たく、息を吐けば白くなった。」

    シルヴィアは視線を星空に向けたままで静かにそう呟く。溺れそうなほど深い星の海の中で、風が梅鼠色の長い髪を微かに揺らした。
    ニコルはその横顔を目に焼きつける。

    「いつか.....ここを出られる時が来たら、貴様にも見せてやる。」

    その言葉は投げ捨てるようにぶっきらぼうだった。

    ニコルは何も言わず、そっとシルヴィアの手を取った。
    シルヴィアはそれを振り払うことなく、ただ指先の温もりを受け入れる。
    シルヴィアの冷たい手が、ニコルの温度で徐々に温もりを帯びていった。

    二人はそのまま言葉も交わさず、星々の海を眺め続けた。

    時間だけがゆっくりと流れ、やがて煙草の火が静かに消えた。

    吸い終わったタバコを足先で静かに踏み消すと、シルヴィアは夜気に溶けるような低い声で

    「.....帰るぞ。」

    とだけ告げた。

    二人は手を繋いだまま、先程来た道をゆっくりと歩き出す。
    階段を降りるたびに硬い鉄製の踏板がわずかにきしみ、その音が無人の廊下に薄く反響する。

    施設の上層階はどこも静まり返っており、人工灯の淡い光が壁を照らし、二人の影を長く引き伸ばしていた。

    遠くで機械が回る低い唸りや、工事の作業音が途切れ途切れに耳に届く。
    冷たい空調の風が足元を流れ、握った手の温もりがかえって際立つ。

    二人は何も言葉を交わさず、ただ互いの足音だけが小さなリズムとなって響き続けた。

    エレベーターを降りると、見慣れた無機質な白い壁が二人を囲み込む。
    その廊下を、ただ手を繋いだままゆっくりと進んでいった。

    メインルームに戻り、薄暗い灯りの中、二人は自然と同じソファに腰を下ろした。

    誰もいない広い部屋の中で、冷たい空調の風と互いの吐息だけが静かに混じり合う。
    寄り添う肩の温もりが、先ほどまでの冷え切った廊下とは別世界のようだった。

    シルヴィアの手をぎゅっと握ると、シルヴィアからも軽く握り返す。

    そっと目を閉じたニコルが小さな声でつぶやく。

    「.....きっと、忘れない。」

    しばしの間を置き、シルヴィアは迷いのない声で返す。

    「当たり前だ。」

    それ以上のやり取りはなかった。
    ただ、互いの距離を保ったまま安らかな沈黙に包まれ、二人はゆっくりと夢の中へ沈んでいった。


    夜が白み始めた頃、ニコルは静かに目を覚ました。
    隣ではシルヴィアがまだ深く眠っている。普段なら常に気を張っている彼女。
    その寝顔は珍しく穏やかで、起こすにはあまりに惜しい静けさだった。
    眠る彼女の顔をしばらくじっと見つめ、忘れないように、大切に大切に記憶する。

    ニコルはそっとソファから抜け出し、足音を殺して部屋を後にする。
    冷たい廊下を一人で歩くうちに、胸の奥で重たい不安が膨らんでいく。

    .....もし、本当に忘れてしまったら。

    足が自然と止まり、振り返れば来た道の向こうに薄闇の中のメインルームが見える。

    今なら、まだ戻れる。

    しかしその瞬間、昨日の夜のやり取りが脳裏を過った。

    「.....きっと、忘れない。」

    「当たり前だ」

    あの短いやり取りが胸の奥を締め付ける。

    逃げるわけにはいかない。

    そう言い聞かせ、ニコルは再び歩みを進めた。

    検診室の前に立つと、無機質な扉が不気味なほど静かに佇んでいる。
    一瞬、ドアノブを回そうとする手が止まる。
    ニコルは深く息を吸い込み、そのまま扉の取っ手を握りしめる。

    そして、躊躇いを押し殺すように静かに扉を開いた。


    検診室の中は白一色の壁と機械の低い駆動音が支配していた。
    ニコルは促されるままに簡素な椅子に腰を下ろす。金属の冷たさが背中に伝わってわずかに肩が強張った。

    正面には無表情な検診担当の職員。淡々とした声で「始めます」とだけ告げると、天井から降ろされたアームが静かにニコルの頭部を挟み込むように位置を取る。
    こめかみに冷たい接触が伝わり、すぐに微弱な振動が脳を揺らす。

    視界の端がにじみ、遠くで機械的なパルス音が断続的に鳴り始める。
    心拍に合わせるように頭の奥が締め付けられ、記憶のどこかが薄い霧に包まれていく感覚があった。
    その霧はまだぼんやりしているが、確実に輪郭を削っていく。

    「深呼吸を」職員に促されるままに息を吸い、吐く。

    それでも胸の奥にある昨日の星空、繋いだシルヴィアの大きくてゴツゴツした手、揺れる長い髪から覗く横顔、煙草の匂い、毛布の中の温もり、横で眠るシルヴィアの髪が少し顔にかかる時の感触、ゆっくりとした呼吸、繋いだ手から伝わる確かな鼓動。全部を強く思い出す。


    忘れない。


    やがて機械音が止み、アームが頭から離れる。

    「検診は終了です。お疲れ様でした。」

    その一言と共にニコルはゆっくりと目を開けた。
    なんだか頭が軽くなったようにスッキリしている.....

    この感覚が一体何を意味するのか。この瞬間にはまだ分からなかった。


    メインルームの白い静寂の中、書類を机いっぱいに広げていたシルヴィアは扉が開く音に顔を上げた。
    そこに立っていたのはニコル。のはずだった。

    「検診は終わったのか。」

    書類を手に持ったまま早足で近づくシルヴィア。しかし、その問いかけに返ってきた言葉は、あまりにも無慈悲だった。

    「.....なぜ君が、私が検診を受けたことを識っている?」

    淡々とした声色。しかしそこには確かに困惑の色が浮かんでいた。

    そして、その口から続いたのは.....

    「私は今日からここに配属された新任職員のニコルだ。.....君がチーフのシルヴィアか?」

    一瞬、時が止まったようだった。

    シルヴィアの手から掴んでいた書類の束がバサバサと音を立てて床に落ちていく。

    何が起こっているのか理解できず、全身に冷たい感覚が広がる。

    目の前に立つその人物は、に顔も声も確かに昨日まで隣にいたニコルそのもので.....なのに.....

    その瞳には一片の熱も灯していない。

    シルヴィアは言葉を失い、書類を持ったままの形をした指先だけが震えていた。

    思い沈黙の後、堰を切ったように言葉が溢れ出した。

    「貴様.....本当に何も覚えていないのか?」

    「昨日、あの屋上で星を見ただろう!ボードゲームで私を打ち負かして.....ムカつく顔で笑って!.....似顔絵を描いて壁に貼ったのも.....!朝食を作った私を見て.....あんな.....顔をしたのも……全部、全部.....!」

    呆然と立ちすくむニコルに、これまでの出来事をまくし立てるように語る。
    屋上での星空、手を繋いで帰った夜、ソファで寄り添って眠った時の温もり、
    些細なやり取りやその時の表情まで、途切れることなく吐き出してしまう。

    「君は何を云って.....」

    言葉の途中でニコルが僅かに顔を歪めた。

    「.....痛い。離してくれ。」

    シルヴィアは自分がニコルの両肩を強く掴んでいたことに気づく。

    ニコルは少し怯えたような様子でシルヴィアを見つめている。はっとして手を離し、一歩、また一歩と後ろに下がっていくシルヴィアを、ニコルは不思議そうに見つめた。

    首を傾げて、本当に意味が分からないという顔で。

    シルヴィアの中だけに残された記憶と目の前の無垢な視線が、シルヴィアの胸を深々と貫いた。


    その日以降もいつも通りに業務は続いていた。
    しかしシルヴィアの意識は別の方向を向いていた。
    机の上の書類に視線を落としながらも、頭の中で何度もかつてのニコルの笑顔や声が蘇っては途切れ、焦点を結ばないまま霧の中に消えていく。

    報告書の数字を二度間違え、メールの送信先を誤り、記録の取り忘れまでやらかす。
    いつもならあり得ない凡ミスの連続。その時、隣に立つニコルが静かに声をかけた。

    「.....君は優秀な人物だと聞いていたのだが。.....本当に大丈夫なのか?」

    何気なく投げられたその言葉が、胸の奥の膿んだ傷を乱暴に抉る。
    シルヴィアのこめかみが熱を帯び、口が勝手に開いた。

    「誰のせいでこうなったと思っている!」

    大きな声で吠え、机を蹴るように立ち上がってニコルの胸ぐらを掴む。

    視線が真正面でぶつかる。その瞳は明らかに怯えの色を帯びていた。

    まるで恐喝を受けているかのような、弱く、困惑した瞳。

    喉の奥がひどく詰まり、シルヴィアは言葉を失った。
    もうこれ以上顔を見ていられない。

    「.....ッ!」

    手を離してそのまま背を向ける。
    何かを言いかけたニコルの声を振り切り、扉を強く押し開けて廊下へ出た。

    後ろを振り返ることもなく、シルヴィアの大きな足音だけが殺風景なフロアに響き続けた。


    廊下に出たシルヴィアは足を止めたまま立ち尽くしていた。

    胸の奥から湧き上がるのは、怒りとも焦燥ともつかぬ濁った感情。
    苛立ちが指先まで痺れのように走り、どうにも収められない。

    「.....ッ、クソ.....!」

    拳を握りしめ、そのまま壁へ叩きつける。
    鈍い音が無機質な廊下に響き壁が大きく凹む。
    拳に伝わる壁の冷たさがさらに苛立ちを煽った。

    思い出す。
    ニコルと過ごした短くも濃い日々。
    なんともない言葉を交わし、寄り添い、時に衝突し.....それでも確かにそこにあった時間。

    今、そのすべてを覚えているのは自分だけ。

    「.....ふざけるな。」

    低く押し殺した声が漏れ、また拳が壁に叩きつけられる。
    一度では足りず、二度、三度と繰り返す。
    壁はボロボロと崩れ落ち、足元に蓄積していく。それでも拳は止まらない。

    やるせなさが胸を締め付け、呼吸が乱れ、思考はただ同じ円を描き続けた。

    .....何故あの時、もっと強く抗わなかったのか。

    .....何故、ニコルとの思い出を守れなかったのか。

    壁に押し付けた拳が力なく剥がれ、シルヴィアは壁に額を付けて深く息を吐いた。
    冷たい壁の感触だけが彼女を現実につなぎ止めていた。


    ニコルはシルヴィアの手から解放された襟をゆっくりと整える。
    胸元の皺を指先でなぞりながら先程の彼女の荒々しい振る舞いを思い出していた。

    何故あの人はあそこまで感情を剥き出しにしていたのか.....理由の見当はつかない。

    静かな空気の中、デスクへと歩み寄り椅子に腰を下ろす。
    ふと視界の端に映ったのは机の上に置かれた黒い栞だった。
    誰が置いたのかも、いつからあったのかも分からない。
    ただ、その存在が妙に気になり指先でそっと摘み上げる。

    触れると、革の感触が手に吸い付くようで、紐の先の細工が柔らかく揺れる。

    何気なく目を細めて見つめるうちに、頭の奥底で何かがざわついた。
    形を持たない靄のような映像や感情が、ぼんやりと浮かんではすぐに霧散していく。

    頭の中の霧を晴らすために目を閉じる。
    栞を持つ手はじっと熱を帯びたまま、答えのないモヤモヤが脳裏を行き来し続けていた。


    数日間二人は同じ空間で仕事を続けた。
    しかしシルヴィアは必要最低限の会話しかしようとせず、ニコルと目を合わせる時間さえ避けていた。

    結果シルヴィアの作業効率は目に見えて落ち、彼女が担当する幻想体の管理や資料精査の質も著しく低下していく。

    ある日呼び出しの通信が入り、シルヴィアは管理人の応接室へ向かった。
    モニター越しに硬い声で告げられる。

    「最近の仕事ぶりは目に余る。報告も遅れがちだし、ミスの数も増えている。...どういうつもりだ?」

    その声には冷たさと苛立ちが滲み、室内の空気が重く沈む。明らかな叱責だった。

    シルヴィアは原因が目の前の人物にあることを知っている。

    管理人がニコルに施した検診という名の記憶処理.....あれが今の自分の苦しみを作り出したのだ。

    胸の奥に沸き上がる怒りは喉元までせり上がる。
    しかしそれを言葉にすることは出来なかった。

    シルヴィアは歯を食いしばり、拳を固く握った。
    爪が掌に食い込む感触と骨が軋む音が耳の奥で響く。

    「.....申し訳ございません。」

    絞り出すようにそう答えるしかなかった。
    怒りも、やるせなさも、全て胸の内に押し込めたまま。


    メインルームでの業務中、ニコルはふとした瞬間に、目の端に映る"何か"に視線を向けることが多くなっていた。

    机の端に置かれたタバコの空き箱、テーブルの上にそのまま置かれたラベルのない空の缶詰。デスクの上に無造作に置かれた黒いマグカップ。

    どれも自分の記憶にはないのになぜか"見慣れている"ような気がする。

    書類整理の合間にそのマグカップの縁を指でなぞった瞬間、胸の奥で小さなざわめきが広がった。

    .....此れは.....確か.....。

    思考が形になる前に霧のように溶けて消えてしまう。

    シルヴィアの態度も気になる。
    業務連絡は淡々としているが、どこか壁を作っている。

    視線が合えば逸らされ、近づこうとすればわずかに距離を置かれる。
    それなのに、時折その瞳が何かを言いたげに揺れるのを感じる。

    あの日.....初めて顔を合わせたにもかかわらず、彼女は強い怒りを見せた。
    感情をむき出しにし、胸ぐらを掴んでまで何かを訴えようとした。

    その理由がどうしてもわからない。

    「.....私の識らぬ何かが有る。」

    無意識にそう呟き、視線を机上の黒い栞へ移す。
    手に取るとまたあのモヤのような感覚が脳裏を掠める。

    触れた瞬間、脳内に濃い霧がかかり、呼吸が浅くなる.....しかしその霧の中にあるものに手を伸ばそうとすると、必ず消えてしまう。

    ニコルは確信し始めていた。
    シルヴィアの態度も、あの時の怒りも、自分に向けられる不可解な視線も.....

    全て自分が知らされていない重大な秘密に繋がっている.....と。


    シルヴィアはデスクに両肘をつき、額を深く押さえていた。
    管理人からの叱責の声が頭の奥でこだまし、仕事の山とニコルのことが重なって思考はとっくに限界を迎えている。
    書類の端は乱雑に折れ曲がり、灰皿には吸い殻が山のように積み上がっていた。

    足音が近づく。
    顔を上げる前に、足音の主が静かに問いかける。

    「.....君、何か私に隠していることはないか?」

    視線を上げるとニコルが立っていた。
    その顔にはいつも張り付いている笑顔はなく、何かを探るようにじっとこちらを見ている。

    シルヴィアはわずかに眉を寄せ、目線を手元のレポートに移した。

    「.....唐突だな。何故そう思う?」

    「其の様に感じるからだ。私が知識らぬことを、君は識っている気がしてならない。」

    レポートを持つ指先に力が入る。
    胸の奥で反射的に込み上げる言葉をどうにか飲み込み、短く吐き捨てた。

    「.....くだらん推測だ。」

    しかしニコルは一歩も引かない。

    「くだらないのならば否定する筈だ。其れでも君が黙っているのは、矢張り何かあるからだろう?」

    鋭い視線がぶつかり合う。
    シルヴィアは喉元までこみ上げた答えを押しとどめて目をそらす。
    その沈黙が、何よりも雄弁にニコルの疑念を確信へと変えていった。


    ニコルはそれからというもの、やたらとシルヴィアの行動半径に入り込むようになった。

    書類整理をしていれば向かいの机に座り、作業の手元をじっと観察する。
    廊下を歩けば少し距離を置きながらも必ず足音が後ろに続く。
    そして別に用事があるわけでもないのにタイミングを見計らって話しかけてくるのだ。

    「.....また来たのか、貴様。」

    面倒そうにそう言い放つシルヴィアに、ニコルは小さく肩をすくめた。

    「君と話すのは悪くない。何より、少し君のことを識っておきたい。」

    その「識っておきたい。」という言葉にシルヴィアの眉間がわずかに寄る。

    しかしニコルは気にも留めず、さりげない質問を繰り返す。

    —入社前は何をしていたのか。
    —どんな戦い方をするのか。
    —好きな食べ物は何か。
    —休暇があれば何をしたいのか。

    いずれも仕事とは直接関係のない問いばかり。
    それでも積み重なれば私生活の輪郭が見えてしまうような類の質問だった。

    シルヴィアはことごとく答えを濁すが、ニコルは諦める様子を見せない。

    書類を渡すとき、作業の合間、昼休憩.....
    気がつけば一日の中で何度もその静かな視線が向けられていた。

    それは探りを入れているというよりも、何か確信を求めるような.....
    忘れた記憶の欠片を、無意識に拾い集めようとしてるかのような行動だった。


    ニコルは書類を抱えて廊下を行ったり来たりしていた。
    頭の中ではシルヴィアのことばかりが渦を巻いている。
    なぜ自分を避けるのか、あの日の感情の爆発は一体何だったのか.....
    その答えを探そうと考え込むあまり、視界はぼんやりと霞んでいた。

    ふと床を這う低い音が耳に届く。
    視線を音に向けると、廊下の端から巨大な芋虫が何匹も蠢き出ていた。
    黒光りする節足が床を擦り、鋭い牙が並ぶ口が音を立てて開閉する。
    冷たい唾液の匂いが鼻を刺した。

    それでもニコルの意識は現実よりも脳内の映像に囚われていた。
    足を動かす反応が遅れ、芋虫たちは一斉に口を広げて飛びかかる。
    掠める影が視界を覆い、白い牙が眼前に迫る。

    「あ。」

    その瞬間大きな手が力が強く手首を引いた。

    身体ごと後ろへ引っ張られて視界が揺れる。
    ちらりと見えた景色、揺れる長い髪の奥に、険しい表情をしたシルヴィアが居た。

    揺れる髪.....横顔.....

    その手の感触.....瞬間的に脳裏を閃く光景。

    あの日。

    眠たい中、力強く手を引かれた感触。

    深夜の屋上。

    冷えた夜気の中で交わした無言の約束。

    廊下の喧騒と芋虫のざわめきの中で、その記憶があまりにも鮮やかに蘇った。

    ニコルは目を見開き、息を飲む。

    シルヴィアは何も言わず、ただニコルを背後へ押しやるようにして前に立ち塞がった。

    シルヴィアの拳が、蹴りが、芋虫の頭部を的確に叩き潰すたび、粘つく体液が飛び散り白い壁や床に生臭い斑点を刻んでいく。

    無駄な動きは一切ない。足払い、硬い外殻を砕く打撃、踏み潰す重い音。すべてが瞬時に次の獲物を仕留めるための動きだった。
    その背中は誰よりも大きく、そして頼もしかった。

    しかしニコルの意識は目の前の現実から遠ざかっていた。

    .....手を引かれた感触。

    あの日、星空の下で。
    その時の空気の匂い。

    ただその一瞬の映像だけが、頭の中で何度も何度も何度も鮮やかに再生される。
    目を閉じずとも、視界の端に焼き付いて離れない。

    肩を揺さぶられる感覚でようやく意識が現実に引き戻される。

    「.....ル、.....コル.....ニコル!」

    振り返るとそこには全身に芋虫の体液を浴びたシルヴィアが立っていた。

    息を切らしながら真っ直ぐにこちらを見つめ、言葉よりも先にその瞳が「無事か」と問いかけている。

    「.....あぁ.....無事だ。」

    咄嗟にそう返す。

    けれど頭の中では星空の下でのあの一瞬.....
    その映像だけが何度も繰り返しループしていた。



    ニコルのデスクの上にノートが一冊広げられている。
    ページの端は折れ、ところどころインクがにじんでいた。

    ニコルは、部屋中に散らばる「シルヴィアの痕跡」を一つひとつ拾い集めていた。

    机の引き出しに紛れ混む短くなった煙草のフィルター、書類の束に挟まっていた乱雑なメモ、PCに貼り付けられた付箋、あちこちに散らばるタグ、デスクにぽつんと置かれた黒いマグカップ.....。

    それらを丁寧にノートへと記し、手触りや匂い、置かれていた位置まで細かく書き留めていく。

    「此れは.....何時から此処に有る?」

    自分に問いかけるように呟くたび、頭の中にかすかな映像が浮かびかけては霧のように消えていった。
    どうしても掴めない。けれど確かに"何か"がそこにあった感覚だけは残っている。

    ノートのページは次第に文字とスケッチで埋まっていく。

    「一緒に過ごした日々」を形にして、記憶の欠片を少しでも繋ぎ合わせようとしているのだ。

    ペン先が止まり、真っ白な壁を見やる。
    閉ざされた地下施設の中、星空など見えるはずもないのに、胸の奥であの日見た星空がほんの一瞬、しかしあまりにも鮮明に揺らめいた。

    ニコルはすぐに首を振り、再びノートに向かう。
    思い出すために。失われたはずの"何か"を取り戻すために。


    昼下がりのメインルーム。
    書類の束が乱雑に積まれたデスクに向かい、シルヴィアは無言でペンを走らせていた。
    その手つきはぎこちなく、紙の端を掠めるように震えている。
    息は浅く、眉間には深い皺。

    何日もまともに休んでいない。
    業務の負担に加え、ニコルの姿を目にするたびに胸の奥を締めつけられる感覚に耐えながら過ごしてきた結果だ。
    管理人に何度も叱責され、セフィラとの合同会議でも晒し者にされ、給与も半分以上減らされて、彼女の心とプライドはズタズタだった。

    それでもシルヴィアは歯を食いしばって耐え忍ぶ。.....しかし

    「.....ッ」

    デスクから立ち上がろうとした次の瞬間、シルヴィアの体が前のめりに崩れ、デスクの上の書類がバラバラと床へと舞い散る。
    硬い音を立てて倒れ込むその姿はどうしようもなく弱々しく見えた。

    「.....シルヴィア?」

    通りかかったニコルが声をかけたが返事はない。
    慌てて駆け寄り、散らばった書類の中央でうつ伏せに倒れたシルヴィアの肩を揺らす。
    かすかな呼吸はあるものの、意識は深く沈んでいるようだった。

    ニコルは一度周囲を見回し、近くのソファを見つける。

    「.....ふむ。仕方がない。」

    ぽつりとそう呟くと星の音を呼び寄せ、シルヴィアの体を持ち上げさせた。

    床に散らばった書類は風もないのに静かに震え、白い紙面が光を反射して冷たく光っていた。
    ニコルはどこか切なげな顔でそれを見つめて、すぐにソファの方向に向き直った。

    星の音たちはシルヴィアをソファにそっと横たえ、ニコルはその上に毛布をかける。
    そして何となく、無意識のうちにソファのすぐそばの床へ腰を下ろした。
    冷たい床板の温度が体に伝わるが、不思議と落ち着く。

    .....胸の奥がざわめく感覚。

    あり得ないはずの映像がまるで現実のように蘇ってくる。

    .....それは毎晩のようにこの光景が繰り返されていた記憶。

    シルヴィアソファで横になって眠り、ニコルはその脇で、こうして床に座って眠っていた。

    時折彼女の寝返りに合わせて毛布の端が落ち、ニコルの肩を覆ったことも、彼女の頭の脇で眠った時に垂れた髪が額に落ちてきたことも.....

    「.....」

    掴みきれない記憶の断片を追いかけながら、ニコルはそっと視線を上げた。

    眠るシルヴィアの顔は普段の鋭さを欠いて柔らかい。
    睫毛がわずかに震え、浅い呼吸が胸元を上下させている。
    その静かな寝顔を、ニコルは言葉もなくただ見つめ続けた。


    シルヴィアは薄く目を開け、見慣れた天井をぼんやりと見上げた。

    しかし次第に視界の端に白いソファの背が入り込み、自分がそこに寝ていることに気づく。

    「.....?」

    記憶をたどろうと眉を寄せたとき、デスクで抱えていたはずの書類が手元にないことに気づいた。

    視線を巡らせると、デスクの上に整然と積み直された書類が置かれ、肩にかけられた毛布がふわりと床に落ちた。
    それを見た瞬間状況がすぐに結びついた.....自分が倒れ、ニコルがここまで運び、書類も片づけたのだろう、と。

    記憶を失った今のニコルにとって自分はただの上司にすぎない。

    それどころかここ数日間、感情的に怒鳴りつけ、あからさまに避け、散々な態度を取ってきた相手だ。

    それでもニコルは健気に自分の心配をしてくれる。

    ソファに横たわったまま、シルヴィアは視界の端にうつるニコルの後ろ姿を見つめる。
    棚の上にあるファイルを、踵を浮かせて手に取るその姿は、かつて自分の隣に立ち、同じ空気を吸い、同じ星空を見上げたあの日の彼女と全く同じだった。

    何故、突き放しても突き放しても、
    貴様は無条件に優しいのか。

    胸の奥が熱くなり、息が詰まる。
    悲しみなど感じない。罪悪感など感じない。
    そのはずなのに涙が頬を伝い、ソファの端に静かに落ちていった。


    深夜。
    シルヴィアは薄暗いメインルームのソファで腕を組んだままうとうとしていた。
    机の上には書類が散らばったままで、片付ける気力すら残っていない。

    その下の床にそっとニコルが腰を下ろす。

    「.....何のつもりだ.....」
    低く問う声は力なく掠れている。追い払うべきなのは分かっている。
    しかしもう腕を動かす気も立ち上がる気も湧かなかった。

    ニコルは何も言わずにただ視線を前に向けたまま座っている。
    シルヴィアもまた、それ以上口を開かなかった。

    静寂。
    時計の針の音と、換気の低い唸りだけが空間を満たす。
    互いに言葉を探すでもなく、否定も肯定もしないまま、
    ただ同じ場所で無言の時間だけが長く流れていった。

    沈黙が続く中ニコルがふと息を吐き、わずかに視線を落とした。

    「.....君に言うべきことではないのかもしれぬが.....」

    声は低く静かで、どこか自分に言い聞かせるようだった。

    「私は...何か大切なことを忘れている気がしてならない。
    .....君と過ごしていると、其の断片だけが妙に鮮やかに蘇っては、私を苦しめる。」

    シルヴィアはその言葉にまばたきを忘れたかのように目を丸くする。

    「.....何だと?」

    ニコルは淡々と続けた。

    「形も輪郭も定かではないが.....確かに其処に有ったはずの記憶だ。
    .....だと云うのに、どうしても掴めない。.....君も、其の一部なのかもしれない。」

    その言葉はシルヴィアの胸の奥に重く突き刺さった。
    それでも返すべき言葉は喉の奥で凍りついたまま出てこなかった。

    やがてニコルは床で小さく寝息を立て始める。
    シルヴィアは先程のニコルの告白を思い返していた。

    .....記憶が蘇りつつある。

    それは細く頼りないものではあったが、彼女にとってそれは確かな希望だった。


    翌日からシルヴィアは密かに動き始める。
    過去、二人が共に経験した些細な瞬間.....
    同じ机で肩を寄せて報告書をまとめたあの日、その時と同じ並びで椅子を置いたり、
    星空の映像を見に行った夜と同じ角度でさりげなくニコルの手首に触れる。

    「また妙な位置に椅子を置くのだな。」

    ニコルは怪訝そうに眉をひそめる。

    「業務の動線を考えてだ。」

    シルヴィアはぶっきらぼうに返す。

    本当は二人で書類を山のように積み上げて過ごしたあの夜を再現しているだけだった。

    休憩中にはわざとタバコの煙を吐く角度を変え、あの屋上で見上げた星空のときと同じ仕草を繰り返す。

    「何故わざわざ私の方へ煙を流す。」

    「偶然だろう。」

    そう言いながらもシルヴィアは視線を逸らさなかった。

    時折ニコルの表情が一瞬だけ揺れる。
    記憶の奥底に眠る何かが、微かに波紋を広げているのをシルヴィアは感じ取った。
    そのわずかな変化に、彼女は心の中で小さく息を詰め、さらに次の「再現」を仕込むのだった。


    深夜
    ソファでうたた寝していたシルヴィアの視界に、毛布を手にしたニコルの姿が入った。
    黙って睨みつけると、ニコルは怯むことなく隣に腰を下ろし、そっとシルヴィアの顔色を伺う。

    そしてシルヴィアの肩に頭を預け、ためらいがちに手を伸ばし、その指先がシルヴィアの大きな手を包み込む。

    その瞬間

    星空.....あの夜の映像が脳裏に鮮明に広がった。

    人工の天穹の下で二人並んで見上げた光の群れ。

    そして、その後の帰り道。
    手を繋いだまま歩いた無言の時間。

    廊下を歩いた後ソファに腰を下ろし、指を離さず眠りについた温もりまでもが、記憶の底から鮮明に浮かび上がる。


    「……きっと、忘れない。」


    気づけばニコルの唇がそう紡いでいた。

    シルヴィアはその言葉に息を呑み、目を見開く。
    隣を見るとニコルは真っ直ぐに視線を返してきた。

    短く、しかし確かな声で返す。


    「当たり前だ。」


    シルヴィアの短い返答が何かの合図のように脳内で弾けた。

    .....忘れない為に必死で過ごした日々。

    机に置かれた黒い栞。

    壁に貼りつけた稚拙な似顔絵。

    不器用な料理の味。

    小さな勝負の夜。

    これまで点のように浮かんでは消えていた記憶が、まるで一本の糸で結ばれていくように繋がり始める。

    断片だった光景が色と温度を伴って鮮やかに蘇り、胸を締めつける。

    ニコルは遠くを見るような虚ろな瞳で、しばらく瞬きすら忘れていた。
    その表情にシルヴィアは僅かに眉をひそめる。

    「.....おい、ニコル.....?」

    返事はない。ただ呆然と、何かを追いかけるように視線を彷徨わせるニコル。

    .....そして、浮かび上がってきたのは最も近くにあったあの記憶。

    眠り込んだシルヴィアの背をそっと離れ、冷たい廊下を一人歩いた夜。

    薄暗い灯りの下、足音だけが響く長い通路。

    何度も振り返りそうになりながらもただ前へ進んだ。

    その先にあった無機質な診察室の重たい扉。

    金属の匂いと低く唸る機械音がかすかに耳に蘇る。

    手をかけた瞬間の、冷たく硬い感触。

    .....なぜ向かったのか、何をされるのか、その時は深く考えなかった。

    ただ「そういうもの」だと受け入れていた。

    頭の中でばらばらだった断片が集まり、パズルのようにはまってゆく。

    星空を見た夜も、交わした言葉も、その直後のこの記憶も……

    散らばった星屑のような断片が線で繋がり、星座を創り出す。

    あの機械の上で、ただ一つの願いを必死に胸に刻んでいた。


    忘れない。


    星空の下でシルヴィアがかけた優しい言葉、差し出された小さな贈り物、互いの手の温もり。
    全ての瞬間を必死に抱きしめ、流れ去らぬよう、心の奥に刻みつけていた。

    そして、今。

    断片だった記憶が繋がり、巨大な星空のパズルを形作った時、
    ニコルの目から、大粒の涙が零れ落ちた。
    その涙は頬を伝い、顎からぽたりと床に落ちる。
    胸の奥で張り詰めていた何かが静かに解けていく感覚。

    傍らにいたシルヴィアはその涙を見て一言も発さず、そっと手を伸ばす。
    温もりが頬をかすめ、その感触が確かにここにあることを告げる。


    その温もりこそ、自分が必死に守りたかったものだ。


    最後のピースが完全にはまる。


    「.....シルヴィア.....ただいま。」


    涙でぐしゃぐしゃの顔を歪め、震えた声でただそう伝える。

    シルヴィアの瞳が大きく見開かれる。
    瞬きの間に、その瞳の奥に涙が滲み、光を反射して震えた。

    「.....思い出したのか?」

    声にならない。けれどニコルは、息を震わせ、口をへの字に結び、
    何度も何度も小さく頷いた。

    次の瞬間、ニコルは再びシルヴィアの胸に飛び込む。
    まるで今度こそ離すまいとするかのように、全身でしがみつきながら。

    目の端に涙を貯めるシルヴィアはニコルをしっかりと抱きしめ、無意識のうちにその頭に手を伸ばしていた。
    荒れた掌が、柔らかな髪を優しく撫でる。
    言葉はなくても、その仕草にすべての想いが込められていた。


    翌朝。
    メインルームのソファで目を覚ましたシルヴィアは寝ぼけ眼でゆっくりと上体を起こす。

    隣にいたはずのニコルの姿が見えず、眉をひそめた。

    「.....どこへ行った。」

    ソファから立ち上がり、探しに行こうとしたその瞬間.....

    キッチンから戻ってきたニコルが銀色のトレイを両手に持って現れる。

    白い皿には見た目にも丁寧に仕上げられた朝食が並んでいた。
    ふわりと立ちのぼる香りがかすかに空腹を刺激する。

    目を丸くするシルヴィアにニコルは薄く笑いを浮かべ

    「君より上出来だろう。」

    と、小馬鹿にするような口ぶりで告げる。

    「.....チッ、生意気な。」

    悪態をつきながらもシルヴィアは黙って皿を受け取り、ひと口。


    その口元は確かに笑みをうかべていた。



    時は遡り.....検診日 前日の昼。

    抽出チームの厚い扉が低い音を立てて開く。
    薄暗くジメジメとした空気、無数に並ぶ黒い柱、滅多に足を運ばない場所に、シルヴィアは眉間に皺を寄せたまま足を踏み入れた。

    静かな空気の中、歩みを進めると紅茶の香りが漂ってきた。

    「.....これはこれは珍しい。まさか君がここに現れるなんてね。」

    抽出チームのチーフ、ロベリアが小さなテーブルに向き合い、静かにティースプーンを動かして紅茶をかき混ぜている。
    その淡々とした声には嫌悪と警戒が入り混じっていた。

    「それ、備品の発注リストかい?君じゃなくてニコルから受け取りたかったな。」

    シルヴィアは視線を逸らし、拳を握って舌打ちをした後、短く息を吐く。

    「.....貴様に頼みがある。」

    「へぇ.....」

    ロベリアの黒い瞳がシルヴィアを捕える。

    「君が私に頼み...ねぇ.....?」

    互いに睨み合ったまま沈黙が流れる。

    「とりあえず座ったらどうだい。ニコルが来ると思って紅茶を用意してしまったからね。」

    シルヴィアはしばらく用意されたカップを見つめ、静かに席についた。

    目の前に座るロベリアを刺すように睨みつけながら、シルヴィアは嫌悪感を押し殺して口を開いた。

    「今日の夜、ニコルを屋上まで連れて行きたい。管理人に気づかれずにな。」

    ロベリアはわずかに目を細め、無言で紅茶のカップを机に置く。

    「ニコルは下層部から出られない決まりだよ。君が規則を破る提案をするだなんて。一体どういう風の吹き回しだい?」

    シルヴィアは一瞬だけ口を閉ざし

    「理由を言う必要はない。協力するか、しないかだ。」

    と吐き捨てる。

    「理由を言わないならしない。言うなら協力してやらなくもない。」

    ロベリアは紅茶を一口静かに飲み、シルヴィアの目を真っ直ぐ見つめる。

    シルヴィアは口篭り、しばらくティーセットが立てる小さな音だけが真っ黒な部屋に響く。

    「ニコルが...ニコルが.....その.....」

    ロベリアはシルヴィアが目を逸らすと指先でコツコツと机を叩き始める。
    ロベリアが机を鳴らすコツコツという音だけが時計の秒針のように響く。シルヴィアは観念したように息を吐き、続ける。

    「ニコルが、明日受ける定期検診で.....私に関する記憶が消えるかもしれないと.....言った。」

    ロベリアの動きが凍りついたように止まる。

    「どういうこと?説明して。」

    ロベリアは鋭く光る黄色の瞳でシルヴィアを見つめる。

    「言った通りだ。.....ニコルはO-03-93の影響による自己破壊を防ぐために定期的に検診を受けている。その中で記憶の操作や削除が行われているようだ。.....アクセス権限のある資料を確認するに.....どうやら触れてはならない情報の一部に、私との記憶が強く癒着しているらしい。」

    ロベリアは変わらずにシルヴィアを黄色い瞳で睨みつける。目を逸らして吸い込まれるように紅茶を見つめるシルヴィアの瞳は小さく揺れている。

    「私は.....私は、ニコルの記憶が消えるのは.....嫌だと思った。」

    その言葉が出た瞬間にロベリアは目を見開き、シルヴィアの指先を見る。震える指先はカップに注がれた紅茶に微かな波紋を作っていた。

    「.....忘れる前に.....いや、忘れない為に.....ニコルに星空を見せてやりたい。彼奴は...貴様から貰ったあの天体の本を.....暇さえあれば眺めて星座のページを見ては目を輝かせていた。.....だから.....」

    しばらく重い空気が漂う。その空気を切り裂くようにロベリアが小さく笑い始めた。

    「貴様.....なにが面白い!」

    席から立ち上がってロベリアに掴みかかろうとするシルヴィアを手で制するロベリア。

    「すまない。...ぷっ.....くく.....落ち着いてよ。」

    シルヴィアは息を荒くして拳を強く握りながら動きを止め、ゆっくりと席に着いた。

    ロベリアは背もたれに寄りかかり、楽しそうにシルヴィアの方向を見やる。

    「いいよ。君に協力してあげる。」

    妙に明るい声でそう答えるロベリア。
    胸元の小さなポケットを漁り始めると、小さな黒いカードをテーブルの上に置き、シルヴィアの方へ差し出す。

    「はい。私の社員証。」

    シルヴィアは目を丸くしてカードとロベリアの顔を交互に見る。

    「設計チームのメインルーム以外、全ての部屋に立ち入る権限がある。明日の昼まで貸してあげるよ。」

    「貴様.....」

    「今夜は大規模な床の張り替え工事がある。だから深夜1時、全ての職員は上層と中層のフロアへの立ち入りが禁止になる。私と.....口を封じることが容易な事務員数人以外、ね。」

    シルヴィアはその黒く光るカードを手に取り、ロベリアの名前が掘られた金の彫刻の部分に少し触れる。

    「それと、君たちが通るルートの監視カメラは私が細工をしてあげよう。管理人はバカだから気づかない。」

    カードから視線を外し、ロベリアの目に向ける。全てを見透かすような真っ黒な瞳に自分が小さく映り込んでいる。

    「.....」

    黙って席を立ったシルヴィアは冷めた紅茶を置いて何も言わずに部屋を出ていく。

    「ニコルといい思い出を作ってあげて。.....この暗い集合墓地に来て、茶菓子を頬張りながら君のことを話してくれるニコルは.....とても生き生きしていたから。」

    シルヴィアは背後から聞こえた柔らかい声を聞かなかったふりをして歩みを速めた。

    こうして.....
    星空の下にニコルを連れて行く計画は、静かに動き出した。


    夜間作業終了後、深夜の抽出チーム事務室。
    ロベリアが欠伸をしながら書類を整理していると背後から冷たい音声が聞こえた。

    「職員ロベリア。少し、話があるわ。」

    振り返ればアンジェラが無表情のまま佇んでいた。

    「はい、何でしょうかアンジェラ様。」

    「あなた、監視カメラの映像に細工をしたわね。それと、他の職員への社員証の受け渡し。これは重罪よ。」

    その声音は淡々として、室内の温度が一気に下がったように感じられる。

    ロベリアは一瞬も目を逸らさず、微かな笑みを浮かべて答えた。

    「はい。私がやりました。」

    「理由を聞いてもいいかしら。」

    「黙秘いたします。」

    アンジェラはしばし沈黙し、重い口調で告げる。

    「あなたにレベルⅣの懲戒処分を言い渡すわ。もちろん3人分。職員シルヴィアに社員証を渡した理由を言えば、.....そうね。レベルⅢくらいには留めてあげる。」

    ロベリアは分かっていた。アンジェラはニコルが屋上に行ったことを知っている。知った上で理由を聞いている。

    ロベリアは一切の動揺を見せずに静かに答える。

    「私の独断で行いました。理由は述べません。」

    「.....そう。」


    その日の昼。
    抽出チームの執務室に、珍しくシルヴィアが姿を見せる。
    ロベリアは机に向かい、湯気を立てる紅茶を音もなく啜っている。

    「貴様。庇ったそうだな、私を。」

    視線を合わせずに低く問いかけるシルヴィア。

    ロベリアは紅茶を置き、軽く息を吐く。

    「ニコルのためだよ。」

    その名を聞きいてシルヴィアの眉がわずかに動く。
    そしてしばらくの沈黙の後、ティースプーンに取った金色のハチミツを紅茶に混ぜ入れながらロベリアは淡々と告げる。

    「.....人の血など通っていない、感情のない機械だと思っていた君が、一人の人間のためだけに危険を侵す姿を見て.....少し、心が動いちゃった.....な〜んてね。」

    言葉を終えると、再びカップを手に取り、静かに紅茶を啜り、ほっと息を零す。

    シルヴィアはしばらく何も言わなかった。
    視線はロベリアの方に向けたまま、しかしその眼差しは戸惑いを隠しきれなかった。

    「.....気色が悪い。」

    そう呟いてテーブルに近づき、ロベリアの社員証を雑に置いた。

    「私はただ、ニコルの記憶が消えると面倒だからやっただけだ。勘違いをするな。」

    ロベリアはシルヴィアの顔を見て目線を逸らし、小さく笑った。

    「そうかい。それなら二度と言わないよ。」

    それきり二人の間に会話はなくなり、甘い紅茶の香りだけが静かに広がった。
    シルヴィアは踵を返し、扉の前で一瞬だけ立ち止まる。

    「.....借りは返す。」

    それだけ言い残して出ていった。

    ロベリアはその背中を見送りながらカップを軽く揺らして紅茶の表面に小さな波紋を作る。
    波紋で歪むロベリアの顔は、心做しか嬉しそうに見えた。


    数週間後 抽出チーム.....

    紅茶の湯気が立ち上る小さなテーブルの前で、ロベリアは黙ってカップを傾けていた。
    扉が静かに開く音がする。
    視線を向けるとそこにはシルヴィア。
    そして.....その背後から少し遅れて、ニコルが現れる。

    「.....来てくれたんだね。」

    ロベリアの声はいつも通り落ち着いているが、その瞳が僅かに揺れる。数週間前の一件以来、初めてシルヴィアが抽出チームに現れたからだ。

    ニコルは静かに歩み寄り、シルヴィアの隣に立つ。

    その表情は、検診後に淡々と書類を持ってきてくれていた頃とはまるで違っていた。
    落ち着きと温もりに満ち、そして何より.....

    シルヴィアを見るあの目。

    確信した。
    かつてのニコルが帰ってきたんだ。

    ニコルはロベリアが用意したテーブルの椅子を引いて ちょこんと座る。
    遅れてシルヴィアがゆっくりと椅子を引いて席に着いた。

    ロベリアは静かに紅茶を注ぎ、二人を見つめる。
    ニコルが持ってきた茶菓子の袋をテーブルに置いて言った。

    「君には、礼を言わねばならない。」

    弾んだ明るい声が響く。

    「.....私が失いかけていたものを、君は守ってくれた。だから、こうして戻ってこられた。
    彼の日見た星が、私とシルヴィアを繋いでくれたのだ。」

    ロベリアは何も返さず、ただ薄く笑みを浮かべた。
    その笑みには言葉では表せない安堵が滲んでいる。

    シルヴィアはロベリアから目を逸らしながら、手早く紅茶のカップを引き寄せる。
    その仕草は相変わらずぶっきらぼうだが、雰囲気だけはほんの僅かに柔らかい。

    茶菓子を皿に取り分けたニコルは差し出された紅茶を受け取る。

    三人の間に流れるのは、沈黙。

    しかしその沈黙は重苦しいものではなく、どこか安らぎすら感じさせるものだった。

    湯気の向こうで、シルヴィアを見るロベリアの眼差しが微かに優しくなる。

    「ありがとうねシルヴィア。.....君のおかげでニコルは楽しそうだ。」

    それは彼女の胸の奥でようやくほどけた小さな氷の欠片が、静かに溶けていく瞬間だった。

    「.....貴様に感謝される筋合いは無い。」

    そう視線を逸らしながら返すシルヴィア。彼女もまた、あの一件を通して少しずつ、その分厚い氷を溶かしているようだった。

    ニコルはそんな二人を交互に見つめながら、茶菓子に用意した小さなドーナツを頬張る。

    それはあの日シルヴィアと食べたドーナツのように、ほんのり甘かった。
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