原作雑土で連載してみる10 雑渡昆奈門が妻を娶るという噂を土井に聞かせたのは、学園長からだ。学園長室に呼ばれ、それを聞かされた山田と土井は、思いがけない話に驚いた。
学園長はその噂話について、事実かどうかを確かめるようにと、二人へ命じた。
「本当ならば祝いでも贈ってやるかと思っての」
学園長の言葉を、額面通りに受け取ったわけではない。が、
「わしのフィギュアでどうじゃ」
「やめて下さい!」
「嫌がらせにしてもひどいですよ!」
「なんじゃとー!?」
反射的に二人の口からツッコミが出て、山田も土井も怒鳴られる。
「いや、それは、結婚のお祝いには少々斬新すぎるかと……」
「他の殿方のフィギュアを新婚家庭に贈るのは、良くないでしょうから……」
言葉を選んで理屈で止めると、ようやく話が本筋に戻る。
「ふむ。では祝いの品はもう少し考えるか」
「それがいいです」
二人が同時に胸を撫で下ろす。
「まずは、話の真偽を確かめて来るのじゃ。祝いの準備があるから、早めにの」
「はっ」
頭を下げながら、本当に祝いをするのか、するとして何をするつもりか、二人の心には主に不安があった。
職員室に戻り、さてどうするか、と膝を突き合わせる。
「まったく、祝う気があるんだかないんだか」
「また変な事を思い付かなければいいんですが」
揃ってため息をつく。それから山田は、少し言いにくそうに口を開いた。
「雑渡のそんな噂は初めて聞いたが……。土井先生は、何か聞いてますか?」
「いえ、何も」
学園長に話を聞いてから今の今まで、土井の顔色は変わっていない。が、動揺していない訳ではなさそうだ。
「先日来た、尊奈門の様子は?」
「変わった様子はありませんでした」
「ふうむ。どちらにしろ、調べるのならタソガレドキに行かねばならんでしょうな」
「はい」
表情に変化はないが、口数はいつもより少ない。余計なお世話と思いつつ、山田は土井を見る。
雑渡との関係は、まだ続いているはずだ。
「半助。大丈夫か?」
「? 何がですか?」
きょとんとした土井は、何を尋ねられているのかが分からないようだ。
「だから、雑渡の事だ」
「はあ。しかし私はそもそも、あの人と先がある訳ではありませんし、こういう事もあるだろうとは思っておりましたので」
理屈ではそうだろう。
だが人の心は理屈ではないから、山田は心配しているのだ。
「私は大丈夫です。いつ向かいましょう? 授業の進捗からすると……」
土井はすらすらと話を進める。
あまりにも変わらない様子に、逆に心配になった。本当に何も思っていないなら、それで良いのだが。
「いっそ、雑渡さんに直接確認しますか?」
いや、いつも通りではないな。
「直接聞いて終わる話ならば、学園長が直接そうしてるでしょうよ」
学園長がわざわざ山田と土井に調べるよう言ったのは、裏があると思っているからだ。普段ならそれが分からない土井でもないだろうに、
「それもそうですね」
などと頷く。
明らかに、土井は動揺している。
それに安心すればいいのか、不安になればいいのか。山田は判断がつかなかった。
授業を他の教師に任せて、山田と土井はタソガレドキ領に入った。忍び装束ではなく、旅人の装いだ。
手分けして調べた結果、わかったのは、恐らく噂自体が意図して流されたものであるという事だ。
誰を、何を引っ掛けたいのかは分からない。
真偽についても、確信を持てるほどの決定的な情報はなかった。
強いて言うなら、嘘ではないか。土井はそう思う。主な根拠は、タソガレドキ忍軍の反応だ。
彼らは組頭を敬愛している。そんな彼が妻を迎えるとなれば、浮かれるか、逆に反発するか、何らかの反応が出るはずだ。
何しろ噂に出てくる女というのは、評判が悪い。不貞が理由で前の亭主に離縁され、実家にも見放されて寺に入れられる所だったという。とても雑渡の、「組頭」の妻になれるとは思えなかった。
雑渡が結婚するというのは、「嘘」である。それが土井の結論だ。そして情報の流れ方、広まり方から考えるに、この噂には裏があるはずだ。
ただ、自信はない。土井の心は当然、嘘であればいいと思っている。そのような願望を持ったまま動けば、情報を見る目が曇る。
山田と合流した土井は、私の見た所ですがと前置きして、自分の考えを話した。
土井の話を聞いた山田は、「その線が濃いな」と同意する。土井は己の判断が狂っていない事に、安堵した。
あとは「裏」まで調べられれば良かったが、短期間でそこまで探るのは無理だ。これ以上は、忍軍の内部事情に触れる事になる。一度忍術学園に戻り、学園長の指示を仰ぐ事にした。
「あの、お願いがあるのですが」
話し合いが終わると、土井は山田へ切り出した。
「何だ?」
「少し、寄り道をしてきてもよろしいですか?」
「構わんが……。用件は?」
「清算です」
山田は眉を寄せた。が、
「気をつけろよ」
忠告だけで、反対はされなかった。
清算。土井がその言葉で示す先は、雑渡でしかありえない。わかっていながら止めなかった山田に感謝しながら、土井は一人で移動していた。
雑渡に会おうと思い立ったのは、聞き込み中に、たまたま雑渡の居場所が掴めたからだ。それは忍軍の詰めている場所ではなく、とある武家の屋敷だった。
さすがに忍軍内部に忍び込む訳にはいかないが、それなら行けるかな、と思って赴いた。無理なら引き返そう、という程度だ。
目当ての屋敷は警戒体制という訳でもなく、静かだった。これなら、と思い、そっと忍び込んで、客人がいる事を確認する。
雑渡は特徴だらけの男だから、客が彼である事も、すぐにわかった。
確認ができると、土井は外へ出た。
雑渡が出てくるであろう門に当たりをつけて、近くの木の上に隠れ、気配を殺して待つ。
ある程度待って出て来なければ、そのまま山田の元へ戻るつもりだった。
そう時間はかからなかった。土井の読み通り、雑渡は数人の供を連れ、門から出てきた。正式な訪問だから、当然、忍び装束ではない。
土井はあえて気配を隠さず、潜んだ木の上から、雑渡だけを見ていた。雑渡が気付かなければ、わざとらしく音でも出そうかと思いながら。
その必要はなかった。雑渡は立ち止まり、供の者たちに何か告げて、彼らを先に行かせた。
それを見送ってから、まっすぐ土井の潜む場所まで近付く。
「珍しい人に、珍しい所で会うものだ」
雑渡は顔を上げないまま言った。声音に警戒は感じない。
「こんにちは。お忙しいところ申し訳ない」
木の上にしゃがんだままの土井は、雑渡に向けて適当な挨拶をする。そして雑渡の返答は待たず、そのまま続けた。
「お聞きしたい事があるのですが、少し宜しいですか?」
「今は忙しくてね」
「結婚されるというのは、本当ですか?」
雑渡は土井を見上げたが、何も言わなかった。
「学園長先生が、本当ならば祝いの品を準備したいと言い出しまして。こうして調べに来た訳です」
「お気持ちだけ受け取っておこう」
「伝えておきます。で、ここからは私の用件ですが」
土井は特に口調を変えないまま言った。
「私は、あなたとの関係を切ります」
雑渡が答えるまで、少し間があった。
「それは、私の結婚話と関係が?」
「ないですよ。いや、あるといえばあるかな?」
どっちだ、と見上げる雑渡の目が言っている。
「だって教育にも悪いし、何より、保護者に対して外聞が悪すぎるでしょう。妻帯者と関係する教師なんて、お母様方に嫌われてしまうのでね」
「なるほど」
雑渡は頷いた。そして、
「それで?」
冷たい声で返す。そんな理由で納得してもらえるとは、土井も思ってはいなかった。
土井としても、本音を隠す理由は、特にない。
「私はね、あなたとの未来なんて少しも考えた事はないんですよ。どのみち、長くは続かない関係ですから。でも、動揺しました」
「私が妻を娶る事に?」
「あなたが誰かを選ぶという事に」
土井は言い淀む事なく、言葉を続ける。動揺のない声音だ。強いて言うならば、いつもよりも、少しだけ早口だった。
「だから、潮時です。これ以上は、面倒になるだけだ。私も、あなたも」
土井は嫉妬を覚えた。自分と同じ火遊びの相手ではなく、雑渡の妻という、土井では到底なり得ない存在。実在さえあやふやな相手に対するどす黒い感情に、動揺した。
例え彼に別の相手がいたとしても、構わないと思っていた。男でも女でも、本気でも遊びでも、土井には関係ない話だと思っていた。本心からそう思えていた。最初のうちは。
以前はできていた線引きが、もう、自分の中で消えている。雑渡が触れるのが自分以外の誰であっても、苛立ちと嫉妬に苛まれてしまう。
潮時は、もうとっくに過ぎていた。
だが、今ならばまだ、ギリギリ引き返せる。これ以上は、踏み込むべきではない。
「もう充分遊んだでしょう。いい加減、不毛な事はやめませんか。互いに次に行きましょう」
「次?」
繰り返されて、土井は笑う。
「ええ。できれば私も、安心できる相手と共にいたいのですよ」
「私では不足だったと」
「そうですね。あなたの腕で安らげた事はなかった」
雑渡と共にいるのは嬉しく、その反面、疲れるものだった。閨で雑渡に害されるとは思っていない。ただ常に、警戒心は消せなかった。
彼との会話は悪くなかった。でもやはり、腹に何かを抱えながらのものになる。
情事の後で感じるのは、幸福感よりも、欲に負けたという砂を噛んだような後悔だった。
雑渡が悪い訳ではない。何度も雑渡に言われた通り、呼ばれたからなどという理由で来る土井が悪いのだ。
土井の想いも言葉も、一方的なものだった。雑渡の答えは、求めていない。土井は自身の意思を伝えただけだ。
雑渡が関係を続ける理由はわからない。だがもう、どうでもいい。土井は、続けられないと思った。それが全てだ。
土井半助は、これまでまともな恋を経験していない。色恋の心の機微を、本当には理解していない。
であるから、土井から目線を外し雑渡が黙り込み、何やら考え出したのを見ても、不思議に思うだけだった。
しばらく待つと、ようやく雑渡は顔を上げ、再び土井を見上げた。雑渡は、顔の半分以上を覆い隠しているにも関わらず、表情豊かな男だ。けれど今、その顔からは感情が消えている。
土井は、それさえ気にかけなかった。
「では、私はこれで」
「土井殿」
低い声は、かろうじて土井の耳に届いた。常の雑渡らしからぬ声色に、土井の足が止まる。
「最後に聞きたい事があるのだが、答えてもらえるか」
「答えられる事であれば」
「それでは困る」
粘られそうだと察した土井は、眉を寄せる。長居するつもりはない。山田を待たせているのだ。
だが、どうせ最後なのだ。
内心で山田に詫びつつ、少しくらいはいいだろうと思い直す。
「学園関係でなければ、答えますよ」
予防線だけは張り、承諾する。
雑渡は細めた目で土井を見る。
「ひとつは、安らげる相手とやらは、もう見つかっているのか」
「そんな訳ないでしょう」
土井はあっさりと答えた。嘘ではない。心当たりさえない。
「だろうな」
雑渡が薄く笑うのが、癪に触る。どういう意味だ、と返しそうになるのを何とか堪えた。
「お互い忙しいのだから、さっさと終わらせましょう。あと聞きたいのは何ですか」
雑渡と長く話をするべきではない。今更のように、土井は思い出した。
「では、もうひとつ」
ゆっくりと言う雑渡の目線は、射抜くような鋭いものになっていた。
「どうしたら、先程の別れを撤回させられるか」
予想していたどれとも違う問いに、首を傾げる。
何があろうと、撤回するつもりはない。そう言えば良いのだろう。だが苛立ちが収まりきっていない土井は、
「あなたの結婚話が嘘か真か、今ここで真実を教えて頂けるのであれば」
あえて試すような言い方をした。
できるはずがない。土井はそう思っていた。
山田と二人で調べても、推測でしか結論を出せなかった。明らかに情報を撹乱させている。真偽がどちらだとしても、そこには何か理由があるはずだ。
そして雑渡は、忍務の事となれば、甘さを見せる男ではない。
不意に、視界から雑渡の姿が消える。
そしてすぐ側に、圧迫感さえ感じる影が現れた。目線を上げると、土井と同じ枝に、雑渡が立っていた。
しゃがんだ土井を見下ろすその顔は、影になって見えない。
土井が慌てて立ち上がると、そのまま、木の幹に身体を押し当てられた。
咄嗟に左腕を盾のように構えて、右腕が懐の出席簿に伸びる。雑渡はその両腕を、強い力で押さえた。
耳のすぐ側で、囁く声がした。
「嘘」
え、と土井が声にならない声を出す間に、雑渡は土井の左手を取った。
「ぃッ……!?」
唐突な痛みに、土井が顔を歪める。雑渡の持つ土井の左手、その親指と人差し指の間の膨らみに、雑渡が歯を立てている。
雑渡が左手を解放すると同時に、土井が手を引く。
「何をするッ……!」
「約束は守ってもらうよ、土井殿。それから」
土井を見下ろす雑渡の目には、底の知れない光があった。そこに何かを感じ、土井の怒りが、すぅっと消えていく。今の彼を刺激してはいけない。そう直感した。
雑渡は人差し指を口に当てて、低い声で続けた。
「その傷が消えるまでは、他言無用」
鋭い目に射抜かれて、土井は無意識に頷いていた。
「では」
短い言葉を残して、雑渡は消えた。
気配が消えても、土井はしばらく動けなかった。詰めていた息を吐き、無意識に拳を握ろうとした。
「いてッ……!」
左手の痛みに顔を顰める。ずきずきと、熱を持った傷を見る。また人目につく所に痕を残された。
まずは手当てをしなければ。
それに、そう。山田先生を待たせている。
早めに合流したほうがいい。
今の出来事は、山田に話そう。
土井には、判断ができない。
雑渡の考えなど、わからない。何ひとつ。
痛む左手を抱えるように胸に寄せ、土井は山田の元へ向かった。
「と、いう訳でして」
忍術学園への帰路の途中。
手にくっきりついた歯形と情報を持って帰って来た土井は、雑渡とのやりとりをすべて山田に話した。もちろん、他言無用のくだりも。
山田は何とも言えない顔で、話をすべて聞いた。ため息をつきたいのを堪えながら。
「なるほど……」
「まぁどこまで本当かは怪しいものですが」
土井が言うと、山田は肩を落とす。
雑渡の土井への執着は、当の本人には、まるで通じていない。土井から話を聞いているだけの山田さえ、理解できたというのに。
「半助。あの男と切れるというのは、本音で言ったのか?」
「はい」
勿論そうだろう。でなければ、雑渡もこんな行動には出ないはずだ。
「承知してもらえると思っていたんですがねぇ」
土井はまだそんな事を言っている。
少し雑渡が哀れになったが、そもそも土井はこういう男だ。そんな男に手を出したのは雑渡だ、と思い直す。
ただ、それでも。土井から聞いた哀れな顛末を、せめて学園長には報告しないでおこう、という程度の慈悲はあった。
「では学園長への報告は、最初のもので良いだろう。結論は同じだからな」
「はい」
土井は素直に頷いた。
まったく、分かっていないにも程がある。
土井は以前からそうだった。忍者としてあらゆる知識に精通した土井は、当然、色の道についても知識豊富だった。それが経験に裏打ちされたものであるのも、察せられた。
だというのに、いざ市井に馴染んだ土井半助は、普通の色事にとことん鈍かった。好意は無視する、執着からは逃げる、本能的な性欲は後腐れのない相手で解消する。すべてを無意識にやっていた。彼に惹かれた者たちは、すべて弾き返されて去るしかない。
惚れた腫れたの話はあくまでも他人がするものであって、自分には関わりがない。土井のそんな意識が透けて見えて、山田はようやく彼がまともな色恋沙汰を経験した事がないのだと気付いた。
では、と山田は考えた。
彼が惚れた相手ができたと言ったなら、自分は土井の味方しようと。
そうしてついに相手が見つかったと思ったら、雑渡昆奈門ときた。
目が高いとは思うが、よりによって、とも思う。
それでも反対せずに見守る事にしたのは、土井の片恋だったからだ。少なくとも、最初はそうだったはずだ。
土井の話し越しにも、雑渡の意識が変わっていくのはわかった。何が良かったのかわからないが、雑渡はこの鈍い男に入れ込み始めており、また振り回されている様子もある。
山田は小気味の良さと、それはそれで困るという苦さを、同時に感じていた。
「半助」
「はい」
「それでおまえは、雑渡とは続くのか?」
土井は「そうですねぇ」と考えて、
「あの言葉が、嘘でなかったのなら」
と続けた。
「そうか」
では続くのだな。
その結論を、山田は言わなかった。今の土井に言っても、信じないだろうからだ。
「まっすぐ戻りますか?」
「そうだな。早く戻って、手当を受けた方がいい。噛み傷を甘く見てはいかんぞ」
「はい。ただ……これ、誰に噛まれたと言えばいいですかね?」
まさか雑渡の名を出す訳にはいかない。
「途中で喧嘩に巻き込まれた、とでも言うしかなかろう」
「はい」
面目ない、と土井は頰を掻いた。口裏を合わせるための話を作りながら、二人は帰路についた。
学園長に報告をすると、がっかりされた。
「だろうとは思っておったが……残念じゃ」
話が虚偽であるとは、予測していたらしい。
「他にも祝いの候補をいくつか考えたのじゃが」
「……それはまた次の機会に」
「うむ。土井先生、もしも縁談が決まる事があったら早めに……」
「遠慮致します!」
学園長の言葉を遮って叫んだ土井と、
「有り難く受けておけ! もらった所で死にはせん!」
横から余計な事を言った山田は、並んで学園長のお叱りを受ける事となった。
山田と土井の調べた通り、雑渡の結婚話はほどなく立ち消えになった。
噂の女の消息は途絶え、女の実家と、それから女の元夫の家が何からの処分を受けたというから、その関連で何かしていたのだろう。
そしてそれから、土井の元へ雑渡からの誘いが来る事は、なくなった。