まだ名前も無い時代「竈門少年…」
一鍛錬終えて片付けの終わった頃合いに、見計らった様に声を掛けられた。
「はいっ」
御用ですか?師範
そう答えながら駆けて行く。
ここは師範の生家『煉獄家』ではなく、柱に与えられている屋敷だ。屋敷と云っても生家と違い大きい構えではないが、任務の合間に師範と継子、二人で鍛錬し休息をするには充分過ぎる程立派な造りをしている。
その屋敷の縁側に座している師範に呼び止められたのだ。
『こっちへおいで』
こう言う時の師範の御用は大体解っている。
促されるまま、師範の左隣に腰を掛けてその顔を見る。
「失礼する」
継子に丁重に断りを入れて何をするのかと思えば、そう…。大きな右の掌で、俺の額の左側にある古傷にそろりと触れるのだ。
掌からでも感じる力強さ。
暖かい…。
俺はただ静かに目を伏せて、師範の動きに委ねて、感覚を拾う。
刀を握る時に力の入る掌の皮膚は所々がごつごつしているので、擦らない様に少し浮かせて触れて、そのまま額の全体をするりと撫でてゆく。
ふわふわと仄かに甘い匂いがする。良い気分の時の匂いに似ているから、多分楽しいのかな…。
するすると撫で回した後、右手はゆっくりと髪に差し込まれ前から後ろへ梳かれる。そろそろ左の手も加わるだろうか…
あぁ…ほら…。
師範の左手が右耳の耳飾りを音をたてない様軽く避けて、中指のヒヤリとした感触が襟足に軽く触れて来る。
指先が冷たく感じるのは師範の指が冷えているのか、それとも俺の方が熱いのかな…。少し恥ずかしい気持ちになってきた。そのうちに、触れる指は増えて、そろりと遠慮がちだった触れ方に力が込もって行って。左手で俺の頭を支えながら、右手の指が髪に差し込まれ前から後ろへゆっくり梳いてゆく。そのうちに…
俺の鼻は、師範の隊服の胸に押しつけられる。温みと、師範の、煉獄さんの匂いが強くなる。
優しい匂い。いつもは檜の様に澄んだ匂いが、今は花の様に甘い。
なんの花の匂いだったかな? この匂い。
とろりと心地よさに緩んだ頭の中で、覚えのある花を巡らせながら、声を立てない様にされるがままにいる。
最初にこうされた時に、驚いて「煉獄さん?」と、見上げたのだ。すると、煉獄さんは眉を下げて、困惑の匂いをさせながら、
「済まなかった」
と…。
囁く様に謝罪されて、この行為はそこで終了になった。
その時の煉獄さんは、普段は見た事のない顔をしていて。
口元は笑っているんだけど、寂しそうな、傷ついた様な、戸惑いの顔。
快活な笑顔しか知らなかった俺には、その時の表情に罪悪感の様な…、そう、抱っこを強請った子供の手を解いてしまった時の、そんな気持ちになった。
けれど、その後は一転して、さして気不味くなる事もなく日常に戻った。任務に付き、鍛錬を指導を受けて、食事を共にして、眠る。いつもの快活な声と笑顔。
けれど…。
あの日の顔が少し記憶から薄れた数日後、何事も無く過ごしたある日に、再び声を掛けられたのだ。
『こっちへおいで』と…
最初は額を撫でるだけだったの片方の掌が、回を重ねる事に両方の掌になり、撫でる掌は腕になり、抱擁になり胸に抱かれる。
このまま…、次はどうなるんだろう。
あの時の、煉獄さんの寂しい顔。あんな顔をさせたくなくて声を立てずに、この行為が中断しない様に委ねている。
でも、今はもう、それだけが理由じゃない。
最初は戸惑って、驚いてしまったけれど、煉獄さんにこうやって触れられるのがとても嬉しい。
あったかい…気持ちいい…。
煉獄さんは何を考えてこんな事をしているんだろう。弟の、千寿郎君にする時の様な気持ちなんだろうか?
俺は長男で下の弟妹達にせがまれて、抱っこしたり、頭を撫でて寝かしつけた事は沢山あったけど、誰かからこんな風に撫でられたり、抱かれるなんて事は余り覚えていない。
幸せと言うんだろうか。
もっと、もっと深く懐に入りたい。
そんな事を考えながら深く息を吸い込むと、煉獄さんの腕の力が強くなった。同時に額に柔らかい何かが触れる。指でもなく、頬でも無く、もっと柔らかい。
胸に深く埋まってしまってどうなっているのか見えない。
でも、なんとなくわかる。
唇…唇ってこんなに気持ち良かったんだ。
暖かい吐息があたった側から冷えてゆく。繰り返し繰り返し。
今、俺と煉獄さんのしている事はどう言うものなのか判らない。でも、とにかく心地よくて、暖かくて……。
『俺にはやらなければならない事がある。鬼を討ち、妹を人に戻す。必ず。』
でも、こんな事を考えてしまうんだ。
ずっと、ずっと、続いて欲しい。この温みがずっと…。
後に、『ダイナミクス』と云う『Dominant』『Submissive』と名称される人間の遺伝子特性が公になり、医学的に立証されるのは100年の後の事になる。