元ブラ企業のやぎしず進捗⑦ 志津摩は上司に頭を下げ着の身着のまま会社を飛び出した。肌寒い時期だが、汗を浮かせて走る。待ち合わせた場所は会社のすぐ傍にある街区の公園だ。
志津摩は公園に着くなりきょろきょろと見回し、ポツリとたった街灯下のベンチに座っている八木を見つける。
「八木さん!」
叫ぶと白い息が立つ。座ってぼんやりしていた八木が声に応え立ち上がる。志津摩は全力で駆けだし、はっとこちらを向く八木に勢いよく飛びついた。
「おわ、志津摩っ!」
八木はよろけて受け止めるが志津摩があまりにも思い切って飛びついた勢いにバランスを崩し、地面に二人転がる。それでも八木は強靭な脚力で堪えて勢いを殺ししっかりと志津摩を腕に支えて自分の上に抱えた。
「は~~~、あぶねえな」
ぽすぽすと後頭部を撫でながら八木は息を吐く。一方の志津摩は八木の首元に顔を埋めてくっついている。早速ふすふす吸い込んでいて笑ってしまう。
倒れ込むと夜空がよく見えた。街灯りに星の煌めきは本当の輝きを発揮し切れていないが、それでも犇めくように澄んだ空に瞬いている。大きく円かな月は街灯りに負けず眩い。
「八木さん、身体ひえてますね、遅くなってごめんなさい」
八木は首を振って志津摩の髪を撫でて上体を起こす。地面に座り込んだまま腿にでかい男を乗せているのだから滑稽なものだ。けれど退けようとも思わない。
もうすっかり夜更けで人っ子一人いない。橋内と別れた時、すでに十時近かった。
「早かったよ。あの真面目なお前が仕事サボって逢いに来るんだから、」
八木は志津摩の頬を手の甲で撫でた。指先が冷えているからそっとさするだけにした。
志津摩の手を取って立ち上がると、志津摩の両手を左手で右手、右手で左手とそれぞれで握る。向き合うと志津摩は大きくて綺麗な瞳でじっと八木を見上げた。
「あのさ、志津摩」
「……や、やぎさん、!」
話を遮られ八木は首を傾げた。どうした。と聞き返すが俯いてしまう。ぎゅっと手を握る。
「志津摩、あいにきてくれてありがとう」
また緊張しているから、八木は志津摩の手の甲を親指で撫でた。志津摩はうんうんと頷いた。同じだ、志津摩は緊張するといつも唇をうずうずと引き結ぶ。
「やぎさん……、」
「なに?」
「大事なはなし、ですか」
八木は瞼を伏せる。すこし考えてみたが伝えたいことがわからなくなる。
「ん……その、わからん。何から話せばいいんだろう。お前に、俺はどうしたいんだろう」
強く手を握ったまま八木はそのままを呟いた。暫くそのまま二人とも何も話さなかった。ただ手を繋いで立ち尽くして。八木は黙り込む志津摩をそっと窺う。
「しず、ッ――」
志津摩が泣いている。すこし俯いたまま大きな瞳から涙の粒が零れている。
「しずま!? え、どうした、」
八木は慌てて志津摩の腕を引いて抱きしめる。
「う、うー……ッ、うぅ、ぅ」
志津摩は八木の腕に包まれたまま棒立ちで嗚咽を漏らす。しくしくと静かに涙して動かない。いつもなら志津摩も八木を抱きしめてぎゅっとくっついてくるが、今はされるがまま動かない。
「ひ、く、ぅ……やだ、」
なんとか捻りだした涙声に八木は眉を寄せる。
「おい、なんで泣く、志津摩……なぁ、しずま」
そっと肩を支えて離れ志津摩の顔を覗き込むが手で顔を覆って隠してしまう。首を振って志津摩は固まったまま必死に嗚咽をかみ殺す。
「なにがいやなんだ、……志津摩、」
八木は志津摩の背を撫でた。志津摩は小さな声で「ごめんなさい」と溢した。
その一言に八木の視界が濁る。なんとかして声を絞る。
「志津摩、もう謝るのは止めろ。いってくれんと、わからん。いやなことは、嫌だとおしえてほしい、してほしいことは、してほしいと、言ってくれ。おれは、お前に我慢されるのは堪えられん」
願うように伝えるが志津摩はその場で首を振る。
「しずま、話してくれ、頼むから」
志津摩の頬を支え目と目を合わさせる。志津摩の黒い瞳はぐっしょり濡れている。
いつも綺麗に跳ね上がった眉を下げ、凛々しい目元は哀しみに歪む。
「おれ、わかれたくな、!」
八木は見開く。刹那、全ての時が止まったようになる。
「やぎさんを、こまらせたくない、けどっ、おれ、もぅ……、はなれるのは、やだ、」
志津摩は必死にこらえた涙をまた溢れさせた。ごしごしと乱暴に手のひらで涙をぬぐうけれど目元が赤くなるばかりで涙は治まらない。
「志津摩、お前なにいってんだよ。落ち着けほら、こっちこい」
八木はまた志津摩の腕をとり抱きしめる。背中を急いで撫で擦る。志津摩の頭を掻き抱いて自分の肩へぐっと押さえつけた。志津摩が泣き出すから八木はただ強く抱きすくめる。八木もまさかの言葉を受け胸騒ぎで不安が膨れ上がる。
「志津摩、こわいこと言うなよ。別れるわけないだろ、俺はもう離さんといったぞ」
志津摩はしくしく泣いて息を引き攣らせる。八木は酷く動揺していた。志津摩にこんなことを思われ、こんなことを言わせてしまうとは思いもしていなかった。
「俺だって嫌に決まっているだろう、何言ってるんだ。別れねぇよ? なぁ……」
ひくひくしゃくり上げる背を撫でる。八木も胸が苦しくてたまらない。どうしてこんな風に思わせたのだろう。八木は今までの恋人たちと同じように志津摩のことも不安にさせてしまったのだろうかと恐くなる。八木なりに尽くしてきた、けれど、及ばなかったのだろうか。
「だっ、て……おれは、やぎさ、うぅ、」
「わかった、わかった。待て、顔上げろ」
嗚咽で言葉にならない志津摩の頬を撫で、八木は服の袖でくしゃくしゃになった志津摩の顔を拭う。涙をしっかりと拭って志津摩の背を支えベンチまで連れて行く。志津摩を座らせて八木は膝を折りその正面に屈んだ。下から鼻水と涙でグズグズに赤くなった顔を覗き込む。志津摩は唇を噛み締めまた今にも泣き出しそうな顔をしている。
膝の上で震えている志津摩の手を上から握り込む。
「よし、志津摩。話をしよう。俺も話すし、ちゃんと聞くから」
志津摩は黙ったまま深く頷く。しゃくりあげているがしっかり八木の声を聞いている。
「まず、俺は別れる気なんてない。別れたくない。今日だって、あんなに逢いたいと言ったのに。どうして俺が別れたがると思った?」
志津摩は叱られた子のような顔になる。唇を噛んで瞳をゆらゆらと泳がせている。話そうとするが飲み込んでしまい、また迷うように口を噤む。
「志津摩、俺に言えんのか。怒ったりしない、大丈夫だから」
志津摩は潤んだ瞳で八木を上目に見る。長い睫毛まで濡れている。
暫く言葉を出せずに嗚咽を飲み込み堪えている。八木は震える手を握って志津摩の顔を見上げてじっと待った。暫く引き攣った息をしていた志津摩は息を整えて、ようやく重い口を開いて。
「やぎさん、おれと、つきあうときめて後悔してないですか」
八木はぎゅっと志津摩の手を握りしめる手に力を込める。志津摩の言葉が胸を貫いて痛い。
「え……? なんで、しとるわけないだろ、してない。もう決めた、お前も俺も昔のことまで覚えてる、思い出したんだ、もう戻れん。後悔しない、そんなことより今泣かせていることが苦しい、早くなんとかしてお前が泣かなくていいようにしたい」
強く伝えるのに志津摩は首を振るった。
「そんなこと、――――思わんでいい」
志津摩の瞳からまたポロリと大粒の涙が落ちる。
「やぎさんは、俺につぐなうとか、後悔とか、無理して、せきにん感じたりしなくていい、もう貴方に何も背おわせたくない、俺は、そういうそんざいに、なりたくない、」
八木は視界を潤ませる雫をさっと瞬き一つで取り去り、またじっと志津摩を見つめる。志津摩は静かに、穏やかに涙した。
「俺が八木さんの重りになるなら、また俺のことを忘れたらいいと、思った、」
八木は歯を食いしばる。志津摩の手を握った手に力が篭り震えてしまう。志津摩が痛いだろうとなんとか力を緩めたけれど、手が震えた。唇を噛んで心の痛みを誤魔化す。
「俺と、いっしょにいるより、別のひとと一緒になった方が、しあわせになれるなら、おれは、やぎさんといっしょにいたくないっ……!」
そこまで言い切ると志津摩は目をぎゅっと瞑り肩を震わせてひくひく嗚咽を堪える。
「やぎさん、はっ……おれなんかと、いっしょじゃないほうが、しあわせになれると思う、」
八木は、ぐらりと目の前が真っ暗になる。眩暈がするような。地面が揺らめいているような。喉が干乾びたようになって、ぎゅっと詰まって息苦しくなる。胸が握りしめられたように痛くて。全部の感情が綯交ぜになって、八木の目尻から全部の結晶となり滲みでる。
八木が震える。腹の底に溜まっていた哀しみが溢れていっぱいになり決壊した。
ずるずると泥のように鈍くなった身体を身じろがせて、志津摩の膝の上へ力尽きて項垂れた。哀しいと悔しいと、とうてい言葉で表すことのできない激情が渦巻いて腹の中で暴れ狂う。渦巻いて八木の心を破壊する。
「しずま、ひでぇよ、お前はッ……、ひでえやつだ、!」
堪えられなかった。我慢しようとも思えなかった。きっと、我慢できない。
八木は志津摩の膝で泣きじゃくった。
志津摩も身体を折り八木の背へ顔を埋めるとそこで泣いた。そっと八木の背を撫でた。
「わかれてえのは、おまえじゃないか、おれを捨てたいのはおまえだ、ばか、ちくしょう、!」
八木は息を引き攣らせて慟哭し悲嘆する。
八木も変われていない、本質は何も。
そしてそれは、志津摩も同じだった。
志津摩はそうやって八木を否定する。
何もかも受け入れてくれるのに、八木の志津摩に抱く感情だけは信じてくれない。
間違いだとさえ言いつけるのだ。
「しずま、ッ……おまえ、本気で、いってんのか、おれには、お前がいないほうがいいって?」
八木はもう顔を上げられなかった。背に温かい志津摩の体温が重なっているが、目を閉じ切ってもう視界も心も暗闇だ。その背で志津摩はとどめを刺すように頷くのだ。
「ひでえ、おまえは、ひでえやつだ、ッ……いつになったら、おれをしんじてくれるんだ」
「ごめんなさい、ごめんなさいっ……、けど、きっと、やぎさんは、おれじゃないほうがいい、悲しいのは、今だけで――、ん、!」
八木は反射的に顔を上げた。下から勢い任せでぶつかるように志津摩の唇を奪う。
志津摩はすぐに顔を背け、八木の肩を掴んで押し返してきた。八木は琥珀色の瞳を涙で濡らし志津摩を睨み上げる。志津摩もじっと八木を見つめ返した。
「そんなに俺をいじめたいかっ、お前は!」
「…………八木さんは、記憶があるから、優しいから。罪悪感で昔の俺に縛られてるんじゃないですか。そんなの要らないです、貴方はもっと素敵な人と幸せになれます」
八木の心はズタズタになった。立ち上がり志津摩を見下ろして肩を掴むと志津摩はびくりと強張り目を逸らす。
「だったらしずま、俺のはなしも聞いてくれ。おまえ、俺のことこわい?」
志津摩はぎょっとして怯えた顔になる。
「こわいよな? いつも、お前は俺が近づくと緊張するだろ、おまえこそ、俺のこと要らないんじゃねえの、おまえこそ、俺よりもっといい相手ができるんじゃねえか、もっと、俺は、おまえにもう何も心配せず、何も怖がらず、おもいきりわらってほしかった、それなのに、なんだよこれ――、」
八木が目を閉じると涙のつぶが壊れて頬を流れる。自ら過去形にしていることに気付いて絶望感が増す。心がバラバラになる。
蘇る。零の上で眺めた星空。安堵と共に感じた自分を追い尽くす暗闇。出口のないトンネル。自分で掘り進める墓穴。凍えるように遥か寒い雲の上。
「なんで、なんでだよ、志津摩。おれは、おまえがすきだ、……これも、おまえはにせものだというのか、おれのこの感情は―――ッ、」
ああ、志津摩。『田中志津摩二飛曹』
お前は、お前なんだな。今も、昔も。
「びょうきだと、いうのかッ!」
志津摩の肩を掴んで揺さぶる。声の限り叫ぶと志津摩も俯き泣き崩れた。
「わかれたくねえって言ってくれたじゃねえか、やっと、そう言ってくれた、なんでまた、お、俺を、おいてこうとするんだ、」
志津摩の胸倉を掴んだ。ぐらぐらと縋るだけの様に力なく志津摩を揺らす。
「おいてかないでくれ、俺を独りにするな、おまえがいないと、もうっ、」
志津摩は深い息を吹くと背を伸ばし八木を抱き寄せた。いつかのように身体を撫でて慰める。
「だいじょうぶ、貴方にはきっと良い人が現れますから、前もそうだったでしょう?」
志津摩は目を合わさない。泣きながらまたいつの日かと同じく八木を突き放そうとする。
だから八木も食い下がる。もう昔とは状況も精神状態も、全部違うのだ。八木は真っ当に自覚している。
「いやだ! ふざけんなお前っ! 別れねえ! やだ! 独りにするな、俺はお前としか付き合わん、もう、お前としかいやだ!」
それでも志津摩は涙を払うように首を振った。
「八木さんなのに重いですね。盲目になっていませんか。寂しいのは今だけです、少しのしんぼうです。こういう日が、いずれ来るって、俺は思っていました。ずっといっしょなんて、そんな、」
八木は志津摩を睨み上げた。怒りと深い悲しみで感情が暴れて上手く話せない。
「本気で言っているのか? おまえっ、お前はいいのか、せっかく、逢えたのに?」
志津摩はいつもの困ったような焦ったような、気まずい顔で呟く。
「俺は、貴方の長く健やかな一生と、将来の幸せの方が大事です。今も、昔も」
言われて身震いした。志津摩の身体を押し退けて離れる。両肩を掴んで声を荒げた。
「勝手にきめるな! お前に、なにがわかる! ずっと、しぬまで、一生、おまえのことを考えて、忘れられなかったあの日々を、何もしらねえお前になんて、わかるもんか!」
志津摩を傷つけるだろう無神経な言葉だが、八木は我慢ならなかった。こうして感情をぶつけるのも初めてだ。どうしてこんなことになったのだろう。
八木の叫びをしっかりと聴いている志津摩は苦しそうに笑う。
「八木さん……もう、やめましょう、俺も離れたくなくなる」
「それでいいって言ってんのに、ふざけんな! どちらかが死ぬまで一緒だと、俺は決めたんだ! 頼むから志津摩、いやだ、もう手遅れだ、お前が居ないのは堪えられんっ!」
志津摩が「重いってば」と寂しそうに笑う。どうしても志津摩は八木の心を信じてくれない。八木の好意を知っているくせに、心の奥で志津摩はこれを「いつか終わるもの」と思っていたのだ。それは遥か昔から。
いつもいつも。田中志津摩はそういうヤツだ。すぐに手をすり抜けて去りゆこうとする。
八木が歯を食いしばっていると志津摩がまだ涙声で囁いた。
「始めから、っ……記憶なんて戻んなきゃよかったのかな」
八木はすぐさま思い切り首を振るう。たしかに八木だって、志津摩が忘れたままならば。
そっと見守って居ようと思っていた。けれどもう遅い。もう、志津摩の傍に居る安寧を思い出してしまった。志津摩と共にいる時が、八木は何よりもすきなのだ。
それはあの過酷な日々の下でない、今の世であれ同じだった。
八木は、志津摩の傍にいる時間が一番好きだ。
「ちがう、戻ったから、こうして一緒になれたんだ、」
「そうかな。それは正解なのかな。けど、どうして、でしょうね……」
志津摩がそろりと八木の頬を撫でる。あの日と同じように。泣いている八木を慰めるように、慈しむように。優しく頬を包む。
「記憶、なかったのに、おれっ……やっぱり、八木さんのことがすきになったんです、」
~おまけ最終回よこく(????)~
「本当にそれでもいいと思ってたんだ、今もだ。どうしてわかってくれねえんだ」
「そんなの、重いよ」
「そら重いよ? ――……だって俺は、志津摩を、」
八木はそこで瞠目して一息停止する。
その言葉が感情と一緒に溢れ出して頭に浮かんでくる。
八木自身にも優しく溶け込み胸が温もり、嬉しくなって微笑んだ。
こんな笑みが零れるのは。志津摩に触れると胸がほっとして温かいのは。
八木は初めて知った。
この重たくてクサイ言葉は、こういう気持ちで。こういう時に、こういう感情をもって伝えるのだと。
「だって俺は―――」
!!もう少しつづきますっ!!