「え、それってさ、その、デ、デートのお誘いってやつ? なんて……」
いつもの軽口のように発した言葉は、けれどその実所々が震えてとても無様で。
そうやって動揺を隠しきれない様子にアシッドがなぜ陥っているかというと。
「…………そう、ですけど。何か」
頬、目尻、耳の先。顔面のあらゆる所を赤く染めながら、じとりと見上げてくる兄のせいに他ならなかった。
***
バレンタインデーはファンや業界関係者からのチョコレートで埋まった。
それは正に「埋まった」と表現していい有り様だった。アシッド単独での活動時から、この日にはプレゼントの山が押し寄せていたし、一般人であった頃も貰うものはあった。
そうだとしても、名実共に人気絶頂の双子アイドルとなった今年はそれらの比ではなかった。事務所の一室を埋め尽くし、まだ入りきらないと疲れ切った顔を見せるマネージャーを労い、残念ながら安全面から手をつけられないそれらにごめんねをしたのはついひと月ほど前。
お礼回りに奔走し、このイベントの面倒臭さを身をもって味わい、ようやく帰宅を果たしぐったりとした兄に、ホットココアを差し出して「ハッピーバレンタイン」なんて言ったあの日から、ひと月。
あの時、もうその言葉は聞き飽きた、なんて眉を顰めながら、それでも素直に受け取ったココアをチビチビと飲んでいた兄が、今はアシッドの服の裾を掴み、顔を赤らめている。
アシッドの観たがっていた映画だった。フォルテが、普段あまり積極的に触らないはずの端末に表示させたそれを見せてきて。
少し前に公開された、アニメ映画。フォルテはほとんど漫画を読まないから、きっと興味も無いはずで。
「今度、木曜日、オフじゃないですか」
「……? うん」
「この回、席がかなり空いてます」
「うん」
「ここだったらそんなに目立たないかなって」
「うん……えっと、行くの?」
「はい」
「誰と?」
「君と」
「誰が?」
「僕が」
答えの分かりきった問いに律儀に答えるフォルテの視線は、次第にアシッドの目を逸れ彷徨い出した。
君と僕が。
アシッドの観たがっていた映画。
次のオフ。
……それって。
「え、それってさ、その──、」
***
君が、ココアをくれたから。よりにもよってバレンタインデーに。貰ったら返さなければ不義理でしょう。けれどお菓子作りなんてしたことないし、そもそもあまり食べないでしょうし、食事なら毎日作っているし。つまり、だから、じゃあ映画とかいいんじゃないかなって。前、遊園地も君から誘ってくれたし、だから、だから今度は僕が誘ったって別にいいでしょう。前みたいな騒ぎはこりごりだけど映画なら大丈夫だろうし。僕は別に観たいの無かったけど君にはあったみたいだし。丁度、ほら、ホワイトデーも近い、し。
フォルテの長々とした言い訳は最後、言葉尻が萎んで終わった。慣れないことをした反動で真っ赤に染まった顔で、いつもよく回る舌を何度も絡れさせて、けれどその最中にも握った服の裾は一度だって離さないで。
そうして紡がれた最後の一音を、思わず唇を塞いで奪ってしまったのは不可抗力だと思う。
驚いて、目を見開いて、そうして事態を把握した途端目を閉じて受け入れて。
可愛くない訳がなかった。愛しくて仕方が無かった。だけどキスだけで済ませたのは、せっかくフォルテが勇気を振り絞ってくれたのだろうお誘いを台無しにしたくなかったから。
よく耐えたと思う。アシッドは自分を褒めた。その分何度も唇を重ねたし、唾液を吸い尽くすほどに咥内を貪ったし、最終的に今度は酸欠で顔を赤くしたフォルテに怒られたけど。
そんな昨夜を回想しながら、緩みきった顔を自覚して、アシッドは口角に力を入れた。
そもそもマスクをしているのであまり意味を成さないが、いくら人通りが少ないとはいえ駅前で目立つ訳にはいかない。
何故一人で駅前に立っているかといえばそう、待ち合わせをしているからだ。せっかくのデートならば、待ち合わせからしたいとはアシッドが言い出した。そうして先に家を出ようとするアシッドを、フォルテは半分呆れながら、あと半分は自身もわくわくした様子で見送ってくれた。
フォルテは、アシッド以上に「通常の十代男子」が経験するはずの青春を取りこぼして生きてきた。
勉強か、家事か、バイトか、それとも生活の為の雑事か。本来青春に消費するはずの時間を惜しげもなくそれらに費やしたフォルテの中のアルバムには、ほとんどアシッドとの出来事しか記録されていないはずだった。それはそれで結構なのだけど。
友達と、あるいは恋人と待ち合わせてお出かけをする。そんな些細なイベントを、初めての記録としてフォルテのアルバムに刻み込む。その相手が自分であるという事実に、やはりどうやったって口元が緩んだ。
「──アシッド」
駅から歩いてきた人影からの呼びかけに、ゆるりと伏せていた顔を持ち上げる。
「……待った?」
アシッドがせがんだ通りの言葉を、少し照れ臭そうにしながらも律儀に発するフォルテに、今度こそアシッドは顔全体をだらしなく緩めた。
「んーん! 全然!」
***
「すごい、券が出た」
発券機を前に呟かれた言葉に、思わず殺し切れなかった笑いが漏れた。
僕が用意します、と言って聞かなかったので、映画の手配は全てフォルテに任せていた。しっかり者の兄だが、歳のわりにネットの類には疎く、中々に苦戦しながら座席を予約する様子を傍で見ていた。口を出したら怒るのは目に見えていたから、心の中で応援するに留めて。
待ち合わせ場所から映画館まで。駅前なので歩いてすぐだった。発券機の場所は教えてあげたが、そこからはまたフォルテに任せた。
サングラスの下で眉間に皺を寄せながら機械を操作して、そうして正しく吐き出された紙片に目を丸くして。
何もかも、フォルテにとって初めての経験だ。それをこうして眺めていられる立ち位置に、アシッドは深く満足していた。
「少し時間あるね。何か買ってく?」
「ん……色んな食べ物があるんですね」
スナックコーナーの上部には、定番からシネマ独自のものまで、多彩なフードメニューが賑やかに表示されていた。
それらを見上げながら目を輝かせるのを、アシッドはまた、咬み殺すのに失敗した笑いを浮かべながら見やる。
ここ最近、世間からフォルテに対しては食いしん坊キャラのイメージが付きつつあった。
元々年相応にしか食べていないし、今も決して大食いという訳ではない。それでもそんなイメージが付くのは、食べ物、特に美味しそうなものに対してあからさまに目を輝かせているから。
よい傾向だと思う。「食べること」はフォルテにとってずっと、生きるための行為、そして「アシッドにきちんとさせなければならない」行為でしかなかったのだから。
「やっぱここはポップコーンいっとく?」
「……いっとく。僕が買ってきます」
僕が。敢えて宣言して、予約をし、食べ物を買う。この「デート」はフォルテのプロデュースなのだ。バレンタインにアシッドが贈った、ありふれたココアの礼であり、いつかの遊園地デートのお返しなのだ。
無粋な真似はせず、全てお任せをしてレジに向かう背中を眺める。
少し薄暗く、人気の疎らな平日の映画館。芸能人でも紛れるのは造作ない。変装も完璧に施したから、アシッドとは全くテイストの異なるコーディネートに身を包んだフォルテと、外見上はただの男友達。
けれどこれだけは譲れなくて、お揃いのピアスは互いの耳に光っている。それも並んでさえいなければ分からない。
一人でのお使いを終え、フォルテが戻ってくる。両手で抱えたトレーの上には大きなポップコーンと、フォルテのコーヒー、アシッドの分のアイスティー。きっと、いや確実にシロップは断っている。アシッドがいつもそうするから。
ありがとう、と言ってトレーを奪う。これくらいはさせて欲しい。その意図を汲んだのか、フォルテから特に抗議はなかった。
チケットを見せてシネマゾーンへ。そういえば、なんて考えなくてもフォルテと映画なんて初めてだ。フォルテに至っては映画館自体が初めてだろう。
高校生から切り詰めた二人暮らしをしていた身として、学生料金だとしても贅沢な娯楽だったし、そんなものに興じる暇も無かった。
興味深げにあたりを見回すフォルテを、さりげなくぶつからないよう誘導してやりながら廊下を進む。やがて、目的のシアターにたどり着く。
扉の前には公開してしばらく経つアニメ映画のキービジュアルが照らし出されていた。公開早々話題となり、何度も観に行くファンもいて、未だに客足の衰えない作品だ。
とはいえ平日の微妙な時間とあって、二人以外には数組分の席しか埋まってはいなかった。
「入る?」
「うん」
少し緊張して、けれど期待を隠し切れない様子が可愛くて、薄暗いから、を言い訳に座席へ向かう短い通路の間だけ手を繋いだ。やはり、フォルテから抗議はなかった。
劇場の最後方、壁より。誰にも邪魔されず、また目立たない。そんな席に並んで腰掛けると、すぐに広告が流れ出した。映画はすぐに始まらないよ、と教えていたが、広告ムービーすらフォルテには新鮮なようで、画面に釘付けになっている。
アシッドだってそう何度も来たことはないけれど、広告なんかより、今のフォルテを見ていたい気分だった。
とはいえアシッドが兼ねてより観たかった映画だ。本編が始まると、アシッドの視線も前へ向く。
冒頭、突然の大きな音にビクついた振動が椅子から伝わってきて、少し笑ってしまった。
映画は滞りなく進む。さすが話題作、作画も美しく引き込まれた。
時折、隣のフォルテを盗み見た。人気漫画が原作のアニメ映画とはいえ、フォルテはもちろんその原作を知らなかった。一度「今流行ってて」とタイトルを口にした時は、案の定初めて聞く単語に首を傾げていたくらいで。
だから、まさか自らそれを提示してくるとは思っていなかったのだ。そして真面目で勉強熱心なフォルテは、今日までにすっかり原作を読破していた。
ちなみに、アシッドの端末の顔認証を勝手に突破しての所業である。
映画はクライマックスへ向かう。最後には泣ける展開が、と聞いていたが、横目で見たフォルテはまったくいつもと変わらぬ無表情で流石だな、と思った。
この映画は『純愛』がテーマらしいが、そもそもアシッドには『愛』というものがよく分からない。それはフォルテも同じだろう。
親からの愛というものを生憎受けられずに育った。けれどそのことを大して気にせず来られたのは、隣にずっと同じ存在があったから。
それを愛と呼ぶのならそうなのだろう。どのような種類のものかなんて分からないし、知る必要も感じなかったが。
可愛い、憎らしい、暴きたい、手放したくない、奪われるくらいなら自分が奪う。そういった類の愛が形を成した物。それがアシッドにとってのフォルテなのかもしれない。
また、隣を盗み見る。自らと寸分違わぬ造形の横顔。今は正しく自分だけのものである存在。
映画の内容は吹き飛んでしまった。頭の中はただ一つの欲が渦巻く。その欲に従って、傍の熱に手を伸ばす。
「っ……、」
真剣に前を見つめていた視線が、アシッドと絡む。けれどすぐに解かれてまたスクリーンに固定された。
アシッドが唐突に絡めた手は、解かれないままに。
「面白かった?」
照明の戻った館内で、控えめに声をかける。疎らな客が全て立ち去るのを待ちながら。結局、互いに何かしら夢中でひとつも手をつけられなかったポップコーンを摘みながら。
「ええ、最近のアニメは綺麗なんですね。最後の四条悟の技ですが──」
物理法則がどうの、と劇中に出てきた技について滔々と語るのを、ポップコーンを咀嚼しながら聞き流す。アシッドには共感できないが、フォルテなりに楽しめたらしい。
喋り続けるフォルテの口は忙しいので、アシッドがポップコーンの殆どを胃袋へと処理した。他の客が全て掃けたのを確認して立ち上がる。
ずっと繋いだままだった手を引く。指を絡ませて、そんなアシッドに同じくらいの熱量で絡んできたフォルテの手。
誰もいなくなった劇場。あまりのんびりしているとスタッフが入ってきてしまう。
だから足早に、けれど通路を抜けるその時まで繋いだ手はそのままで。
映画館を出るまで。二人ともなんとなく無言で、けれどもその足取りは互いにどこか浮ついていた。
***
帰りは芸能人御用達のタクシーでのんびり帰る予定だった。その前に、もう少しだけデートを楽しみたくてショッピングモールへと足を伸ばす。
映画館よりは人足があった。こんな時間に連れ立って歩く背格好の似た男性二人組はそこそこ目立つし、見つかるリスクも当然あった。けれどその時はその時。堂々としていれば案外スルーされるともう学んでいた。
「! フォルテ、見て」
チェーンのコーヒーショップで、季節限定のドリンクを二つ。映画のお礼と言い張って、アシッドが支払った。半分ほどが埋まった店内の、モールの大通りがよく見える席で落ち着き映画の感想を囁き合っていると、耳に飛び込んでくる旋律。拙くも、一生懸命に指を運んで奏でられているその音源に目を向ければ、少し先の広場にそれは確認できた。
「……ピアノ?」
「ストリートピアノってやつだね」
エスカレーターの足元に広がる広場、そこに設置されたピアノを親子連れが触っているのが見えた。どなたでも自由に弾いてください、というやつだ。
「ねぇフォルテ」
「嫌です」
「……まだ何も言ってないけど」
「君が何を言いたいかなんて分かるに決まってるでしょう」
当然のように言ってのける。その言葉に心臓を揺さぶられながらも、アシッドも退くつもりはなかった。
「フォルテのピアノ聴きたいな?」
「今断りました」
「ねぇお願いお兄ちゃま」
「…………」
フォルテはピアノが弾ける。その「弾ける」が果たしてどの程度のランクに位置するのかアシッドにはさっぱり分からないが、お金を取って演奏会をしてもいいレベル、とは認識している。
施設で、することが無くて触れていただけのその楽器は、フォルテの生まれ持ったセンスとよく合致したらしく。アシッドはさっぱり興味が無かったから触れて来なかったが、フォルテの演奏を聴くのは好きだった。
やがて、アシッドがせがんだ時にだけ弾くようになり、それもいつしかすっかり無くなって。そういえば、弾けるじゃん。その程度の思いつきだった。
「流石に目立ちすぎます」
「それはそうだけどさぁ。ちょっと弾き逃げする感じで!」
「人聞きが悪い……」
遊園地での一件をこりごり、と言っていたフォルテは、やはり渋る。けれどアシッドはもう、聴きたくて仕方が無かった。
そして、そんな時のアシッドのわがままは通ってしまうのだ。フォルテは弟に甘いので。
「都合良く誰もいない……」
「混んでるからやめようって言うつもりだったでしょ、これも神さまのお導きだよ〜」
ぽろん、と鍵盤を触りながら言うと、胡乱な視線が返る。もちろんアシッドも、フォルテだって神などという曖昧な概念を信じている訳ではない。
育った施設の主な資金源だという、まだ年若い資産家の女性の方がよっぽど信仰できる。日に焼けた肌にライトブロンドを靡かせて、「お、ツインズ元気ー? その調子でイケメンに育ってね」と気さくに声を掛けてくれたその女性に対しては、アシッドも、珍しくフォルテも比較的懐いていたものだ。
懐かしい記憶に思いを馳せている間に、観念したらしいフォルテが椅子の具合を調整しだす。邪魔にならないようにピアノ脇へ移動し、アシッドはスマホを構えた。
「……撮るんですか」
「もちろん! 久しぶりだなぁ、フォルテのピアノ」
「…………」
この場合の無言はちょっと照れている。分かるに決まってるでしょ、と内心で先程の仕返しをする。
「で、何を弾けばいいんですか」
「んー、『ジェミニ』とか?」
「流石にバレるんじゃ……」
言いながら、手元で軽くサビの旋律をなぞる。もう弾いちゃったんだから、と丸め込めば、また一つ諦めのため息をついたフォルテが二人のデビュー曲を奏で始めた。
白と黒の上で指が踊る。この指を見るのが、アシッドは好きだった。
── ────
狭くはないモールに、流れるようなピアノの旋律が響く。通りすがりの人が、近くの店舗に居た人が、足を止める。吹き抜けとなった上階からも、覗き込んでくる人影があった。
──見上げた夜空に キラリ星──
歌声が重なる。思わず口ずさんでしまったかと焦ったが、集まった人々の中、子供がフォルテの演奏に合わせて歌っていた。
こんな子供にまで、自分たちの歌が馴染んでいるのか、と不意に感慨深くなる。
誰かの為などでなく、お金のため、そしてただ楽しいから歌っている。二人の間でそこは揺るぎないし、周りの反応など気にして来なかった。けれど、これはこれで、少し嬉しいものかもしれない。
フォルテの指が、鍵盤の上を端から端まで踊る。楽しそうだ。
暇だったからと、ピアノに触る動機を語る時、フォルテは決まって口にしていたけれど。アシッドが傍で聴いている時だけ、実はこういう顔をしているのだ。本人は気付いていないけれど。
「──……、」
ふいに、フォルテと画面越しに目が合った。手元を見ないまま演奏は途切れないのだから大したものだ。
無言で画面を見つめていると、フォルテの普段仕事を放棄しがちな口角がゆるりと上がる。
楽しい?
うん。
視線、それも画面越しで行われる疎通。
アシッドが聴きたがったから。そうでなければフォルテはこのピアノをスルーしただろう。
音が駆け上がる。人前で歌う時、ラストのこの部分は二人で手を絡ませながら向かい合い、静かに目を伏せる。
いつものように、目を伏せた。テレビやライブで披露する時はいつも、一拍置いて、盛大な拍手と歓声が──
──パチパチパチパチ……
四方から鳴る拍手に、伏せていた目をぱちりと開く。いつの間にやら、ピアノを中心に人々の輪が作られていた。
普段のライブなどと比べれば圧倒的に人数は少ない。けれど、自分達をアイドルと知らず通りかかっただけの人達から、惜しみない賛辞が送られている。
じょうずー、すごいねー、兄ちゃんプロかー?
次々とかけられる声に、フォルテも驚いているようだった。ピアノと、そしてアシッドにだけ向けていた意識を広げた先。人々に囲まれていたことに、本当に今気付いたのだろう。かけられる声に気まずげに頭を下げている。
──え、嘘。でもさー。やっぱそうじゃない!?
歓声の中に、不穏なやり取りを聞き咎めて、アシッドは即座にピアノに置かれていたフォルテの手を取った。
「ありがとうございました! じゃーね!」
フォルテの手を引き走り出す。後々良く考えれば悪手だった。その瞬間、自分達は「ただの男友達」ではなくなって、疑惑を確証に変えてしまったのだから。
遠くなった背後に悲鳴が聞こえる。こうなってしまえば、また怒られることになるだろう。眉を釣り上げたマネージャーの顔を浮かべ、走りながら肩をすくめた。
***
人混みに紛れながら配車して、ようやく帰宅できたのはそれから一時間半後のことだった。
一息ついてSNSを立ち上げると、あまり大事にはなっていないが、それでも自分達の目撃情報として、ショッピングモールでの出来事が囁かれていた。
曖昧な情報が出回ってしまう前に。スマホを操作するアシッドの背後で、フォルテはソファに沈んでいる。また今回も、タクシーの中で寝落ちてしまっていた。
『お兄様と映画観てきたよ♡ ピアノがあったから久しぶりに弾いてもらった!』
先程の動画を付けて。アップロードされる間、ぐるぐる回るアイコンを眺めているくらいならばと、アシッドはスマホを置いて背後を振り返る。
「フォールテ」
「んん……」
「ふふ、ごめんねまた走らせて」
「ん……つかれました」
「ごめん」
ちゅ、と軽く音を立てて唇を啄むと、たったそれだけでフォルテは機嫌を直したらしい。
「……もっと」
珍しく素直に甘えてくる。仰せのままに、と引き寄せられるままその身体に覆い被さって、何度も甘やかすようにキスを落とす。
そういえば遊園地デートの後も、フォルテは積極的だった。楽しかったんだな、と思うと胸の奥を柔らかいものでくすぐられる心地がして、ますます甘やかしたくなって下唇を食む。
「んっ……ぁ……」
ちゅく、と水音を立てながら舌が絡む。ソファの背もたれに抑え込んで、そうして口の中を弄っていると。
──ピリリリリ……
既視感。キスを中断して、二人して音源、フォルテのポケットで鳴るスマホへ視線を向ける。
「マネじゃん」
「マネですね」
君、何呟いたんですか。呆れたような一言に、そういえば先程動画を上げたのだと思い出す。
「出ないの?」
「…………」
電子音は鳴り続ける。確実にスルーされていることを分かっているから、向こうもしつこい。
フォルテが、再びアシッドの顔を引き寄せる。今度はフォルテから、下唇に噛み付いて。
後で、オレが全部怒られておこう。
「ん……っ」
けたたましく鳴るスマホにはどちらも見向きもしないで、キスに夢中になった。
例の動画を観て、フォルテがピアノを弾ける事、その技術に驚きの声が上がる事は予想していた。けれど、最後の最後、アシッドに向けられた微笑みまで発信してしまったことに、そしてむしろそのことがファンを騒がせていることに、色々終わってからようやく気付いたアシッドは悶え転がったし、翌日マネージャーにはこってりと叱られたのである。