ハッピー・バースデイぴゅうと北風が吹く。思わず肩をすくめて縮こまる。確かに今日は今季初めて強い北風が吹くという予報だったっけ。天気予報ってやっぱりすげぇなと思いながら少しだけ歩を早める。授業でわからなかったところを先生に質問していたら、思いの外遅くなってしまった。早足で寮まで戻る途中、見慣れた人影を見つけた。
まだバスが走っている時間ではあるものの、バス停ではなく中庭のベンチにひとりで座っている。こんなにくそ寒いのに、一体あいつは何をやっているのだろう。カバンを背負い、帽子を被り、視線は足元を見つめていて、その表情はうかがえない。なんとく肩が落ちているようにみえるのは気のせいだろうか。枯葉たちが風に舞いながらフォージャーの足元に絡みつき、かさかさと音を立てていた。
「何してんだよ、こんなところで」
正面に立って話しかけると、フォージャーはゆるゆると顔をあげた。こちらに視線を向けてはいるけれど、微妙に焦点が合っていないような気もする。ここにはない何かを見ているような。弱々しく俺を呼んだあと、そのぽかりと開けた口から、同じく弱々しく問いかけてきた。
「おまえ、たんじょび、いつ?」
「は?」
唐突に発せられたその言葉に驚く。一瞬、ほんの一瞬だけ、ひょこりと何かが顔を出したような気がするけれど、ぐっと力ずくで抑え込む。
この表情は、たぶんそういう意味じゃない。
「そんなの聞いてどうすんだよ?」
そう聞き返すと再び俯いた。まるで足元の枯葉に話しかけるように、地面に言葉を落とす。
「きのうベッキー、おたんじょびだった。だからちちとクッキーやいた。すてらのかたちのやつ」
「あー、だからさっきあんなに騒いでたのか」
今日の昼休み、教室中にブラックベルの叫びが響き渡った。「ロイドさま!」とか「なんて素敵なのかしら!」とか。どうやら昨日の日曜日が誕生日だったブラックベルに、フォージャーが父親と作ったクッキーをプレゼントしたらしい。それにブラックベルが大変喜んだというのが、昼休みの顛末のようだ。
だが、それではこの表情に説明がつかない。
「ベッキー、ごちそうたべた、いってた。ぷれぜんとも、もらった」
何だ、結局食い意地が張っていたというだけか。そりゃ可愛い一人娘の誕生日とあらば、あの父親は最上級のお祝いをするだろう。
でもフォージャーが言いたかったのは、そのことではないらしい。
「ベッキー、ベッキーのちちとははに、たくさんおめでと、いってもらった」
先程まで北風に吹かれてざわざわと音を立てていた木々が、ぴたりと止まった。ほんの一瞬、時間が止まったかのような静寂に包まれる。だからなのか、いつも以上にフォージャーの声がクリアに届いた。
「アーニャ、たんじょび、ない」
人は全く想定していない言葉を聞くと、何も言えなくなるらしい。今なんて言った?誕生日が?ない?
「…ないってなんだよ。産まれてきてるんだから、ないわけないだろ。親にきけよ」
しかしフォージャーは何も答えない。下を向いたまま沈黙を貫く。
誕生日がないなんて、そんなことあるわけないだろ。発言の意味を問おうとするが、その追求を拒否するかのように、フォージャーは言葉を続けた。
「だからおめでと、いわれない」
冗談にしては悪質だし、そもそも全く面白くない。だからといって、事実として受け入れられるはずもない。かける言葉が見つからず、言いあぐねて、がりがりと頭をかく。
「誕生日がないの意味がわかんねーけど…でも、だからってみんながみんな祝ってもらえるわけでもないだろ。そんな状況じゃない人も、世界にはたくさんいるし」
戦争や紛争、深刻な貧困や飢餓など、世界には全く想像もつかないような状況にいる人たちが、思っているよりも大勢いる。そういう人をひとりでも減らすことが政治の役割だと思っている。
そして、そんな差し迫った状況でなくても、本当に祝って欲しい人から祝われない人だっている。例えば俺みたいな。誕生日には、いつもたくさんのプレゼントが届けられる。血縁者たちからだけでなく、デズモンド家に取り入ろうとする数多の人からも。ドン引きだろ、父上のご機嫌をとるために俺にプレゼントを送ってくるなんて。そんなこと、まったくの無駄なのに。
夜には誕生日パーティーが開かれる。もちろんケーキもあれば、ご馳走もある。でもその参加者は俺しかいない。そんなものパーティーだなんて呼べるかよ。おめでとうと言ってくれるのは、ジーブスと、その他の使用人と、両親から送られてくるメッセージカードに書かれた文字くらいだ。
印刷された文字で告げられる“ハッピーバースデイ”という言葉に、一体どれだけ意味があるのだろう。
フォージャーは再びゆっくりと顔をあげた。エメラルドグリーンの瞳と見つめ合うが、その無垢な緑色はきっと今、俺を映してはいない。
「知ってるからこそ、祝われないことがつらいってこともあるんじゃねーの」
知らなくて祝われないのと、知ってて祝われないのと、どっちがよりつらいんだろうな。まぁ、そんなことはどうでもいいか。どちらも祝われないことに変わりはなくて、決着のつかない不毛な争いだ。じゃんけんのあいこみたいな、チェスの千日手みたいな。
そう思っていた。
*
「はは、おかえりなさい!」
「おかえしゃい!」
「ただいまー」
がちゃりと玄関扉が開き、アーニャが帰宅した。それを長男と次男が出迎える。アーニャは先程までブラックベルと買い物に出掛けていた。子どもたちの希望で。
「こっち!こっち!はやく!」
「はやくー」
長男が右手を、次男が左手を取って、アーニャをぐいぐいと引っ張りながら廊下を進む。子どもの背丈に合わせるため、アーニャは中腰の姿勢でひどく歩きにくそうだが、その顔はわくわくにあふれていた。
「えーなんだろ?何があるのかな?」
もちろんアーニャは知っている。知っていて、知らないふりをする。とびきりかっこいい嘘つきだから。
そう、アーニャは全てを知っている。自分に何があったのかを。誰が何をしたのかを。全ての罪を。
あれは、バーリントにしては珍しく、うだるように暑い夏の日だった。それを見つけたのは、本当に偶然だった。俺とアーニャのふたり、イーデンの地下でたまたま発見したプロジェクト・アップルの研究資料は、膨大な数に登った。
そこに記されていたのは研究者なら誰もが持つ、純粋な好奇心と探究心の足跡たちだった。それに倫理観が伴っていれば何の問題もなかった。しかし大変残念なことに、国家プロジェクトという大義名分と、研究者たちの心の中に巣食う功名心と名誉欲のために、それは見て見ぬふりをされた。戦争だから、勝つためには仕方がなかったという言い訳が、全てを推し進めた。
人の業とも呼べる実験の記録を読むにつれ、俺は恐怖しか覚えなかった。研究者たちが犯した夥しいほどの罪の記録。人間への扱いは、動物と比較すればまだマシ、という程度のものだった。
その記録たちに呑み込まれるように読み耽っていたが、ふと隣にいた人物を思い出す。慌ててがばりと顔をあげて横を向くと、アーニャは自身の詳細な記録を読みながら、ポロポロと涙をこぼしていた。ぽたりぽたりと、涙が記録の海に沈んでいく。それはそうだろう。自身の出生の秘密とその後の扱いを知って、全てに絶望してもおかしくはなかった。
「おい!大丈夫か?!」
アーニャの両肩を正面からがしっと掴み声をかけるが、すぐさま自己嫌悪に陥った。そんなの、大丈夫なわけないだろ。現実はあまりに残酷で、冷酷で、救いの手なんかどこにもない。なめらかな頬を流れる涙を止める手立ては、どうしても思いつかなかった。
アーニャはぽかんとほうけた表情をしていたが、突如ぐしゃりと顔を歪めた。その顔はひどく泣いているのに、笑っているようにも見えた。その相反する表情を浮かべながら、かろうじて聞こえるくらいの声を絞り出した。
「誕生日あった。アーニャにも、誕生日が」
何か目に見える線引きがあるわけでもないのに、年が変わるというのは、なぜか人も街もそわそわと気忙しくさせる。街はイルミネーションで彩られ、人々は早く訪れるようになった夜を楽しみ始めている。
とある宗教の聖人が産み落とされた今日、家族4人でアーニャの誕生日を祝う。子どもたちが張り切って飾り付けをしたリビングは、カラフルな工作たちであふれていた。紙で作ったぐしゃぐしゃで不恰好な花とか、小さな手で一生懸命ハサミで光沢紙から切り取ったキラキラな星とか。
小さなテーブルを家族4人で囲む。中央には蝋燭を立てたケーキがある。ここ数年、アーニャはピーナッツのケーキを選ばなくなった。子どもたちがまだ小さくナッツをうまく噛めないし、もし喉に詰まらせたら一大事だと。じゃあそれぞれ別々に好きなものを選ぼうと提案したが、それはやんわりと拒否された。大きなケーキをみんなで食べたいからと。
だから今日のケーキもふわふわなスポンジと生クリームが主役のショートケーキだ。上部には星形の薄いチョコレートが飾られている。もちろん星の数は8個。
お前がこの世に生を受けてくれたことに、どんな状況でも何ひとつ絶望することなく前を向いて生きてきてくれたことに、尊いほどの畏怖と感謝を覚える。
こうやって毎年変わることなく、目の前にいる大切な人が幸せであるようにとただただ祈ることができるのは、平凡だけれど、これ以上ないほど贅沢なことなんだと、お前のおかげで知ることができたよ。
幼子たちが覚えたての歌を歌う。歌詞は間違えるし、リズムも音程も不安定だけれど、アーニャはとても幸せそうにほほえみながら、歌声に合わせて手を叩いている。
歌が終わる。全員で拍手をする。おめでとうの声が上がる。
そしてアーニャは蝋燭の火を勢いよく吹き消した。