オブリビオン そいつは簡単に火を起こした。
テントの設営を手際よくやるので、どこまでやれるのか見ていたが、火まで自分で起こした。ライターを持っていたので、手間取るならさっと点けてしまえばいいと思ったが、必要なかった。
かつて大都市だった街には、草が生え、コケが生え、蔓が廃墟に這う。崩れる可能性のある廃墟の中で寝るよりも、今までと変わらず、テントをはったほうがよいと判断した。
パチパチと安定して燃える炎を見ていて、そうか、金持ちだから、恵まれているから火が起こせるのだと思った。安全で親が見守っている場所に用意された「サバイバル」を知っている。死ぬことはない、いざとなれば助けてくれる人間がいるから、こんなに何でもできるのだ。こいつは生活手段として火の起こし方を知っているんじゃない、「教養」として知っているのだ。
「軌道エレベーターまであとどれくらいだ?」
「1日くらいだろう」
「乗るのは難しいか」
「乗ること自体は難しくない。スペーシアンの利権で潤う都市に住む人間の通勤の足でもあるからな。ベネリットグループの人間には『地球の風情がいい』といって、宇宙で働き、地球に移住する変わり者がいるんだ」
「へー、そうなのか」
「おそらくお前ならゲートの端末に顔をかざすだけで乗れるさ。ジェターク社が破産申請してなければな」
「……乗れるといいな」
少ない食料を分け合いながら続けてきた旅も明日で終わりだ。俺の言うことをよく聞き、逆らわない御曹司。
それはタフだからなのか、ただの虚無なのか。どっちでもいいことだが。
火を小さくし、夜は2時間おきに見張りのために交代で起きる。しかし今日はもう俺が夜通し見張りをし、あいつは寝させたままにしておこうと思った。怖いからだ。
旅の1日目の夜、起こそうと体に触れたとき、こちらに背中を向けたまま、手に触れ、
「父さん、どうして死んだの」
と呟いた。寝言だったのか、起きると何もなかった顔で見張りを俺と交代した。
どうして死んだの。そんなの分かり切っているだろうに。どうしても受け入れられないんだろう。
俺のせいじゃない、俺のせいじゃない、仕方がなかったんだ、俺のせいじゃない、全部俺のせいだ。
ただただ、目の前にいるこいつが怖かった。こいつに縋りつかれれば、俺が壊れる。
「あ、代わるよ。寝てくれ」
「今日はいい。朝まで寝てろ」
「でも、明日まだ長いだろ」
「気にするな」
「……じゃあ一緒に起きてるよ」
逆に面倒臭いことになった。「じゃあ俺は寝る」といえればよかったが、そのまま一緒に過ごすことになった。火を挟んで向かいに座ればいいものを、なぜか俺の隣に座りやがった。こいつ何か距離感おかしいときがあるよなと感じつつ、無表情でやり過ごした。どうせ明日で終わりだ。もう二度と会わない。
「今までありがとう。明日はどうなるか分からないから、今礼をいっておく。かなり荒っぽいとこもあったけど、ここまで来れた。感謝してる」
「家族に会えるといいな」
「きっと俺のことをすごく心配してる。今大変だから、俺が助けてやらないと」
「心配してくれているか……」
この旅が終われば、俺もナジ達と合流する予定だ。そこには俺を待つ仲間がいる。でも、俺が死んだところで、それは単なる日常だ。
「なあ……何かできることはないか」
「何?」
「地球の状況なんて知ろうともしてなかった。反省してる。できることがあれば何かしたい」
「お前に何かできるほど簡単じゃない。第一、スペーシアンがここから奪い尽くしていったんだろう。それを『風情』とか『懐かしい』とかいって美化してる。『何か助けになってやりたい』とうぬぼれてるだけ。問題なのは地球じゃない。スペーシアンの問題だ」
「ごめん……傲慢だった」
「大人しく帰れ。ここでのことは誰にも話すな。全て忘れろ。俺のことも全て」
「わかった」
そいつはしゅんとして黙った。パチパチと火が燃え、ときどきゴトリと音がする。沈黙は続いた。空を見上げると、汚い空気が星を隠し、不穏な闇が広がっている。でも、もう星なんかに憧れは持てない。昔は夢を託せる存在だった。今は、搾取と暴力がみせる幻だった。
「……俺のことも忘れるのか」
「……忘れるよ。過去は置いてきてるんだ」
「本当に?」
「何がいいたい?」
しまった、と思った。もう遅かった。
こいつは俺の手に触れ、自分の体を俺に寄せる。腕に手を回し、肩に顔を乗せてくる。
「俺はお前の親じゃないといったはずだが」
「まさか。親だなんて思ってない。『父さん』なんて絶対に呼ばない。俺の父さんは1人だよ。俺が殺した、ただ1人」
俺の自覚したくない望みを見透かして否定した。べっとりとした暑さと一緒に息遣いと体温が俺の体に侵入してくる。ときどき、頬を肩にこすりつける。寝言のような声をあげながら。
燃え続ける炎を見つめ、平静を装うとしても無駄だった。炎の周りを舞う蛾が焼かれていく。
「なぜこんなことをする? 父親じゃないんだったら」
「父親では絶対にないけど、父親に似た人間だから」
それはつまり、といおうとしてやめた。
父親ではないが父親に似ている他人、息子のようだが息子ではない他人。そういった他人同士が親子のように触れ合ったとき、起きること。「信頼」に至るばかりではないのをドミニコスにいたときいくらでも見てきた。自分の信じる正義を貫かなければ、たちまち堕ちていく。
俺はこの男を今すぐ突き飛ばし、ここで殺してやろうとも思った。銃はある。
でも、静かだった。虫の声が聞こえ、何も起きなかった。
吐息と体温に捕らわれてしまっていた。抵抗するには甘く麻痺していて、溶けそうな細い糸が下半身の中で絡んでいく。こんなことはとうの昔にできなくなったものだと考えていた。
俺はこいつの顔をぐっと上げ、あのときみたいに口を開けさせた。あのときは何もかも拒否していたが、今はただ欲しがっている。義手の指を入れてやると舐めだした。指の本数を増やしていくと、よだれを垂らし、涙目になって、むせていた。もう一度顔を上げさせて掴むと、唇と押し付け、舌を入れてやる。また寝言のような声を漏らし、俺の服を掴む。舌を絡ませた。唇を離すと、はあっと大きな息を漏らした。
「随分、慣れてるな。見た目に似合わず」
「昔慣れざるを得ないときがあったんだ。さあ、もう寝ろ。それとも続きをしたいか?」
軌道エレベーターを見上げた。空を突き抜け、その頂点は見えない。神なんかいない証拠だ。
あいつは、顔と身体を洗い、服を変えていった。体液で汚れたつなぎを捨てていった。身体に残る怠さも首筋につけまくった唇の跡もいつか必ず消えていく。
「さようなら、オルコット」
「もう二度と来るなよ」
「分かってる。ありがとう」
別れはあっさりしたものだった。向かう先が分かると、あいつはもうこちらを振り返らなかった。そうやって過去はどこかへ置いていく。さようなら、俺も必ずお前のことを忘れるよ、グエル・ジェターク。