「なあお前、赤ちゃんの世話とか見たことある?」
「いや…無いな」
「そうか」
1997年、7月。深夜、いつものラーメン屋でいつものラーメンを食べ終わって、双方タバコを吸いながらぼんやりとテレビのバラエティー番組に耳を傾けていた無言の間を、錦山が破った。
「ひまわりも、赤子は預かってなかったもんな。そら小せえ子はいたけど、幼稚園生くらいで」
「そうだったな…一番小さかったアイツ…タカト、も6歳くらいだった。」
「そうそう。…あでも、一回、職員が赤ちゃん連れてきた事あったろ。あの、ショートカットのさあ、可愛い系の人」
「お前の初恋のミカセンセーだろ?あの年下ブレイカーの」
「ばっかお前!今はそういう話じゃねえよ」
年下ブレイカーというのはミカ先生が既婚者だった事を知った錦山が、失意の末に名付けたあだ名だった。桐生が揶揄うと、錦山は色々幼い頃のハズカシイ記憶を思い出してしまったようだ。耳が赤くなり、3軒ハシゴした後で酒が回っているのか、いつもより大きい声で否定した後、泡の溶けてぬるくなったビールを煽った。
「ミカ先生さ、これも経験とか言って俺たちに赤ちゃん抱っこさせたりしてくれたじゃねえか」
確かにそうだったかもしれない。桐生は対面に座る錦山から視線を外してその頃を思い出してみる。…ミカ先生が来るたび、やたらと職員室に行きたがった錦山のことしか思い出せない。当時は錦の意図が分からないまま連れられてミカ先生と話すのを見ていたが、今考えると女の子に人気のあったミカ先生のところに1人で行くのは恥ずかしかったのかもしれない。本人は隠してたつもりだったらしいが、ミカ先生には錦の好意はバレバレだっただろう。だがそれに触れると錦山がキレそうだ。余計な争いはこんなところでしたくない。
「…俺は抱っこした覚え、無いな」
嘘では無い。
「そうなんだよ。お前、ミカ先生が桐生クンも触ってみる?って言ったのに、とっとと逃げただろ」
「そうだったか?」
「そうだったよ」
錦山は前屈みになる。
「お前、苦手なの?こども…ていうか赤ちゃん」
「いや……苦手、とはちょっと違う気がするな。たぶん、関わりが無さすぎて接し方がよく分からなかったんだ、その頃の俺は、まだ…」
そう言いながら、桐生は段々とその時の情景を頭の片隅で思い出していた。産休から帰ってきた、先生に抱えられた小さな体。ひまわりにいる一番小さな子どもよりももっと小さくて、喋るのもまだ出来ないような、生まれたての。先生の腕に抱えられて、守られている大事な子ども。
自分も、こんなふうだった時があった。よく覚えている。自分を抱き抱える母のぼんやりとした輪郭や匂いをふと思い出して、つま先から冷えていくような気分になって、それを振り切るように逃げ出したのだった。
あの冷えた感覚の名前を、桐生は知らないし、わざわざ知ろうとも思わなかった。今もだ。もう過ぎたことなのだから、当時の心境なんか考えたってしょうがない。ただ、その時は、人の大事な命を抱えるのは怖かったのだ。でもそれは、抱え方が分からなかったというより…
「……まだガキだったな、俺も」
「はは、今もだろ。ちょっとは大きくなったけどよ。ぜーんぜんクソガキだろ」
ムカついて、靴の爪先で軽く錦山の足を小突く。それに気づいているのかいないのか、錦山は桐生のささやかな反撃を無視して、そうか、と独りごちた。彼の中で何かを噛み砕いているようだった。
「なんで赤ちゃんのことなんか聞いたんだ」
「……いや、この間、そこの公園で、具合悪そうにしてた母親がいたじゃんかよ。赤ん坊抱えたさ」
桐生はそれならすぐに思い出した。つい3日前ほどのことだ。仕事が終わった後の帰路で、たまたま錦山と鉢合わせて、神室町を歩きながら少し話をしていた時だ。深夜の公園に、ぐずる赤子を抱き抱えた女がいた。ペットボトルやら吸い殻やらで散らかった公園と、切れかけの街頭で照らされている母子のアンバランスさがやけに頭に残っていた。
「覚えてる。お前が声かけて、俺が薬局に行ったんだよな」
「ああ…ありゃほっとけねえよな流石に。あの公園、変なおっさんもよくいるしよ。子どもが夜にぐずって、アパートの隣人からクレームが入ったから外に出たらしいけど冷てえよな」
それに、と錦山は付け加えた。
「あの子…由美とあんま歳変わんねえらしくてさ」
「!…そんな若かったのか」
「俺の3つとか下だよ。ほんと、逃げたクソ親父は何してんだろな?あの子の家族も…」
錦山は頬杖をついて、息を吐いた。桐生は錦山に頼まれて24時間営業の薬局で栄養ドリンクやら飯やら水やらを調達しに行ってたので、彼女の詳しい素性は分からない。ただ、まだ幼い彼女とその子どもを放っておいた周囲には無性に腹が立った。
「で、それがどうやって初めの話に繋がるんだ」
「んん…その…そのだな…」
急に歯切れの悪くなる錦山に眉を顰める。
「なんだよ」
「いやあ…なんかやっぱりいいわ」
「おい」
立ちあがろうとして机についた錦山の腕を、桐生は咄嗟に掴んで椅子に戻す。勢いづいて座らせたせいで椅子がギシ、と悲鳴をあげる。分かったよ、というように錦山はまたため息をついた。
「…お前も俺もさ、あの子みたいな女を作る可能性があるよなあって思ったんだよ」
「……どういうことだ?」
「俺らに大事な女ができたとして」
錦山は視線を床に落とした。
「その女とさ。子供ができても、ある日突然パッといなくなって死んで、大事な女と、子供を残したら…」
錦山は最後までは言わなかった。言わなくても桐生に伝わると思ったから。残された人間の孤独は、誰よりも知っている。幼少の頃に散々刷り込まれたのだから。ひまわりは陽だまりの中のようにあたたかく優しい愛情でそんな子どもたちを包み育てていたが、とり残された者の悲しみがやはり根底にあった。その空気感の中で錦山と桐生、そして由美は育った。失った者同士の結束は強固だ。けれど、それは臆病でもあった。
「こんな先のこと、気にしたってしょうがねえんだけどさ。まだまだ下っ端だし。後なんか残るかもわかんねえのがヤクザだし」
振り切るように錦山は笑う。
「子ども。苦手じゃないんならよ。欲しいとか思うのか?桐生も」
「…欲しいかどうかは、まだ全然想像つかねえな。でも、子どもと自分が、血が繋がっている必要は別に無いと思う」
「血が?何で?」
「お前と由美だって、血が繋がってなくても、家族だろ」
そう真剣に、真っ直ぐと。当たり前のように。桐生は錦山に言った。
___こいつの、捻くれてないところが好きで、とてつもなく嫌になる瞬間がある。そして、そういう時、途方もなく嫌になるのは、自分自身だった。
この全ての気持ちをコイツに伝えれば、ラクになるのだろうか。
ラーメン屋を出て、錦山は別れ道まで桐生と歩いた。
____そう、「俺ら」に大事な女が出来たとして、じゃない。「お前」だ。桐生と由美が、このまま結ばれたとして。それで2人で家族になったら?子供ができたら?もう2人は哀れな孤児なんかじゃない。失った子どもじゃないんだ。突飛な妄想だろうか。でも、その時俺は耐えられるか?それでもまだ、俺のことも家族と言ってくれるのか。家族で、兄弟で、唯一の、親友だと…いや、言ってくれるんだろうな。お前は…
___両親の葬式で、泣きじゃくる優子を抱き抱えて、俺は必死に泣くのを堪えていた。
公園の、あの母子…
嫌な重なり方で、見つけた瞬間に変に動揺しちまった。内情は全然違かったのに。あの、廃れた公園と母と子の光景がちっとも頭を離れない。桐生にはバレたくなくて、さっきも適当に誤魔化したが…なぜ俺はここまで桐生や由美に置いていかれる妄想をするのを辞められないのだろう?決して、二人は俺を裏切らないはずなのに…
「錦?」
気づけば、分かれ道に着いていたようだった。
錦山はハッと顔を上げて、ああ、と声を漏らす。
「わり。ちょっと疲れたみてえだ」
「ふ、しっかりしろよ。ちゃんと休め」
「人の心配してる暇あったらおめー、柏木さんに絞られる回数減らせよな」
じゃあな、と錦山が手を挙げて歩き出したその背中に、桐生は名前を呼んだ。
「錦」
「あ?」
「…俺はまだ、子どもの面倒なんか見れねえよ」
「……」
「……お前は俺と違うだろ。俺より先に、女見つけて、新しいお前の、家族を作るかもな」
「そんな…、」
「そういう日が来ても…お前は俺の面倒見ろよ」
「は?」
「ふ。じゃあな、錦。おやすみ」
「あ。おい待て!」
桐生は口角を少し上げた家族にしかわからない笑い方をして、とっとと帰って行った。追いかけて後ろから飛び蹴りでも食らわせてやろうかと思ったが、いよいよ馬鹿らしくなり、盛大に舌打ちした後、錦山も帰路に着いた。また家族に会うために。