ランワス①「、……」
呻くような声が漏れたのは、自分の口ではなかった。後ろからの苦し気な声と共に、きつく抱き締められて、体温が一気に上がるのを感じる。
「――っ、離せ、クソガキ」
「……いやだ」
無理やりに手を引き離そうとしたら、駄々を捏ねるように、嫌だ、ときた。
「はなしたら、逃げるだろう、きさまは」
子供が親に甘えるように、ぐりぐりと背中に頭を押し付けたまま、ぽつぽつとこぼす言葉はいつもよりも舌っ足らず。
ああ、逃げたい。この場から逃げたい。そんな考えがワースの頭を支配する。
「マッドロ……」
震える手で掴んだ杖を呆気なく取り上げられて「にげるな」と一言。
「いいかげんに、オレに愛されるかくごを持て」
「そんなの、」
そんな覚悟なんて、できるわけねぇだろ。ワースは唇を噛んだ。
✴✴✴
バース性検査証『未分化』そう書かれた紙を、ワースはぐしゃりと握りつぶした。
この世界には、男女性とは別に、第二性、通称バース性と呼ばれるものが存在する。バース性は10代前半でほぼ確定するため、中等部に進学もしくは編入するタイミングでバース性検査が行われる。そして、アルファ、ベータ、オメガに区分される。魔力量にも左右されると研究結果はあるようだが、実際のところはまだ詳しいことは分かっていないらしい。
αだと二本線だとか、一本線はβだとか魔法不全者はΩだとか言われてはいるが、噂程度の話だ。もっとも、神覚者がαばかりだというのを見ると、ただの噂とも言い切れないのかもしれないが。
初めて検査した時から6年、ワースはいまだ未分化だった。こんな時期までバース検査をしているのは自分以外にいるのだろうか。バース性自体、あまり公にするものでもないので良くは分からない。
まぁ、別にいいか。そう思い始めたのはつい最近のことだ。αでなければ意味がない。そういう思想の家で生きてきた。貴族の家としては普通のことだ、マドル家が特殊なのではない。結婚だって家同士を結びつけるもの。愛など必要ない。貴族としてはそれが当たり前の考え。
αでないのだとしたら、βだろうが未分化だろうが、価値など変わらない。
『運命の番と出会えれば、もしかしたらバース性が固定されるかもしれないね』医者が冗談のように言うそれを、ワースも笑い飛ばした。
運命の番?ありえねぇだろ。それこそ都市伝説みたいなものだ。そう思っていた、はずなのに──
✴✴✴
抱き込むように回された手が、シャツ越しにゆっくりと腹を撫でる。晒されたうなじを、癖のない髪の毛がくすぐる。晴れ渡った青空のような色だ。
じわじわ、何かが溢れて──それが尻の穴だと少し遅れて認識した──己の性を突きつけるように下着が濡れて、ひどく不快だった。
地下で戦ったあの日から、ワースのバース性は
Ωへと傾いた。
自分を負かした年下の生意気な男、そいつが自らの運命の番であることに気付いて。気づいた時には、全てが遅かった。
その後はといえば、ワースはひたすら逃げた。元々さほど接点もなかったのを、さらに徹底的に避け続けた。医者に処方された抑制剤も日常的に服用したためか、他のαにも気づかれることはなかった。念には念をと、自分で作った魔法薬も併用した。
なのに、あいつは、オレがΩだと気づいた。
「噛んじまえばいい。テメェが何をしたって、オレには抵抗できねぇんだから」
「そんなつがいなど、意味がない」
そんなのは、愛ではない。青空のような男が苦々しく呟く。
「オレは、きさまの愛がほしい」
「はぁ?まさか、運命の番だからとかいわねぇよな」
「ちがう」
即答だった。頭を振るたびパサパサと髪の毛が背中に当たり、うなじをくすぐる。
「オレが、きさまを愛しているからだ」
Ωとなって日の浅いワースの肉体は、まだ子を成すための準備はできていない。ヒートと呼べるほどのものでもない。けれどそれでも、Ωのフェロモンはαにとっては媚薬どころか麻薬のようなものだと聞く。それを、誰が来るとも知れない図書館の奥で、座り込むワースを他のαから隠すよう抱き締めて。晒されたうなじを噛むことなく、自らのα性をその身一つで抑えてる。
「……テメェには、オレより、もっといいヤツがいるだろ」
「いない、きさまがいい」
「バカだなぁ、テメェは」
オレなんか愛するなよ。
ふふ、はは、と笑いをこぼして、背中に押し付けられた頭を撫でる。その手に頭を押しつけてきたかと思えば、掴まれて、ぬるりと生温かい舌に指の付け根を舐められた。そのまま腕を引っ張られて、ぐらりと体が後ろに傾き倒れ込んで。視界がぐるりと上を向き、見えたの鮮やかな水色。
天井の照明がその輪郭を照らしてキラキラと星屑を散らしたように輝いていて。なのに、長い睫毛が縁取る空色の瞳は、慈愛と情欲の熱を器用にも混じらせていた。
堪えるために唇を噛んだのか、僅かに血の滲んだそれを見て、バカだなとワースは思う。そんな目で見るくらいなら、逃げ道なんて作らなければ良かったのに。もしそうであれば、そんなヤツなら、心は絶対に差し出すことなどなかったのに。
やがて、ワースは降参だと心の中で白旗をあげた。
「なぁ、名前呼んでくれよ」
「なまえ?」
「そ、知らねぇの?」
「知っている、が」
「なら、呼べよ」
「……ワース」
「もっと」
「ワース」
「ん」
ワースは満足げに笑って、ランスの首の後ろに手を回して、頭を引き寄せた。首を捻って唇を押し付けると、こぼれ落ちそうはほどに見開かれた美しい空色の瞳には星が散った。初めてのキスは血の味がした。