.
月のない、静かな夜だった。博雅は目を閉じ、すっかりと手に馴染んだ葉二つを意のままに奏でる。伸びやかな音色が辺りを包み、音の粒ひとつひとつが輝くような気配すら纏いながら、深い夜闇に溶けてゆく。好きな心地だった。こういう夜は、一人静かに心の赴くままに、いつまでもこうして吹いていたくなる。だが──
ふっ……と優しく音が止むのと同時に、博雅はゆっくり笛を下ろした。
「いやはや、いつ聴いても博雅様の笛は素晴らしい……」
「ほんまに、惚れ惚れさせられましたわ」
見知った顔の公達が五人、杯を片手に判で押したような笑顔を浮かべながら頷き合っている。葉二つを大切にしまいながら、博雅もへらりと笑顔を作った。
「おおきに、毎度どうも」
笛を聴かせてくれと、やや強引に誘われた宴席。笛を聴かせるのも酒を飲むのも好きだが、参加者とどうにも空気が合わない気がしていた。博雅が杯を持つや、待ってましたとばかりに注がれる酒。口に含んで、顔をしかめそうになったのをすんでのところで我慢した。
──なんや、苦い……?
違和感を感じながらも、注がれた酒をまさか吐き出すわけにもいかず、喉を鳴らして飲み下した。空になった杯に、また酒が注がれる。猛烈に嫌な予感が込み上げて、しかし今はまだ逃げられない。こんなところで帰宅しては、主催の顔を潰すことになってしまう。杯を空けた。酒が注がれる。口に運ぶ。
変化は突然だった。ぐら、と身体が傾いたのを、酒を注ぎ続けていた男に支えられた。身体中が熱く脈打ち、漏れ出る呼吸は細く震えていた。明らかに、酔いではない。嗚呼、そういうことか。思っていたよりよほどタチが悪い。
博雅の変化に気づいた周囲の男たちが、なんとも嬉しそうな笑顔で近づいてきた。いかがされました?なんて、白々しく尋ねながら様子を窺うように頬に触れてくる。その手を拒めない。身体に力が入らなかった。これは、どうやら本格的にまずいらしい。無意味な警鐘が鳴り響く頭にふと、繰り返し言い聞かせられた言葉が浮かんだ。
──何かあったら、必ず私の名を呼んでください
何度も、顔を合わせるたびしつこく何度もそう約束させられていた。優しくて、少し心配しすぎなところのある男だから。念を押してくるその声が、顔が、名が──何度も、あまり働かなくてなってきている頭の中を巡っていた。首筋に触れる手に寒気がして、思わず出かかった名を──喉元でぐっと、飲み込んだ。
──晴やんに、あの美しい瞳に
滲む涙を誤魔化すように目を閉じた瞬間、宙に浮いたような感覚を覚えた後、急激に意識が遠のくのを感じた。
──こんな醜い欲、見せたくないなあ
そう、思ったのを最後に
博雅は暗い闇の中に、静かに意識を手放した。
+++++
がくりと項垂れる博雅をその場に寝かせながら、男たちは互いに顔を見合わせる。やった、上手くいった。さてここから、どう楽しもうか──そう口を開こうとして、そこで初めて、できないことに気がついたら。
口が動かない、開かない。慌てて手をやろうとしたが、手すらぴくりとも動かない。なんだこれ、どうなってるんだ。恐怖のあまり立ちあがろうてして──ばたりと全員、その場に倒れ込むことになった。身体中が、力を込めた途端自分のものではないように固まって、身動きが全くとれなかった。瞬きをした目が開かない、喉までもが締まりそうだった。隙間風のような不気味な呼吸音が響く室内を──男が一人、足音もたてずに歩いていた。いつからそこにいたのか誰もわからない。気づいたときにはそこにいて、もう逃げられなかった。男はゆっくり、一人汗を流しながら横たわる身体を抱き起こした。
「何かあったら必ず名を呼べと、そう約束したでしょうに……」
叱るような言葉でありながら、その声は不気味なまでに甘く優しい。
「自分は散々巻き込まれに来ておいて、今更巻き込みたくないだなんて……」
あとでしっかり弁明していただきますからね?そう耳元で囁くと、弛緩した肩がぴくりと跳ねた。晴明は少し焦ったような顔をした後、汗の浮かぶ額に指を添えると、口の中だけで何か低く唱えた。
「……まだ、もう少しだけ眠っていてください」
極めて優しく、慎重に愛しい身体を床に下ろして、晴明は酷く冷たい顔で立ち上がった。床に転がり、か細く浅い呼吸を繰り返す男たちを指すような眼光で見下す。あの身体に、無遠慮に触れるなど。許さない、決して、許さない。
「事が済めば、そのとき必ず起こしますから──」
今から起こる光景を、あなたにお見せするわけにはまいりませんので。
黒い手袋を身につけながら、晴明は一人そう呟いた。
.