重くのしかかる不快感とともに、晴明は目を開いた。体に張り付く布が不快で、分厚い布団が重たくて。顔をしかめながら起き上がった。カーテンを引いた薄暗い部屋を、一人見るともなく見渡す。寒い。肌感覚で、体温が比較的正常に戻ったことを理解する。無意識のうちにため息をついていた。
風邪をひくなど、いつぶりだろうか。不摂生をしたつもりもないが───短く、また息を吐いた。弱っている、完全に。
体調を崩すと人恋しくなる。一般論として聞いたことはあるが、己には縁のない迷信だと思っていた。苦痛の最中、人とのつながりに逃避しようと本能が動くのだろう。全く、縁があろうはずもなかった。もとより一人だというのに、どこに逃げ場があるというのか。なぜ孤独を感じるというのか。現実は、事実は何も変わらない。もとより一人きりならば、人恋しさなど───孤独など、無縁だと。
けれど、ああ、だというのに。
ぎゅっ、と晴明が自分の胸元を押さえた。強く歯を食いしばりながら、背中を丸め深く呼吸する。呼吸を落ち着けるような動きで、ひたすらに耐えた。なんというものも持ってしまったのか、なんというものを手にしてしまったのか。ぼんやりと重い頭が、ズキズキと痛みを訴え始める。倒れ込むように横になった。
なんと大それたことだろう。
会いたい──などと。
無意識に深いため息が出る。昨日顔を合わせたばかりじゃないか。何度も、自分に言い聞かせた。こんなときばかり、都合がよすぎると。衰弱に流されるなと。けれど、どんな理屈を並べても──閉じたまぶたの裏に浮かぶのは、同じ顔ばかり。屈託のない、弾けるような、それでいてどこか慈しむような──愛しい笑顔ばかりだった。もはや認めざるを得ない。ぐっ…と引き結んだ下唇を噛む。自分に、まだこんな弱いところがあったなんて。晴明は再び深く息を吐き、やがてゆっくり顔を上げた。
博雅に会いたい。
認めた途端、フッと心が軽くなる。
何をするでも、話すでもない。
ただ、ひたすらに──会いたかった。
会いたい。気づいてしまった欲を抱えながら、晴明は再び目を閉じた。何か食べた方がいいのだろうが、体が重いし何もない。このままもう一度、眠って─そう思案していた時だった。
静かな部屋に、無機質なチャイムの音が鳴る。来客を告げる合図に、晴明は珍しく驚いた様子で目を見開いた。自分が思っているより不調なようだと、自嘲気味に頭を抱える。来客に気づかないなんて、どうかしている。誰だこんなときに。このまま居留守を決め込もうと、念のため戸外の気配を探り──次の瞬間、晴明は半ば反射的に、玄関へと駆け出していた。
手早く鍵を解除すると、年季の入った重い扉を勢い任せに押し開く。冷たい風が吹き込むのも構わずに、素足のまま、よろけるように一歩踏み出した。それほどまでに、目の前の光景は──信じがたいものだった。
突然開いた扉に驚いたのか、少し焦ったような顔で、晴明の顔を見上げている。きっちりと着込んだ制服。首元には、深い緑色をした上質そうなマフラー。マスクがかかる耳は、寒さのせいか痛々しいほど赤くなっている。
一番会いたかった顔が。心から焦がれた男が、どういうわけかそこに立っていた。
「あっ……晴明!」
ほっとしたように、博雅がそう声をかける。瞬間、晴明の体が動いた。
「わっ、ちょ、おい!なんで逃げるんだ!」
「っ、帰れ!」
「嫌だ!なんのために来たと、っ、閉めるな!」
扉を閉めようと動いたのを見て、慌てて博雅がそれを止める。帰れ、帰らない。扉越しの不毛な攻防がしばらく続く。均衡を破ったのは、博雅の必死の訴えだった。
「っ……寒いから!一旦中に、入れてくれ……!」
晴明は思わず大袈裟に舌打ちする。そんなふうに言われてしまっては断れない。しぶしぶ抵抗をやめて見せると、博雅は慌てたように隙間から身を滑り込ませる。ばたん、とやっと、扉が閉まった。
「お、お邪魔します…?」
「全くだな」
晴明は大袈裟に顔を逸らすと、片腕で口元を覆いながら言った。
「何しに来た」
「な、何って……見舞いだろ、普通」
「いらない。帰れ感染るぞ」
「お前なあ……こういうときくらい素直に甘えろ」
甘えろ。その言葉に、不意を突かれたようになる。いいから寝てろと背を押され、なんだか反論できずにそのまま、布団の中へと戻された。
「しかしまあ……相変わらず本しかないな」
「崩すなよ、それで整頓してあるんだ」
「これで……?」
博雅がここへ来るのは、初めてではない。ないが、わざわざ寄りつくこともなかった。避けていたというよりは、必要がなかったからだろう。場所を覚えていたことが意外なほどだ。
「……やっぱり何もない」
「…………」
「ゼリーとおかゆ、どっちがいい?」
「……ゼリー」
「はいはい」
無遠慮に冷蔵庫を開きながら、博雅が呆れたように言う。全て見透かしていたような口ぶりに、なんだか居心地が悪くてつい目を逸らしてしまう。ぶっきらぼうに答えると、視界の端で、博雅がふっ…とため息をつくように笑った。
「ほら、スプーンもあるから」
「……ああ」
「食べたら薬も飲めよ……どうせ飲んでないだろ」
「…………寝てれば治る」
「薬飲むまで帰らないからな」
「…………」
差し出されるままに、ぶどう味のゼリーを口へ運ぶ。優しい甘さが広がって、空っぽの胃が満たされる。我ながら単純なこどだと思うが、気持ちが少し楽になった気がした。
「…………なんで来たんだ」
「……またそれを聞くのか?」
「一日、休んだだけだろ……」
一日、たった一日。学校に行かないことなど、よくある。例え真面目に登校したとしても、顔を合わせない日だってあるのだ。それなのに……
「なんで、って……お前、今日が何日か知らないのか?」
「は?」
大袈裟に眉を寄せながら、博雅が呆れ果てたような声を出す。……今日が何日か?
「……二月二十一日?」
答えて見せると、博雅はなおも不服そうに無言を貫く。なんなんだ一体。今日。二月二十一日……じっと考えて、不意に──思い出した。まさか──
「…………俺の誕生日?」
「…………それ以外に何がある」
おそるおそる尋ねると、博雅はむすっとした様子でそう答えた。
名前のつけられない感情が、じわりじわりと湧き出してくる。
あまりのことに、言葉を失う晴明をよそに──未だむすりとした顔のまま、博雅がゆっくり、鞄から何か取り出した。
「……これ、やっぱり今日、渡したくて……」
手渡されたのは、綺麗に包装された薄手の箱。開けてもいいか?そう尋ねると、目を逸らしながらこくりと小さく頷いた。
「……マフラー?」
「……その、まだしばらくは……寒いだろ」
慎重に包装を開き、手に取ってみる。深い青色をしたマフラーだった。薄手で軽く、けれど確実に暖かく、肌触りがとても良い。一目で上質だとわかる代物だった。というか、このマフラー、どこかで見覚えが──
「……お前、これまさか」
「っ、いや、その…………確実に、いいものって考えたら……それくらいしか、だから、別に」
おそろい、とかじゃない。マスク越しでもはっきりとわかるほど、顔全体を赤く染めながら、博雅は消え入りそうな声でそう言った。どくん、と鼓動が速くなる。言葉を失って硬直する晴明の様子を、横目でちらちらと窺いながら──博雅はもうひとつ、体温がうつるほど長く握りしめていたものを、晴明へと手渡した。
「…………これ、合鍵」
「なっ……!」
ぼそ、と呟かれた言葉に、晴明は思わず耳を疑う。手渡されたものを凝視すると、ずしりと重い鍵だった。
「…………博雅」
「…………な、んだ」
低く、囁くような呼びかけに、博雅はわずかに肩を跳ねさせた。外では決して聞くことのない、自分しか知らない声を彷彿とさせる呼びかけ。無意識に、上目に視線を向けると──晴明は何か耐えるような目で博雅を睨み
「やっぱり帰れ、今すぐ」
そう言った。
「…………はぁ!?今の流れで!なんでそうなるんだ!?」
「うるさい、いいから帰れ」
「帰らない!なんでか説明しろ!」
「…………わからないのか?」
「わからない!」
そう言って食い下がると、晴明は大袈裟に顔をしかめ──ばつが悪そうに目を逸らしながら、唸るような声で言った。
「…………お前があまりに愛おしくて、キスしたくてたまらないんだよ」
「……なっ、あ、っ……!」
わかったなら帰れ、俺も寝る。そう言って横になろうとした晴明の腕を──追い縋るように、博雅が掴んだ。
「……いい、しても」
囁くような、博雅の声。それを認識した瞬間、晴明の中で何かが切れた。暴力的なまでの衝動だった。全身の血が沸き立ったようになり、思考がぴたりと静止する。
「……いいわけないだろ、帰れ馬鹿」
「……っ、でも」
踏み止まれたのは、奇跡としか言いようがない。動きそうになる体を理性だけで抑え込み、帰れと機械的に繰り返す。なおも帰ろうとしない博雅に、別の意味で頭を痛めながら──ふと、なにか思い出したような顔をして、晴明はおもむろに立ち上がった。
「…………いいから、今日はこれ持って帰れ」
「……え?」
本の山に埋もれた小さな引き出し。普段は使わないその奥底から目当てのものを取り出すと、手短に博雅へそれを握らせ、晴明は今度こそ、頭から布団をかぶってしまった。
「……え、晴明、これ」
「……合鍵、それで戸締りできるだろ」
だから、今日はもう帰れ。そう促すと今度こそ納得したのか、それとも居た堪れなくなったのか──博雅が立ち上がったのが、気配だけでわかった。
「……冷蔵庫、色々入ってるから……起きたら食べろよ」
「ああ」
「また連絡するから」
「わかった」
「…………晴明」
一度、離れたはずの博雅の気配が──少し気を抜いた隙に、気がつくとすぐ間近にあった。布団越しに、それでも耳のすぐそばで──ひっそりと、博雅は囁くように言った。
「…………俺も、早くお前に触れたいよ」
じゃあ、また学校で。そう言いながら、今度こそ博雅は去っていった。ばたん、と扉が閉まる音の後に、かちゃんと軽い施錠の音。離れていく足音を感じながら、晴明は長く、本日何度目かの、重苦しいため息を漏らした。危なかった。もう少しで、腕を掴んで引き込んでしまうところだった。勘弁してくれ、大切にしたいんだ。手渡された鍵を痛いほど強く握りしめながら──ふと、気がついた。
……礼を、言えてないな、一言も。
つくづく、どうかしている。とんだ失態だ。布団の中で一人頭を抱えながら、晴明はきつく目を閉じた。週明け再開した折に、どう礼をしようかと考えながら。