願うは土星の氷の中私は貴方が窮地を救ってくれたから今がある。そうでなければ、こうして友が残した本を求めて死に物狂いで生きてはいないだろう。あの日から二十五年経過しても何故か共に時間を共有している私達の絆は何と呼べるのか。友情、共犯者、異端者のいずれかに値するか?多分、友情以上のものは存在していないかもしれないが男性が抱く感情の中には、もしかしたら異性に対する何とかってものが含まれているかもしれない。しかしこの年齢になっても彼から嫌悪するアクションや発言をされた事がない。簡潔に言えば私をその様な対象として見ていないのか、見てはならないのかの二択だろう。こちらとしても同じだと断言出来る。どの様な関係であろうとも共有時間は尊く儚い。現実は残酷で時に耽美で人生は有限で。
「組織長、彫り師からこの刻印で間違っていないか確認をしてほしいとの事です」
土星の観測中に声が掛かる。出版にあたり文字一つ一つの刻印、特に似た文字は重要で誤りがあってはならない。
「今戻るから待ってて」
少し離れた町で調達した刻印を丁寧に確認する。素晴らしい。これが印刷されたなら亡き友が書いた本が遂に完成する。あの日を待ち侘びてこの年齢にまでなってしまった。それもこの彼のお陰だ。私一人では孤独で無力で拷問によって歯を抜かれた姿は異端で魔女で差別され続けていたかもしれない。もしかしたら志半ばで生命絶えてしまっていたかもしれない。
「組織長。素晴らしい出来です」
小屋に戻ると刻印を手に感動している彼の姿があった。それは友が満ちた金星を見た瞬間、地動説が完成したと告げてくれた瞬間の表情と似ていた。
「ええ、本当に」
刻印が入れられている袋から刻印を取り出して確認する。この作業だけで数時間要するだろう。職人が心を込めて作ったこれらは後世に受け継がれる。文字配列を組み替えれば星々の様に無限に文字が紡げるのだ。終わりのない希望の様に。
「シモンさん。二人の時はヨレンタで構わないと何度も言ってるよね」
「いや、僕の中ではあの頃のヨレンタさんではなく世界を動かす偉大なる人です。C教正統派の教えに異を唱え、己の信念を体現する姿は組織長と呼ばずして何と呼べましょう」
「全く過大評価が過ぎる。それに生き方を教えてくれたのはシモンさんの方だよ」
「え?」
刻印を検品する手を止めて彼に向き合った。すると彼も刻印を袋に戻して私を見つめる。真面目な話になる時はこうなる事が多い。その中で漂う空気に愛や恋の類は存在せず、ただの共犯者としての本音が奏でられるのだ。
「宗教とは何なのか、それは生き方だって」
「あ~、確かにそんな事を言った記憶が」
そう、彼は忘れていたのか。あの言葉が無ければ私は弱いままのヨレンタだったかもしれないのに。父と友との永遠の別れや夢だった天文台への働き口を失った事への絶望の感情を何処に向ければ良いのか分からなかった。つい神様を恨んでしまった事もあった。私が憎いのはC教正統派だけなのに。神様が悪いだなんて、父との日を思い出してしまう。神様はいつだって私を見てくれている、信じてくれている、アナタの元で仕えた父も信じていたのだから。それでも神様という存在が私の中で曖昧になってゆく日が増え、いつしか「神様を信じる私」「神様を信じない私」の二分進化説の様になっていた脳に蓋をした。
「ふふ…覚えてないんだ。シモンさんらしいね」
「それ、どういう意味ですか?」
「還俗しても私に対する敬語は変わらない。神に仕えていた頃の言葉遣いが消えないのは良い事だと思う。相手に威圧感を与えない」
「それ、答えになっていないような」
「抽象的過ぎたかな?」
会話を中断して共に土星の観測をしながら解放戦線の到着を待つ為に彼を外に誘う。こうして気を遣わずに接する事が出来るのもあと少し。帰還した皆の前では砕けた態度では示しがつかないから。
「皆が到着したら、しゃんとしないとね」
「まぁ、ヨレンタさんは変わらないと思いますが。土星の位置は昨日と変わらないので他の星を見ますね」
アストロラーベを手に観測をしている後ろ姿に父を重ねた。大きな背中に守られていた幼い私を思い出す。父は今頃、何をしているだろう?天に帰られてしまっただろうか?願いが叶うなら会いたいな。
「あ、ヨレンタって呼んだね」
「言われてみれば。ここ何年もそう呼んでなかったのを思い出したので」
「そうだね。最初の時折だけだった。二十歳で組織を作った時から長は私だったからね。十八?十九年?」
「歳を数えるのはやめましょう。悲しくなります。貴女は父と過ごした時より今の生活の方が長いなんて残酷過ぎますから」
「それはシモンさんも同じでは?同期の子と突然の別れだったのでしょう?」
私は松明を小屋の壁に飾り、解放戦線が戻ってくる為の合図を整えている。
「僕の場合、レフとは数日間の間柄だったんでそこまでの感情は持ち合わせていませんよ」
「それでも大切な人の一人だ。過酷な現場で働くのには仲間が必要不可欠。私は一人だった事がほとんどだったから羨ましい」
「けど、歳の離れた友人がいましたよね?確か地動説を研究したという」
私も腰に付けていたアストロラーベを使って彼と同じく星を観測を始めた。確かに土星は昨日と同じ位置に居る。
「職場ではって意味。彼らは地動説を私に教えてくれた。そして天動説の大切さも、その説が間違っていた事への敬意を知った。オクジーさん、バデー二さん、ピャスト伯、コルベさんは私にとって掛け替えのない人達。肯定、否定を含めて私を司るもの。父はそれ以上で、それらは私の全歴史そのもの」
「何だか壮大ですね」
「ええ。この星空の様に荘厳で美しく残酷で」
「ヨレンタさん、貴女は我々の希望です」
「……困ったな…」
苦笑いをしてその場を繕おうとしたが、長年連れ添っている彼には私が照れている事を悟られているので意味を成さなかった。
これはシモンさんには内緒だけど、もし願いが叶うなら土星よ、どうか父と会わせて下さい。
アナタの掌で私の頭を撫で
アナタの手で私の手を握り
アナタの声で私の名を呼び
アナタの目で私の姿を宿す
そんな日がいつか来れば私は心から満足するだろうか
終
2025/02/12
⚰️