願彼幸 夜、フィガロの元に来たファウストは扉の前で自身の魔道具の鏡を出現させた。
「えっと、どうしたの?」
攻撃する意図は感じられない。けれど、どこかフィガロをじっと見つめる目線には意志を感じる。何かを知りたいのだろう。弟子のときも、彼はこんな目をしていたことを思い出す。
ファウストは周りをキョロキョロと見回し、いつもより潜めた声で話しかけた。
「……その、何か見えないか?」
「何かって?」
一体何のことを言っているのだろうか。ファウストの魔道具をまじまじと見つめる。きらりと光る鏡面は、フィガロの不思議そうな整った顔を映し出していた。
「……ならいい。邪魔をした」
サッと鏡を消したファウストは、帽子のツバを下げ、フィガロにくるりと背を向ける。
パッとその腕を掴んだのは、きっと衝動的だった。怪訝な顔をするファウストに、フィガロは不器用な笑みを浮かべる。
何となく、このまま帰してはいけない気がしたのだ。
「ねえ、どうしたの? せっかくここまで来てくれたんだ、教えてよ」
「離せ、問題ない」
「あるよ、きみは東の先生役だろう? 彼らに何かあったらどうするんだい?」
「……卑怯者め」
ずいぶんな言い草にフィガロは眉を下げる。意図して言ったことは違いないため、フィガロはあえてその言葉には触れないでおいた。
「ほら、入って。ワインでも飲む?」
「……帰る」
「うそうそ、ごめんね。どうぞ」
パチンと指を鳴らせば、小さな丸テーブルと背もたれのついた緑色の椅子が二脚現れる。テーブルの上に置かれた空のグラスにファウストは露骨に嫌そうな顔をしたが、フィガロはお構いなく椅子に座った。
「ほら、座って」
「……ああ」
いつもの威勢の良さはすっかり身を隠し、ファウストはゆっくりと椅子を引く。カソックに似た長い裾をさっと伸ばしながら腰掛けるその仕草は、彼の持つ丁寧な性格を表しているようである。
「なんだ、じっと見て」
「いや、なんでもないよ。魔道具のことだよね」
怪訝な目を向けられながらも、ファウストは素直に魔道具を出現させる。ぶん、と風を起こしながら目の前に現れた鏡を見ながら、フィガロは目をスッと細めた。
ファウストの魔力と、それに張り付くような嫌な気配。
「あぁ、やっぱりね。取ったほうがいいよ」
「……」
ファウストはどこか気まずそうに目を逸らす。
昼間、東の魔法使いたちは任務へ出かけていた。夕方ごろに怪我をしたヒースクリフを診察したことを思い出し、フィガロはにこりと笑う。
「なるほど、庇ったわけか。それでこれ。嬉しいよ、頼ってくれて」
「……できれば破壊はしたくない。鏡面から腕が伸びてきているんだ」
「幻覚の類かな? ちょっと借りるね」
想いが強く、心と魔力を与え続けた物が不思議な力を帯びることなど珍しくはない。
魔道具は魔法使いの心が詰まっている。長く使うほど愛着が湧き、魔道具も使い手に馴染み、かけがえのない存在に変わっていく。
けれど、それだけ魔力を媒介し続ければもはやただの物ではない。本質からはうんと変容し、その存在は変わり果てているのだ。
フィガロが軽く魔力を加えれば、鏡面が怪しく光る。ファウストの顔がわかりやすく歪んだ。
「……腕が伸びている」
「どんな腕かな? 俺には見えないから教えて」
フィガロには何も見えない。ただ、嫌な気配がぼんやりとする程度だ。弱い魔力を鏡に与え続けると、その度に鏡は跳ねるようにガタガタと動く。
「二本、右手と左手が拳と握ったり開いたりを繰り返している。痩せ型ではあるがしっかりと筋肉はついていて……」
瞬間、ファウストは目を大きく見開いた。瞳が揺れ、震えた手でサングラスをゆっくりと持ち上げる。
「……知り合い?」
「……いや、知らない」
吐き捨てられた返事はひどく乱雑なもの。けれど、ファウストは幻影から目を離さない。
ファウストがこれほど動揺する相手など、フィガロが思い当たるのは一人だけだ。苦い記憶が蘇り、心の中でため息を吐く。
「……こっちに、手を伸ばしてきている。笑顔で、身体は少しだけ透けていて……」
ファウストはどこか震えた声になりながらも丁寧に状況を伝えてくる。
フィガロも多少は面識があるため、その表情も、姿も安易に想像できてしまう。もう四百年ほど前の話なのに、悲しいぐらいに記憶に焼き付いていた。
「……もうすぐ、僕に手が届きそうだ。どうしたらいい?」
「……ああ、うん、すぐに取っちゃうね」
ポッシデオ。
魔法を唱えれば、細やかな装飾が施された鏡がガタンと跳ねる。
「……ぁ」
ガタ、とファウストは椅子ごと後ずさる。何もない空間を見つめていた彼の視線は、一つ息を吐いてフィガロは向けられた。
「これで大丈夫だと思うけど、どう?」
「……腕は、なくなったよ」
「そう、よかった。うん、嫌な感じも残ってないね」
「ありがとう、助かった」
フィガロに深々と頭を下げ魔道具をひらりと動かしたファウストは、鏡を己の手でそっと撫でる。
彼に大切されていて、彼の唯一で。いいな、なんて。忘れたはずの甘い未練がジリジリと心を蝕む。
「ねえ、腕はどんな風に消えたの?」
「……モヤのように、薄くなっていったけど」
「そう……」
どうせなら燃えてしまえばよかったのに。悶えて、苦しんで、泣き叫べばよかったのに。
けれど、同じぐらい、天寿を全うした彼の幸せも願っているのだ。
深々と頭を下げ部屋を出ていくファウストの後ろ姿を見ながら、フィガロはゆっくりと目を閉じる。
もうすぐ石になる。いつまで生きられるかは分からない。
それでも、それでも。
彼を、見守っていたいんだ。