CHRONICLEあと、どれだけ続くのだろうか。
その光景を、動くことも、叫ぶことも出来ずに、見つめ続けていた。
炎が、破滅を告げる文字のように宙を疾り、魔を焼き尽くしていく。
燃えあがる火焔の中心に立つ<彼>は、怒れる精霊そのままの力を召喚し、自在に操った。指先から放たれる火炎呪文が、空を焦がす。
その凄まじい炎熱のなかですら、<彼>をつつむ淡いみどりの光が消えることはなかった。
やわらかなその輝きは、黒髪を乱し飛翔するその姿を、大地と森の守護者たる少年神のごとく見せていた。
あとどれだけ。
あとどれだけ、耐えられるのだろうか。
<彼>の指先が、彼自身の流した血で染まっていくのを、見つめ続けることに。
限りない焦燥に捕えられ、心の奥底をこじあけられるのを感じる。
<彼>が、魔王の放つ、毒のように紅く、なにもかもを消し去ろうとする業火から 、友を、仲間を、愛する少女を守り、ついに膝を地につくのを知っている。
<彼>の魔法が、魔王の狂った力に侵されていくのを知っている。
竜騎士と魔王の戦いは続く。
光と闇の力がせめぎあい、軋み、互いを砕きあう。
この戦場で、時間は円環の呪いを受けたかのようだ。
終わらない戦闘。
明けることのない夜。
あとどれだけ、正気でいられるのだろう。
「幸福になりたい」と言って笑っていた、<彼>のその頬には、死神の残した深い傷が刻まれ、血を流し続けていた。
過去の幻と知りながら、逃れられない。
何度でも繰り返す。
何度でもこの――<最後の戦い>を。
「それから、幸福でいてほしい」――凄絶な戦闘がもたらすおびただしい数の死が、地上にやどる希望の灯を消し去ろうとする戦場を駆けるとき、<彼>の言葉が傷ついた身体を癒す呪文であるかのように、くり返し思い起こしていた。
「みんなで幸福になるんだ。そう望むものはみんな。人もモンスターも。ダイ、マアム、レオナ、クロコダインのおっさん…もちろん、おまえもだぜ」
光の加減で緑がかって見える、榛色の瞳をもった魔法使い。
永遠に失われる、緑のひかり。
この幻の中において、自分は傍観者でしかなかった。
<彼>と共にあって魔槍をふるう自らを見つめているだけの、ひとつの視座にすぎない。
そして、永久に<彼>を救うことは出来ない。
きっとこれは罰なのだ。
気の狂うような痛みを伴う罰。しかし<彼>がその身に受け、倒れた痛みには、比べようもないのだろう。
<彼>の高く掲げた指先に、輝きが収束する。
いかなる魔力も傷つけることの出来ない、魂の力-――<彼>を象徴する「勇気」――をこめた魔法。
運命を変える、巨大な星のような力。 天を焦がす、最後の魔法(ソーサリー)は放たれる。
命のすべてをかけて闇を払い、朝を取り戻すために。
「――!!」
血を吐くように、声を限りに叫んだその名を、もう一度呼ぶことが出来るのなら。
せめて。
失われたその名前を。
もう一度。
光に誘われるように、ヒュンケルは、ゆっくりと瞳をひらいた。
早朝の森は喜びに満ちている。
頭上では、小鳥がさえずり、縞のある栗鼠が大枝を伝い走る姿が見えかくれする。
樹々の香りと、土の匂いで胸を満たし、幹に身体をあずけたまま、重なりあう枝のむこうに広がる空を見上げた。
透きとおる青。
きらきらと地にこぼれ落ちる光。
さしのべた指先に、小さな花が触れる。
どうやってこの地にたどりついたのか、思い出すことが出来なかった。
けれど、たとえこの森が何処でも、かまわないような気がしていた。
ただ、戻らねばならないと思う。
――あの戦場へ。
それだけを願ってきたのだから。
立ち上がろうとして、自分の足が思いどおりにならないことに気づく。
どこにも傷らしい傷はないのに、動こうとすると鈍い痛みがはしった。
小さく息を吐いて、もう一度背を大樹の幹にもたせかける。
赤い木いちごをちりばめた茂みをぬって、一羽の小鳥が近づくのを静かにみつめながら、ヒュンケルはいつか、奇妙な感覚にとらえられていた。
小さな泉が、清冽な水をあふれさせるように、胸の奥に広がっていくなにか。
足音がする。
茂みをわけ、枝のふれあう音が近づく。
風が、樹々の梢を鳴らした。
こもれびの下にあらわれたその姿を、ヒュンケルは息をのんでみつめた。
もしそれが、切望がみせる幻影だとしてもかまわなかった。
たったひとつの名前が、胸によみがえる。
確かに、そこに<彼>が立っていた。
「…ポップ!」
激しい痛みを耐え、ゆらりと立ち上がる。
「…ヒュンケル…?」
記憶の中の声が自分の名を呼び、その瞳が自分を見つめた。
記憶より、長く、肩にかかる黒髪。顔立ちは少しやせて、大人びたように見えた。けれど、確かにそれは――探し続けていた、<魔法使い>だった。
「ポップ…」
永久にうまらない距離を歩くような、もどかしい一歩を踏みしめる。
立ちつくす彼へ、さしのべた指先が触れた。
ほのあたたかい、熱量のある身体。
見上げてくる、見開いたままの瞳が、かすかにゆれるのを見た。
触れる資格などないことは、わかっていた。だが、すべてのためらいをおし流す激情が、ヒュンケルを動かした。
抱きしめる。
「ポップ…探していた…お前を…」
戦場の幻のなかでは、常に空白になっていた彼の名を、何度もくり返す。
「ヒュンケル…どうして…」
ポップの呟きは、かすかに震えるように風に溶けた。
何故、ふたたび出会ったのか。
この森で。
自分をつつむ腕の強さ。
なつかしい声の響き。
ポップは透明な雫があふれそうになる瞳を、かたく閉じた。
すべての感情を閉じ込めるように。
「痛えよ…ヒュンケル…」
ポップはヒュンケルの胸を押し戻そうと身じろいだ。
その声に、ヒュンケルはゆっくりと腕をほどく。ポップはヒュンケルの腕のなかから、少し後ずさりした。
ふと、そのその眉がよせられる。見つめ続けるヒュンケルに、ポップは手を差し出した。
「手」
「…?」
「手。のせて」
うながされて、ヒュンケルはポップの手に、手を重ねる。
その瞬間回復の呪文が唱えられ、ふわりと輝いた光がヒュンケルを驚かせた。
「これで、少しはまともに歩けるだろ?」
何かを言いかけるヒュンケルを制して、ポップは微笑んだ。
小鳥がその肩に舞い降りる。
「森を案内するよ。話はそれから。」
樹々の間に水面の輝きが見えはじめると、いつしか森はひらけていった。
今、ふたりの目の前には、美しい湖が横たわっていた。
遠い対岸に、神殿のなごりか、白亜の円柱の並ぶ小島が見える。
湖水は樹々の影を映し、静寂のなかでまどろんでいた。
「ここは…?」
ヒュンケルは低く呟いた。
水辺にひざまづき、その冷たいさざ波の感触を楽しむように、ポップは湖水をすくい上げる。
「お前は来たことがなかったかもな…」
水はきらめきながら、指をすりぬけていく。
「テランの聖域…竜の伝説の眠る湖。…というより」
ポップはヒュンケルをふり仰いで微笑む。
「そのイメージ、と言ったほうが正しいかな」
「…お前にとって、余程大切な場所なのだろうな」
静かに目を伏せ、ヒュンケルは答えた。
「そうでなければ、これほど美しく再現することは出来まい」
「ヒュンケル…」
「ここはお前の森なのだろう?」
ヒュンケルのあまり瞬かない、深い青の瞳が、真実をみつめていたことに、ポップは気付かされた。
「俺の森…」
「たとえここが何処であろうと、俺が死ぬことによってこの森にたどりついたのだとしても、俺はかまわない」
湖水をわたる風に、ふたりの髪が舞う。
ヒュンケルの言葉が、呪文のようにポップを立ちすくませた。
「…お前に会うことこそが、望みだったのだから」
「なんで…そんなこと言うんだよ…」
「幸せにしてやりたかった。しかし俺はお前を守ることも出来なかった。俺はお前を…」
「ヒュンケル!」
「愛していた。お前の強さも弱さも…お前の孤独さえ。それなのに、その心を告白することはなかった。俺の時間はお前を失ったときに止まってしまった…それも、お前の魔法なのか?」
<最後の戦い>に勇者は勝利し、地に平和と活気がもどっていく日々のなかで、自分が急速に狂気に近づくのを感じていた。
あの戦いの記憶に立ち向かうことも、あるいは逃げることも出来ずに、ただ、誰よりも自分を憎んでいた。
失われた、たったひとりを、これほど強く思う心がああることを知ることになる。
忘れることも、消し去ることも出来ない炎を捧げるために、ただ彷徨う。
胸の奥を、灼き尽くしながら。
「ばか…だよ…お前ってほんとに…」
ポップの呟きがかすれた。
「ああ。きっと…」
ヒュンケルはかすかに微笑む。
「お前にために死ぬことすら…出来なかったのだから」
ポップは目の前に立つヒュンケルをみつめ続けていた。海が与えた孤独のしるしのような、その青い瞳を。
「…だけど」
その言葉は、ため息のように紡がれた。
「お前はここに来てくれた。俺の森に…」
血と炎の記憶をこえて。何処よりも遠いはずの、この地に。
「ヒュンケル、俺がどう見える?俺…少し背がのびただろう?」
ポップはヒュンケルに近づき、彼を見上げた。
「この生きてるんだか、死んでいるんだかわからない世界でも、俺の姿は少しづつ変わっていく。それは多分…お前たちと共にありたいと願う、俺の心なんだ」
眩しいなにかを見るように、ヒュンケルはポップを見つめた。
「ポップ…」
「俺、少しは大人になったぜ?」
瞳を見開いたままのヒュンケルの唇にやわらかな吐息がかかり、羽根を思わせる唇が重なった。
「ポップ…!?」
「まだわかんないのかよ…」
けれどその不敵な笑みにもかかわらず、ヒュンケルが抱きしめてくる腕に、ポップはびくり、と身を震わせた。
「好きだ…・」
「それはさっき聞いた…!」
ヒュンケルの唇が、むきになったようにどなる唇をふさぐ。
湖へ続く草地は、ゆるやかに倒れこむふたつの身体をやわらかく受けとめた。
胸の奥にやどる炎は、もうひとつの胸に灯される。
炎をふたつに分けてもその本質が変わらないように、同じ熱さで、燃え続ける
――それが、何の魔法の力によるものなのか、あるいは、俺の身体のなかの、竜の血の仕業なのかわからないのだけれど。
まどろみのなかで、その声を聴く。たったひとり、心のすべてで愛した<魔法使い>の声を。
――俺は、この生と死の中間のような空間を与えられた。でも、死がどんなものか、知っている人はいないから、案外、これが死なのかも知れない。
もし、そう望めば、地上の様子を見ることは出来る。
ただみつめるだけの――無意味な力。
それでも。
俺は見守り続けるだろう。
否定することも、肯定することもなく。
精霊や魔物がいずれ約束の地に去り、人が地に栄えていくのを。
人がやがて、人間の心の動きが信号(シグナル)の連なりだと言い、あるいは星へ行く船をつくり出す――<魔法>の終焉を。
お前が来てくれてうれしかった。
俺を見つけてくれてうれしかった。
地上で、お前の役目を果たしたら、訪ねてほしい。
今度こそ。
幸福になりたいと思っているから。
「…さま…ヒュンケルさま…」
ひどく遠い場所から呼ばれているように感じられた名が、自分のものだと気づく。
「気がつかれましたか…?」
子供たち、その母親と、長老と思われる人物。ベッドを囲むその数人で、小さな民家の一室と思われる部屋はいっぱいになっていた。
ヒュンケルは人々の顔を見渡し、この状況の意味を思いだした。
偶然の出来事。ここしばらくのひどい熱さと乾燥が引き起こした山火事のなかから、取り残された子供たちを救った。
「パプニカから帰った者の話によると、あなたさまはあの勇者のパーティのおひとりであるとか…本当にありがとうございました」
口々に礼を述べる大人の間から、子供たちが前に押し出される。
「この方にお礼をいいなさい…」
行く先もなく、たださまよう旅の途中、考えるより先に身体が動いた結果だったが。
はにかみながら、銀の髪の異邦人にたどたどしく礼を言う子供たちの、ひとりひとりがひどく大切に思えた。
子供には、もうひとりでも死んで欲しくなかった。
子供は未来そのものだった。
あの森で<彼>が見守り続ける、遠い時代への担い手たちを自分もまた愛しく思う。
幸福であってほしい、と。
「ヒュンケルさま…足は痛みますでしょうか?ひどい火傷と傷をおわれたのですよ…生きていらっしゃるのが不思議なくらい…この村には回復呪文の使い手も少なくて…」
看護をまかされた娘だけが、そのときの青年の瞳に宿った、不思議な、けれどもやわらかな表情を、長く記憶することになる。深く、しかし決して冷たくはない、美しい青。
「大丈夫…すぐ歩けるようになると思います…」
そう――すぐにまた、歩き続ける日々が始まるのだろう。
けれどそれがどこに続く道なのかを、もうヒュンケルは知っているのだった。
いつか、あの森へ。