特務の仕事も別の担当がついていて、一般書架の仕事も断られ、降って沸いたしばらくの退屈を想い憮然とした気持ちでタバコを嗜んでいると芥川がのこのことやってきた。
「やぁ、どうしたんだい？ずいぶんなご機嫌じゃないか」
芥川が菊池を働かせすぎるなと発したあのとき、菊池自身が一利用者として本棚の間にいたことをこの男は知らないだろうが、からかうつもり口振りはなにもかも知った上で菊池を試しているようにも聞こえる。
口を開けば売り言葉が飛び出すのをわかっていて菊池は沈黙を続けた。俺は今機嫌が悪いのだ。触れてくれるな。席なら他にいくらでもあるのだ。場を悪くするから止めろと再三再四言われる悪癖だが、特務司書曰く獣の威嚇行為で理解してしまえば怖くないそうだ。貧乏ゆすりと沈黙と鋭い視線の意味を理解できる相手を選んで行っていて、たまたま居合わせた例えば初対面の少年が居合わせれば菊池の方がなにかと理由をつけて席を外す。そうして苛立ちが収まった頃にひょっこり顔をだすから野生の熊のようと例えられた。
「また、幸田さんと将棋で負けたのかい？君、どういうわけだかあの人になかなか勝てないよね。打ち方の相性が悪いのかい」
普段ろくに使われていないヤニ臭い喫煙室は向かいの席も空いているというのに膝の触れそうなくらい近くに座った。
「それとも昼メシが当たったとかじゃないだろうね。自分で思っているほど丈夫じゃないかもしれないってこないだいっていただろ」
しらないい、答えたくない、目も合わせたくない。と壁紙をじっとみていると芥川は身を乗り出し菊池の顔を覗き込んできた。
「ほんとうに、何がそんなに嫌だったんだい？僕にまでだんまりなんて、珍しいじゃないかい」
肩が触れそうになって、菊池はすこし体を傾けた。全力での拒絶。気づかない芥川ではあるまいに、彼はほんとうに不思議そうに菊池の名を呼びかけた。
「あんたにゃ関係ない」
いや、関係は大ありだ。
「関係ないのなら相談くらいしてくれてもいいじゃないか。愚痴だって相談だって僕は大歓迎だよ」
芥川の爽やかな眼差しかいつもよりゆっくりと瞬きをする。落ち着きたまえ、そして冷静な頭で君の思いをぶちまけて見せなよ、と誘っている。
「本当に、なんでもない。幸田さんも関係ない。何というわけでもないが胃のあたりがムカムカして落ち着かなかったんだ。あんたのいう通り昼メシがあたったのかもな。胃腸薬もらってくるよ」
タバコを揉み消して立ち上がると、まだマッチも構えていない芥川も一緒に席を離れた。
まるで合鴨の子のようにひょこひょこ着いてくるが菊池は何も言わなかった。常備薬の胃腸薬を見つけた頃には芥川はグラスに一杯の常水を汲んで待っていて、菊池が薬と水を飲み干すとやっぱり何も言わずにグラスを片付けに行った。芥川を放って自室に戻っているとその途中で追いついてきて会話もなく横に並んでくる。
何がしたいんだ、と横目で伺うとなにか照れ恥じらってもじもじと手あそびしている節ばった指が見えた。
「ふぅん」
納得がいって、片手を奪い取ると芥川はひゅっと息を呑んで足を止めた。が、菊池の方はお構いなしにずんずん進むからつんのめりながら着いてきて、そのうちそろりそろり腕を絡めた。
「あんた、寂しかったのか」
「違うよ。君が寂しがっているのに忙しさにかまけて気づいてないから僕が気を利かせてあげたんだよ」
「ふぅん」
どちらでも大差ないことだから菊池は適当に相槌をうって、さっさと部屋の扉を閉じた。2、3日泊まっていくならどこに行きたいかを話し合わねばならない。それから、最近読んだ本の討論だとか、街の様子が彼にどう見えているのかだとか、いろいろと言わなければいけない。菊池が慌ただしくしている間に芥川の見ている世界も慌ただしくすぎていっただろう。本を読むよりも旅に行くよりも彼の口から語られる月東日西花の色のほうが濃厚な異世界体験になる。