海へ行こうよ五条ボクシングジムの営業時間を終えるころ、若狭の携帯に千壽から連絡があった。
『今からジムに行く。どこか連れてってよ』
千壽らしい短いメッセージだった。彼女はこのボクシングジムの生徒だし、三日と空けず通っている。
しかし今日の用件はトレーニングではないらしい。
若狭が着替えてジムの裏口から出ると、やはりザリの側に千壽はたたずんでいた。
じろりと、その大きな瞳が若狭を見る。
思い当たるふしはある。ここ一カ月仕事が忙しくて連絡をしなかった。
ジムでもちろん顔を合わせるが、トレーナーと生徒という仮面をかぶっている。
若狭はとりあえず用件を聞いてみることにした。
「……千壽はどっか行きたいトコでもあるわけ?」
若狭は持っていたヘルメットを千壽に渡す。
千壽は受け取ったヘルメットを、まるで吟味するように眺めた。
「ん~……久しぶりに、海まで行こうよ」
「海?泳ぐにはちょっと遅くねぇか」
日没を迎え、あたりは暗くなり始めている。
若狭がそういうと千壽はヘルメットをすっぽりかぶった。
たぶん彼女はそうじゃない、と言いたいのだろう。
若狭は理由を聞くことを諦めて、単車にまたがった。
エンジンをかけると、後ろに千壽が乗る気配があった。
黒龍を卒業してしばらくは、真一郎を時々後ろに乗せて走ったものだ。
『海に行こうぜ』
夏になると、真一郎はよく若狭を誘った。真一郎は海を見ながら走るのが好きだった。
それに彼は、弟の万次郎を連れてよく堤防まで来ていた。
千壽がそのことを知るはずはない。もう十年も前の話だ。
若狭はザリを走らせた。ジムの敷地を出て、市街地を抜ける。
通勤の時間帯を過ぎた道路は空いていた。車の横をすり抜けてあっという間に海沿いの道に出る。
空は暗く、登り始めた月は湿気でぼんやりとかすんでいる。
ヘルメットをしていても、潮の匂いがわかった。
後ろに乗っている千壽は信号待ちで止まっても黙ったままだった。
千壽はどちらかというとよくしゃべる方だ。若狭や慶三にも遠慮がない。
だが怒っているわけでもないようだ。
それは何となくわかる。
海岸へ降りる階段の側にザリを停めた。
ヘルメットを外すと一層潮の香りを強く感じる。
「ワカ、こっち行こ」
千壽は海へ続く階段を下りていく。海風を浴びて、千壽の白いTシャツが揺れた。
その細い背中を若狭は追った。
白い砂浜に千壽のスニーカーの跡が残っている。
波打ち際の濡れた砂の上に千壽は立っていた。背後には暗い海が広がっている。
千壽は飛び込むようなそぶりを見せ、若狭はぎょっとした。
その顔を見て千壽は笑った。
「そんなことしないよ」
「……マジで泳ぐのかと思うだろ」
初代黒龍のメンバーなら、誰かが海に飛び込むに違いない。
ワカも来いよ!真一郎ならきっとそう言うだろう。
喧嘩以外の楽しいことは真一郎が教えてくれた。
若狭の心を見透かすように千壽は言う。
「泳ぎたいのはワカだろ?」
「……まさか」
若狭も笑うと、千壽は少し手を伸ばした。
その細い手を若狭から握った。普段は人目を気にしてこんなことはしない。
千壽はそれに納得したように若狭に体を寄せた。
「……なぁ、何で手ェ繋ぐ他はダメなんだよ」
少し低いところにある千壽の頭が言う。
「ジブンは本気だよ。真面目にワカと付き合ってるつもりなんだ」
「……オレだって真面目だ。だから高校生とはこれ以上のことはできないよ」
若狭はつないだ手を持ち上げた。
こんな話をするのは今日が初めてではない。付き合い始めてそろそろ一年、繰り返し伝えてきた話だ。
千壽は高校二年生になった。
友達の間でもこの手のことは話題に上るのだろうが、興味があって当然だ。
その都度若狭は、高校卒業するまではダメ、と何度も言ってきた。
いつもの千壽なら『ケチ』だの、文句を言ってむくれる。
しかし、今日に限って千壽は何も言わなかった。
「……ジブンはワカのこと、信じてる」
「…………」
「でも、理由って、他にあったりする?」
若狭は一瞬黙ってしまった。そんなことをすれば、肯定するのも同じだ。
今夜はいつものようにうまくいかない。
きっと海になんか来たからだ。
「……そうだな、オレは千壽に言わなきゃいけないことがある」
若狭は独り言のように呟く。
「なんだよ」
「オレが忘れられない人の話」
若狭は千壽の手を離すと、波打ち際から少し離れた場所に腰を下ろした。
千壽の大きな目がじっと見ている。
「……こっち来て」
若狭が手招きすると千壽は歩いてきて、隣に座った。
若狭はまとめていた髪を解いた。伸びた金髪が肩に触れる。
「ワカ、その人のこと、教えてくれ」
千壽は若狭を見つめて言った。
何物も恐れないその瞳に既視感を覚える。この海も、その瞳もいつか見た光景だった。
「……千壽もよく知っている人だヨ」
若狭は口を開いた。
「喧嘩が弱いくせに、弱い者いじめが誰より嫌いでいつも突っ込んでいくような奴だった。そいつはオレに、喧嘩以外の楽しいことを教えてくれた」
「…………」
「……喧嘩が強い奴なんていくらでもいる、でも、オレが本当に強いと思ったのはそいつだけだ」
風に乱れた髪を若狭はかき上げた。
「だから急にいなくなったことが、何年経っても受け入れられなかった。ずっと置いて行かれたと思ってた」
千壽は黙って聞いていた。彼女が思い描く人物は、一人しかいない。
「……それを紛らわせるために、オレは千壽の『梵』に入った」
「ワカ……」
「動機が不純だろ?今更だけど、怒ってもいいぜ」
千壽は静かに首を振った。
「……どうしてワカはまだジブンといてくれるんだ?梵は去年解散しちゃったぞ?」
「……それはさ」
今度は若狭から千壽の手を取った。
細い手だ。それに体つきも華奢だ。しかし梵を率いていた時の彼女は誰よりも強かった。
ジブンのチームを解散するときでさえ。
「千壽。オマエは三天戦争で、皆を守るために頭を下げたんだろ?」
「ワカ……、ジブンは」
千壽の言葉を若狭はさえぎった。
「……あの場でオマエは誰にも負けてなんかない。誰よりも強かったよ」
若狭は千壽の手を強く握った。
「だから好きになった」
千壽は夜目にもわかるほどぱっと顔を赤らめた。
若狭もジブンの気持ちを正直に伝えるのは初めてだった。
『真ちゃん、オレさ……』
何度も言おうとして、結局何も言えなかったから。
千壽は若狭の肩に、頭を預ける。
「……いいよ。ワカがその人のコトいまだに忘れられなくても」
「千壽……」
「正直に話してくれてありがと」
千壽はそれだけ言うと、がばっと立ち上がった。
そしてくるりと振り返る。
砂だらけの手を、まだ座っている若狭に差し出した。
「ワカ。ジブンはずーっと一緒にいる」
若狭はその言葉にはっとした。
千壽の大きな瞳が若狭を見つめている。
「ジブンはワカを置いて行かない」
迷いがちに差し出した若狭の手を、千壽は見た目にそぐわぬ強い力で引き上げた。
「うわっ……」
立ち上がり砂の上でよろめいた若狭の体を千壽は抱きしめた。
何か言いかけた若狭の唇に、ほんの一瞬柔らかいものがかすめた。
何をされたのかはすぐに分かった。油断した、と若狭は小さく吐息をついた。
「……おい、千壽」
千壽の赤い顔が間近にある。いたずらが成功した時の子供のように、へへと笑った。
若狭は怒る気にはならなかった。
「……武臣には黙ってろよ」
「……うん」
「絶対だぞ!?」
「わかってるって」
千壽は浮かれた顔をして、するりと若狭の胸の中から抜け出した。
千壽は砂浜の上を軽やかにスキップした。明日の朝には、武臣に知られているかもしれない。
その小さな足跡を若狭は追った。
千壽は時々少し後ろにいる若狭を振り返った。
若狭はちゃんとついていくから、という風に手を振る。
『ワカ、喧嘩で勝つ以外に楽しいこと、ちゃんとあるだろ?』
いつか、真一郎が言ってくれた言葉を思い出す。
若狭は砂に残る小さな足跡を見つめた。ずっと続いていて若狭を待っている。
真一郎があの時教えてくれたから、今見失わずにいる。
若狭は、新しい足跡に向かって駆け出した。
【完】