フーカの一葉『いつまでも悲しいと辛いでしょう? だから、ひとの記憶はフウカするように出来てるのよ』
母親が言った。だが、松野千冬にはそれがどういう意味なのか分からなかった。知らねえよ、と毒づいた。自分の頭の出来が良くはないことは知っている。だが、そういう次元の話でもないのだろうな、と薄々考えた。
それを言われた当日、あのひとを想って千冬は泣いた。じっと、出会ってからの記憶にだけ引きこもっていた。温もり、低い声で自分を呼ぶ懐こい独特の言い回し──。まだ、そこに在る。
泣いていたのか、叫んでいたのか。
感覚すら覚えていられなかった慟哭。
感情の波にただただ振り回されて、声も枯れる果ててひたすら目汁鼻水を気の済むまで垂れ流していた。
「フーカって結局なんなんだよ…?」
長い年月の過ぎた休日、また訪れた黄色い絨毯の銀杏並木でふとそれを思い出した千冬は辞書を開いた。
短くとも濃い時間を過ごした千冬も、いくつか形見分けしてもらい、あのひとが使っていたものを譲り受けた。これはそのひとつだ。
意味もなく、分厚い辞書を抱えては付箋を挟み込み、しかめっ面をして読んでいた。いや、あれはもう読んですらいなかったのかもしれない。そうだ、眺めていた。ただ、開いて、勉強した気分だけをじっと堪能していたのかもしれない。
それでも、あのひとがそうするのを傍で見ている時間が、自分だけにテリトリーを許して、与えられた陽だまりのようで。千冬は、好きだった。
「ふ……」
笑みが溢れた。貼りついたままの憐憫の片鱗が久しぶりに緩んでいる。
皮肉なものだ。
自分を悲しませるのも、喜ばせるのも、感情の根幹を司るのは全てそのひとだけなのだ。
千冬は辞書を捲る。
フ、フ、フ、……。
アから始まったそれは、やがてハ行に差し掛かる。フア、フイ、フウ──。
「あ……? ……ねえな」
そこだけぽっかり空いていた。一頁だけ破れて、図られたようにそこが失くされていたのである。
ああ、そういえば。
手が滑ってそれを足の小指に落としたのだ、と大騒ぎして千冬へ八つ当たりしていたいつかのあのひとを思い出す。そこには、まだ、確かな温もりが残っていた。
千切れた紙束は何事もないように、先へ迷いなく続いている。
「はは……! なんだよ、フーカって」
結局大したことなんかねえヤツじゃんか、と破顔した千冬はベンチの背もたれに体重を預けて安堵する。
いつまでも、いつまでも。自分さえ在り続ければ。
自分とあのひととのあいだで、出会いから果までの記憶が風化することなど、未来永劫あり得ないのだと、そこでようやく理解したのだ。
終