アップルミントのゆめをみて 時刻は21時を少し過ぎたところ。外は寒いが、家の中は暖房が効いている為暖かい。風呂上りの瀬田薫は自室のベッドに腰掛け台本を読みながら、一人そわそわと落ち着かない様子でいた。それは、今日が金曜の夜だからということだけが理由では無かった。
視線は手元の文章を追うものの、目は滑って内容は頭に入ってこない。それでも平静を装ってぺらぺらとページを捲る振りをしていれば、やがて扉の向こうから階段を上がる音が聞こえた。軽い足音は段々此方へと近付き、扉が開けられる。
「薫さん、お風呂ありがと」
「ああ。よく温まったかい?」
部屋に入ってきた恋人――奥沢美咲の姿に、薫は激しく動悸する心臓を誤魔化しながら微笑んだ。頷く美咲の頰はほんのりと赤く、しっかり身体を温めてきたであろうことが窺える。
「何読んでたの? 台本?」
隣に腰掛けてきた美咲が、台本を覗き込む。その距離の近さと香る自分と同じシャンプーの匂いに胸が高鳴りつつ、彼女へと目を向けて薫は驚愕する。
美咲の髪は濡れて湿っていた。滴る水滴は髪を伝い、肩に掛けたタオルへと吸い込まれていく。
「美咲。髪を乾かしていないじゃないか」
「え? あ、いやー……ドライヤーの場所分かんなくて」
勝手に探して使うのも失礼だよなって。苦笑いする美咲が、バツの悪そうな顔をして目を逸らす。律儀なところが美咲らしいとは思うが、こんな寒い日に髪を濡らしたままでは風邪を引いてしまう。
薫は先程までの緊張も忘れ台本をベッドの上へ置くと、「少し待っててくれ」と美咲の濡れた髪の代わりに頰を撫でて部屋を出た。数分してすぐ、ドライヤーと小瓶を片手に戻ってくる。お礼を言ってドライヤーを受け取ろうとする美咲をベッドからフローリングの上へ座るよう促し、自分もその後ろに座る。美咲を抱き込んだような姿勢のまま、彼女の前で小瓶の蓋を開けた。中を満たす液体が揺れると、美咲は首を傾げる。
「……なにそれ?」
「ヘアオイルさ。千聖の家のおばさまから頂いてね。美咲に似合う良い香りだと思うんだ」
薫は中の液体を左手へと数滴垂らす。その瞬間ふわりと漂うのは、フルーティで爽やかな香りだった。
「……いいにおい」
「そうだろう。ほら、前を向いて」
両手になじませたオイルを、美咲の髪へと付けていく。手櫛で髪を整えるようにオイルを揉み込んでいけ
ば、湿った黒い髪は引っ掛かることなく薫の指の間をすり抜けていった。
「美咲は綺麗な髪をしているね」
「……そんなこと、」
「艶があるし、きめ細かくて美しい。まるで絹の糸のようだ」
「……大袈裟だってば」
褒められることのむず痒さに居心地の悪さを感じながらも、薫の手付きとオイルの香りが心地良い。最初はそわそわと落ち着きのない様子だった美咲も、次第に身体の力が抜けリラックスし始める。
薫はオイルをなじませ終わると、オイルの小瓶を美咲の手に握らせた。
「え、薫さん? これ、」
「私よりも美咲の方が似合うだろうしね。貰ってくれるかい」
「いやいやこんな高そうなもの貰えないですって」
ぶんぶん首を振る美咲が、小瓶を薫へと押し返す。貰い物だとは説明したし事実その通りなのだが、恐らく彼女の場合それだけでは納得しないだろう。特に負い目を感じる必要はないのだが。
「私が美咲に使って欲しいんだ。……嫌かい?」
「嫌って訳じゃ……。嬉しいけど、自分じゃやらなそうだし……」
頰を掻きながら苦笑いした美咲が振り返って、言葉を止める。薫が少しだけ寂しそうな表情をしていることに気付いたからだった。ぐ、と言葉を詰まらせる。
美咲は、恋人のこの顔にすこぶる弱かった。それを自覚しているからこそ、次の言葉を探して、視線を泳がせて。
「……だから、薫さんがまたつけて」
やがて、絞り出すように小さく言葉を吐き出した。それは美咲にしては珍しいおねだりの言葉。
薫は驚いたように目をぱちくりさせた後、花が咲いたように表情を輝かせて。
「……! ああ、勿論だとも」
薫の嬉しそうな声音と笑顔を向けられる。それを美咲は一瞥すると、そっぽを向くように前へと向き直した。
ただ指で髪を梳いていた薫からは赤く染まった耳が丸見えで、照れ隠しであることは容易に想像がついたのだが。それは指摘しないことと決めて、ドライヤーの電源を入れる。熱風の音に驚いたように美咲が振り返った。
「えっ、いいって薫さん。自分でやるし」
「ん? なんだい?」
美咲の表情や手を差し出す仕草から何を言っているのかは察しがついていたが、ドライヤーの音で声が聞こえない振りをして薫は美咲の髪に熱風を当て始めた。美咲はその様子を見ると、早々に諦めて肩に掛けていたタオルを膝上へと置く。
勿論一人で髪が乾かせない訳ではないことは薫も承知の上だが、この恋人は自分のことはどうも粗末に扱ってしまうのが癖らしいから。あとは単純に、髪に触れたいという下心もある。……が、これは口には出さない。
ドライヤーの風を当てていけば、次第に乾いてきた髪が風になびいて舞う。頃合いを見て冷風に切り替え、手櫛で髪を整え始めた。
髪がすっかり乾いてきた頃、美咲の頭がこくりと舟を漕ぐ。ドライヤーを止めてそっと顔を覗き見れば、美咲は気持ちよさそうに寝息を立てていた。
「……儚い」
薫は眉を下げて微笑むと、もうすっかり夢の中な美咲を抱き上げる。そっとベッドに横たわらせると、寒くないように毛布をしっかり掛けた。
その隣に潜り込むと、眠る美咲の身体を後ろから抱き締める。自分が手入れしたばかりの髪に顔を埋めれば、付けたばかりのオイルと、自分と同じシャンプーと、そして美咲自身の香り。息を吸う度にそれらが肺を満たしていけば、薫の目蓋も次第に下がっていく。恋人に手招きされるように、同じように夢の中へ。