僕だけが覚えている ある日の昼下がり、彼らの家に流れるゆったりとした空気を、電話の音が遮った。
「もしもし。……ええ、承っております。……はい、水道管の点検と修理ですね。お名前と住所をお願いします」
電話に出たマリオは、電話の横に置いているメモにペンを走らせた。
「はい、はい……え?」
頷きながら動かしていた手が、突如固まった。
「マメーリア?」
マリオが口した懐かしい名前に、本を読んでいたルイージも顔を上げた。
「兄さん、今のは仕事の依頼?」
通話を終えたマリオは受話器を戻し、ルイージの方に体を向ける。
「ああ。聞こえたと思うけど、マメーリアからだ」
「なんでボクらに……?」
「さぁ、詳しくは聞けなかったな。ただ、大きな屋敷らしくて時間がかかるだろうから、泊まってくれと言っていたよ」
「そんなことまで?」
「らしい。あと、あっちで飛行機も手配してくれるってさ」
「わぁ、至れり尽くせりだね」
「……そうだな」
マリオは何かを思案するような仕草を見せたが、結局「準備しておくんだぞ」とだけ言って話を終えてしまった。
〜〜〜〜〜
その後、滞りなく作業は終わった。大切な道具たちを部屋に戻し、遅くなったが昼食をとることにした。
食堂に入ると、執事が食事を用意してくれていた。魚のムニエルに豆サラダ、そして珍しいことに普通のロールパンがカゴに盛られている。使用人たちは既に食事を終えているとのことで、ふたりきりで食べることになった。
揃って手を合わせ、豆サラダから食べ始める。ぽつぽつと会話はするものの、いつものように弾むことはない。元来、食事中はそこまで話す方でもないが、いつにも増して話が続かなかった。
会話が止まる度、マリオは目を伏せた。仕事をしているうちは、自然に話すことが出来た。なんなら目だって合わせていたはずだ。しかし、仕事という名分を失ってしまった今、どうしても昨日のことを意識してしまう。うまく、笑えている気がしない。
はやく、いつも通りに戻らなくてはと思った。このままではきっと仕事にすら支障が出るだろう。それは困る。気になって引きずるぐらいなら、きっぱりと謝った方がいい。変なことを口走って悪かった、と。疲れて酔って、感傷的になってしまったと言えば、心優しい彼はきっと許してくれる。
どんなに考えたって「自分」がどうしたいか分からなかった。自分の希望は必要のないものだったから。余計なものでしかなかった。みなを救うことに、自分の欲望はもっとも要らないのだ。要らないから、切り捨てた。切り捨てられないものは押さえつけた。そうやって蓋をしていれば、いつの間にか、欲望は薄れ忘れていった。でも、消えてはくれなかったらしい。現にこうして彼への想いが、欲望が、心を掻き乱している。その気持ちを沈める術を知っているはずなのに、どうしたらいいのか分からない。
でも、少なくとも、このままではだめだと分かっている。ならば元に戻れば良い。変える必要もない。上手くやっていたのだから。さっきまで普通に話せていたのだ。あの調子で居ればいい。今はまだ昨日の記憶がはっきりとしているから戸惑っているだけで、時間が経てば気持ちは落ち着くはずだ。
大丈夫、言葉にはしていない。まだ、引き返すことはできる。……なにも、壊してはいないのだから。
気がつけば、目の前の皿は空になっていた。きちんと味わうこともせず食べてしまったことに罪悪感を覚える。ちらりと様子をうかがうと、弟もまた食事を終えたところであった。視線に気がついたのか、目が合いそうになって慌てて背けた。
「兄さんは、これからどうするの?」
そう声をかけられたとき、扉が開き執事たちが入ってきた。食器を片付けに来てくれたようだ。邪魔になるからと誰かに言い訳をしながら、礼を言って立ち上がる。そして、執事の方を見ながら口を開く。
「少し歩いてくる。夕食までには戻るよ」
「……わかった」
それ以上何も返ってこないことに、安堵と身勝手な寂しさを感じる。彼の予定を聞かないのも不自然だろうと、問い返す。
「キミは?」
「ボク? ボクはここにいるよ。やっぱりさっきの部屋をよく見たいんだ」
「そうか。ゆっくり見てきたらいいよ」
「うん!」
「……じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」