どうせ生きるなら艶やかに エリジウム、と彼にとって信頼すべき上官であり戦友でもあるドクターの昼下がりの日溜まりのごとく穏やかな声に、彼は厄介事の気配を受信した。
本日の業務は良好、ブラザーとのチェスにも勝った、良い一日の予感は、けれどもたちどころに瓦解しそうだ。先鋒として、傷を癒してくれる医療オペレーターも自分を庇ってくれる重装オペレーターもいない段階から、戦場に突入され前線を切り開くことの多いエリジウムは、危険信号を受信する自分の感覚を信頼していた。
そして今、彼の直感はこう囁いている。これ以上聞かない方がいい。
「ごめんドクター、ちょっと急用を」
「今日の秘書は君だろう、定時までは働いてくれ。……そんなに怖がらなくてもいいだろう、ちょっと聞きたいことがあるだけだよ」
フェイスシールドの向こうでにこやかに微笑んでいるドクターに、いよいよ危険信号は警戒のレベルを上げる。その煩さに耳鳴りがしそうだ。大丈夫だよというドクターの声は、戦場であれば自分たちに安心をもたらし、だからこそ彼は通信兵としてその言葉を戦場に立つ全てのオペレーターへ届けることを自らの誇りとしているのだが、しかし今に限って、それは福音としては聞こえなかった。冷静になろう。エリジウムは先程自分で入れたカモミールティー――業務で忙しくしているドクターへの、秘書としての心配りだ――に口をつけ、
「一般論として聞きたいんだけど、女性の付けている下着は何色だと興奮する?」
瞬間、エリジウムは人間噴霧器となった。うわっとドクターは驚き、気道に入ったお茶のせいでげほごほと咽せ込んでいるエリジウムに呆れた眼差しを向ける。
「君が執務室の乾燥を気にしてくれているのは知っていたけれど、そんな形で湿度を上げてほしいわけじゃないんだよ」
「ドクターのせいだってわかっているかなあ!」
はて、と首を傾げる姿は演技か素なのか。いずれにせよ末恐ろしい。エリジウムは頭をかきむしった。一房だけ生えている赤い髪が全て抜け落ちてしまうことを恐れている彼にとってはかなり希少な仕草だった。それだけ冷静さを欠いているということでもある。
「そんな質問に僕が答えたらリーさんがなんて言うかわかったもんじゃないでしょ?!」
「その名前を出すな! リーの話はしていないだろう! 関係ない!」
いやそれは関係がない方が問題だろうと突っ込みたかったが、しかしフェイスシールド越しでもわかるくらい頬を赤らめているドクターにその事実を指摘するまでもない。
「ドクター、わかっていると思うけど、僕は先鋒としてリーさんと同じ隊に編成されることも多いんだってば」
「知っているよ。隊の編成を考えているのは私だからね。だからこそ君に聞いているんじゃないか」
あ、これはダメだとエリジウムはかきむしっていた頭を抱えた。この目をしているドクターの意地と意思の硬さは知っている。つまり自分には、もう逃げ道は用意されていない。
「エリジウム、私が聞きたいのは一般論だ。君や――特定の誰かの、性的嗜好についてではなくて」
ドクターの口からそんな言葉が出る温度差に思わず笑い出しそうになる。笑顔、そしてユーモアは、どんな状況であれ現実を忘れさせてくれる麻酔だ。しかしドクターの瞳は真剣そのもので、質問を忘れてくれそうにはない。
エリジウムは一つ、深呼吸をした。何かあったときにはブラザーも巻き込んで、ロドス中を逃げ回るしかない。エリジウムはロドスにやってきてからそれなりに長いオペレーターだ。数々の死線をかいくぐり、生の終わりを覚悟したこともある。しかしそれまでとは全く違う種類の緊張があった。
これはあくまで一般論だけど、と前置きして、エリジウムは答える。
「――黒、かな」
***
幸福とは現在からの変化量によって規定される。
連日フルコースのディナーを食べようものなら胃もたれもするし飽きるだろう。七日間の絶食後に与えられる限りなく水に等しい粥は満炎全席にも勝る。漫然と過ごす幸福というものは惰性と大差なく、であればそれを打破するためには相応の努力をしなければならない。
ということをドクターが理解したのはブレイズが主催する飲み会、すなわち女子会に招かれた時だった。ドクターという予想外の参加者に場は色めき立ち、ドクターをこの場に招いた功労者であるブレイズは胸を張っていた。酒の席ということもあり、上下の隔てなくオペレーター達はドクターに接し、普段、作戦のミーティングや執務室では出ないような話題に花を咲かせていた。
それが、「恋人同士は長い間付き合っているとマンネリに陥る」である。
ドクターは何も知らない素振りで会話に相槌を打っていたが、内心は冷や汗が止まらなかった。ロドス内で知っているものはまだ少ないが、ドクターには恋人がいる。まだ付き合ってそれほど日は経っていないが、自分よりも人生及び女性経験が豊富であろう彼は、果たしていつ自分に飽きるのだろう? 美人は三日で飽きるという言葉もある――恐ろしいことに! であれば、別段美人ではない自分に、彼はどれくらいの時間で飽きてしまうのだろう。
ドクターを混乱の坩堝に叩き込んだその飲み会は、しかし同時に天啓も与えてくれた。自分より経験豊富な女性オペレーター達は、どのようにしてそのマンネリを打破したかを教えてくれたのだ。
そしてそれを実行すべく、ドクターは龍門の街へと降り立った。ドクターはロドスの戦術指揮官であり、トップの一角だ。外出時には然るべき事務手続きを踏み、護衛をつける必要がある。外出の目的を書かれた紙を受け取ったケルシーは、その目的を再三に渡ってドクターに確認し、ドクターはそれに心を折られそうになりながらも結局は譲らなかった。ケルシーの許可を経て意気揚々と街に繰り出したドクターの背後には、影よりも密やかにかつぴったりとファントムが付き従っている。本当のことを言えば女性のオペレーターが護衛として付いてきてくれたほうが良かったのだが、しかし如何せん予定が合うのが彼しかいなかった。後で彼に礼をしなければ、とドクターは目的地へと向かいながら思った。ちなみにミス・クリスティーンは今回は同行していない。賢明な判断だと思った。
目的地である店の前に立ち、ドクターは大きく深呼吸をした。外出先と言えば近衛局や書店、オペレーター達に付き合っての食事が多く、自分でこのような場所に来るのは初めてだったし、そんな日が来るとも思わなかった。恋は人を変えるものなのだ、という事実を噛み締めながら、ドクターは店の扉をくぐった。
繁華街にあるランジェリーショップである。
化粧っ気もなければ素っ気もない来客に、店員は胡乱な視線を向けた。ドクターは一瞬たじろいだが、ここで引くわけにはいかない。何をお探しですか、という店員の言葉の裏には店を間違えていませんかという意味が透けていたが、ここでドクターは事前にウタゲから教わっていた真言、すなわち「マッチングアプリに載せるえっちな自撮り用の下着を探しているんです」を唱えた。
効果は抜群だった。
かくしてドクターは恐れおののいた店員を退けて探している下着――どのようなものを買うかは事前にネットで目星をつけていた――を買いロドスへと帰還した。
後は、愛しい恋人がやってくるときに、恥ずかしがらずにこれを身に着けられるか。それが問題である。
***
今日の夜は一緒に過ごせるか、と恋人に言われて舞い上がらない男などいないだろう。ではいつもの時間にあなたの部屋へ行きますから、と囁やけば、年若い恋人は耳を赤くした。頷く表情が硬いのは、久方ぶりの逢瀬だからだろうか。可愛らしい恋人の振る舞いに、リーはドクターの部屋へと向かう足取りが必要以上に浮足立たないよう、万全の注意を払う必要があった。勿論、頬がだらしなく緩まないようにも。
合鍵は渡されている。カードキーをかざすと軽い音を立てて電子錠が外れた。ドクター、と呼びかけて中に入る。居間には人の気配はなく、扉を一枚挟んだところにある寝室から明かりが漏れていた。既にそこで待っているらしい。普段であれば居間で自分を待っていて、寝室へ向かうのは互いの近況を語り合ってからだ。何かあったのだろうか、と訝しみながら寝室へと繋がる扉に向かって声をかける。
「ドクター?」
「あ、あぁ、リーか……」
「そりゃそうですよ。まさかおれ以外にも合鍵を渡しているんですか?」
「まさか。君にだけだよ」
その言葉に胸を撫で下ろし、リーは扉を開けた。ドクターはベッドの上で毛布を被り、体育座りをして、リーのことを待っていた。
「それを聞いて安心しましたよ。……それで、何かありましたか」
ドクターの隣に腰を下ろすと、スプリングがかすかに軋んだ音を立てた。それに掻き消されそうなほどか細い声で、ドクターがぼそぼそと呟く。
「今日はちょっと、その……い、色々と、工夫を凝らしていて……」
工夫? と聞き返すリーに、ドクターはおずおずと毛布の前を開いた。
目の前に広がる光景に、リーは一瞬、自分が幻覚を見ているか、自分にとって都合のいい夢を見ているのではないかと錯覚した。
ドクターが着ているのは黒いレースの下着だった。普段の、あのスポーツブラのように飾り気のない下着ではない。
言葉を失っているリーを、ドクターは悪い方に解釈したらしい。
「や、やっぱり似合わないな」
すまない、と眉を下げたドクターが再び毛布の前を閉じて自身を隠そうとしたので、反射的にリーはその手を掴んだ。その勢いにドクターはびくりと肩を震わせる。
リーは大きく息を吸い、そして万感の思いで呟いた。
「……えっろ…」
夜闇のように暗いそれはドクターの肌の白さを際立たせ、かつ胸の膨らみを柔らかく包み込んでいる。万年白衣にジャンパー、服装はいつだって効率性最優先のこの恋人が、まさかこんなものを着ているなんて!
感動と感慨に浸っているリーに、ドクターがどうかしたのかとおずおずと呼びかける。
「……あぁ、すみません、よく似合っていますよ」
「本当?」
不安と緊張で曇っていたドクターの表情がにわかに明るくなる。おれの恋人はどうしてこんなに可愛いんだと内心で感慨に打ち震えながら、リーは尋ねた。
「触っても?」
「もちろん」
ドクターが誇るように胸を突き出すので、その膨らむが強調されるような格好になり、リーは生唾を飲み込んだ。ドクターはそんなリーの気持ちには気づかないようで、褒められたことに気を良くしたのか、嬉しそうに着ている服の説明をする。
「レースがひらひらして可愛いだろう。それにほら、ここがスリットになっていてね」
レースに隠れて気が付かなかったが、どうやら下着の頂点の部分がスリットになっており、先端を着たまま弄ぶことが出来る仕様になっているようだった。早速試してみたい衝動に駆られつつ、けれどもリーは努めて理性的に尋ねる。
「……ところで、下はどうなっているんです?」
その言葉につられて、二人の視線がドクターの下腹へと滑る。
ドクターが穿いているのも、やはり黒いレースの下着だった。左右をリボンで止めるデザインだ。紐を片方でも解けば、たちまち下着としての機能を失ってしまうであろうそれは、クロッチの部分もレースでできていた。いや、というか、これは。
「まさか、これにもスリットがあるんですか?」
体育座りという姿勢のせいだろう。クロッチ部分が二枚のレースで構成されていることが、わずかに開いた合間から覗く肌色からわかる。例えば居間この瞬間に押し倒して足を開かせれば、もっとよくわかることだろう。
「そ、そんなに見られると、さすがに恥ずかしいんだが」
「……ドクター」
「……な、何?」
かつてなく深刻な顔をしているリーに、ドクターは今度こそ何かしてしまったのかと身を強張らせる。
「おれとする時以外、絶対これ着ないでくださいね」
嫉妬で狂いそうになる、というリーの言葉に、少なくとも自分は彼の気を害するようなことはしていなかったのだとドクターは胸を撫で下ろした。恥ずかしさを耐え忍んでこの下着を買いに行った甲斐があったというものだ。わかった、とドクターが頷いたのと、寝台に引き倒されたのはほぼ同時だった。
それで、と逆光の中でぎらぎらと、鬱金色の瞳が燃えている。
「ドクターはおれのために、この下着を用意してくれた、ってことで良いんですかね」
「え、と、あ、あぁ」
「なら――今からそれを、楽しんでも?」
そして夜が明け、役目を終えたドクターの下着は襤褸切れ同然となり、今度はおれと一緒に選びましょうねとリーが提案するわけだが、それはまた別の話である。