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    はるち

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    はるち

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    リー先生の尾ひれを見るたびにドキドキするドクターのお話。

    #鯉博
    leiBo

    その鮮やかさを覚えている 覚えているのは、黒と金。
     石棺で眠りについていた二年。あの漂白の期間に、自分はかつての記憶のほとんどを失った。それを取り戻すために、主治医であるケルシーとは幾度となくカウンセリングを行ったが、その殆どは徒労に終わった。医学的には、記憶喪失になってから一年が経過すると、記憶が戻るのはほぼ絶望的とされる。だからこれで一区切りをする、と。ケルシーは診察の前にそう前置きをし、そうして大した進展もなく、最後の診察も終わった。言ってみればこれは届かないものがあることを確認するための手続きだ。現実を諦めて受け入れるための。失われたものはもう二度と戻って来ないのだ、ということを確認するための。
     ドクターは書棚からファイルを取り出した。ケルシーとの診察の中で、自分に渡された資料の一部だ。何でもいいから思いつくものを、思い出せるものを書いてみろと言われて、白紙の上に書いた内面の投影。他者からすれば意味不明の落書きにしか見えないだろう。しかしケルシーにとっては現在の精神状態を推量するための材料であり、ドクターにとっては現在の自分を構成する断片だ。
     与えられたのが黒の鉛筆だけだったのは、もしかすると双方にとって不幸なことだったのかもしれない、とドクターは無機質なその紙面をなぞった。何か思い出せるものは、と問われる度に脳裏を過るは、黒と金の幻影だった。思い出せるのはその鮮やかな色ばかりで、どこで見たのかも、そもそもそれが何の色であるかも思い出せない。記憶の水底へと手を伸ばしてそれを掬い上げようにも、砂金のように指の間を零れ落ちて黒の水へと沈むばかり。それを照らし出そうとする意識の光を反射してきらきらと煌めくけれど、決してこの手には掴めない。もどかしさばかりが喉を焼き、叶うのならば胸の奥に腕を入れてでも、それを引きずり出してしまいたい。
     執務室の扉を、誰かがノックする音が、内省に沈んでいたドクターの意識を現実へと引き戻した。
     診察の後に人と会う予定が入っていたことを思い出す。どうぞ、とファイルをあるべき場所に戻しながら声をかけると、扉が開き、背の高い人影が入ってきた。今日は確か、最近龍門でロドスと業務提携を結んだ、事務所の所長が挨拶に――
    「どうも初めまして、あなたがドクターですね?」
     癖の強い黒と金の髪に、月の光を溶かし込んだような鬱金色の瞳。夜を切り取ったような外套の裾を跳ね上げて伸びる尾は、漆塗りの上から蒔絵で描いたように金の鱗が散っている。
    「――君」
     意識から離れたところで、自分の口を借りて誰かが喋っているようだった。現実感がなく、夏の日差しめいた既視感に立ち眩みがする。
    「以前、どこかで会ったことが?」
     返事の代わりに、彼は瞬きを一つ。一瞬でも、その鬱金色が自分から外れることが惜しい、などと思ってしまうのは、この鮮明さに充てられているだろうか?
    「あなた、それリィンさんにも言ってませんでした?」
    「うん? ああいや、彼女は……」
     同時期にやってきたオペレーター、ニェン達の姉、リィンと先日交わしたやり取りを思い出す。どこかで見覚えがある、という自分の言葉に、彼女は夢の中でかもしれないね、と答えたのだ。煙に巻くようでもあり、酒に酔わされているようでもあった。どこかで、それを聞いていたのだろうか。
     にわかに動揺したドクターを見て、リーは冗談ですよ、と人好きのする笑顔を浮かべた。
     彼は外套のポケットから何かを取り出す。名刺のようだった。
    「探偵事務所所長の、リーってもんです。これが事務所の名刺です、どうぞっと」
     差し出されたそれを受け取る。初対面の相手に対して不躾だとはわかっていても、その顔をまじまじと見てしまう。リーは苦笑したが、特に気分を害した様子はなかった。
    「お互い龍門の街にいたんです、どこかで縁があったんでしょうね」

     ***
     
     全くとんだ面倒事に巻き込まれたものだ。
     仕事の帰り道だった。小さな同居人のために今晩は何を作ってやろうかと思っていたときに、通りを一本挟んだ向こうから派手な衝突音――金属のひしゃげる音だった――が聞こえてきたのは。音のする方へと向かえば、そこには横転した車という予想通りの光景があり。割れたガラスから必死の体で這い出して来たペッローの男は、駆け寄ってきたリーの服の袖を掴んだ。車が横転した際の衝撃で切ったのだろう。どくどくと額からは血が流れ、けれども男は目に流れ込むそれを拭おうともしない。万力で締め上げるような力強さに、思わずリーはたじろいだ。
    「あ、あんた、頼まれてくれないか」
    「わかってますよ、すぐ近くの病院に――」
    「そうじゃない、この薬を、娘に届けてくれ」
     頼む、と男は反対の手を動かした。不自然に曲がっており、もしかしなくても折れているのだろう。しかし、そんなことはどうでもいいというように、男は握り込んだ拳の中身をリーに差し出す。黒の革張りの箱だった。外見はペンケースに似ている。
    「娘は……鉱石病なんだ。この薬があれば、助かるかもしれない」
     絶句した。
     身内に鉱石病患者がいることを告白することが、どのような意味を持つのか、知らない訳では無いだろう。ましてや、その患者に接触して助けろ、などと? このテラの大地において、“一般的な“常識を持つ人間であれば、そんなことはできないし、することもない。
     しかし。
    「俺のことはいい……どうか、娘を、あの子だけは……」
     背後から人の足音がした。淀みなく、意思を持って、一つの場所へと最短ルートで向かう気配。複数人、そしてまず間違いなく武装している。チンピラ特有のばたついた忙しさはなく、軍隊か警官か、組織だった一群の気配だ。この車が横転することになった原因だろう。
     逡巡は一度。そもそも、考え事に時間を割く贅沢は、これ以上許されない。
     リーは男から、そのケースを受け取った。
    「ご依頼、承りました」

     ***
     
     ドクター、と。霧雨が作る静寂へと染み込むような声がして、降り注いでいた雨が止む。それは彼が自分の頭上に傘を広げているからだ、と一拍遅れて気がついた。
    「体が冷えるでしょう」
     たしなめる言葉に咎めるような色はなく、ただこちらの身を気遣って優しい。彼が持っている傘はどうやら一本だけのようで、必然的に一人分のスペースを分かち合うことになる。
     白衣もフードも、クロージャ特製のもので、サルゴンの砂嵐にもウルサスの寒波にも、大抵の天候には耐えられる。だから龍門の霧雨くらい、大した問題ではないのだが。
     そういうことではない、とリーは頭を振った。ではどういうことなのだろう、と首を傾げて彼の瞳を見上げても、自分の探す答えは映っていないようだった。
    「君の方こそ、身体が冷えるだろう」
    「おれはいいんですよ」
     外套の裾から覗く尾は、傘からもはみ出てしまうようで、しとしとと降る雨に濡れていた。けれども、艶を帯びたそれは、地上に在るよりも、そう在ることが正しいかのようだった。彼は元々、水の中で呼吸をする生き物だと主張するように、てらてらとした輝きを放っている。
     視界の奥で、火花のように何かが明滅する。
    「ドクター?」
    「いや、……何でもないよ」
    「頭痛ですかい? ほら、もっとこっちに寄って」
     全て雨のせいだ、というように、肩に回された腕に抱き寄せられる。雨の気配が遠ざかり、彼の呼吸が近くなる。
    「近いよ」
     無理に押しのけようとしても、膂力で彼に敵うはずもない。子どもたちの面倒をみる中でその手の反抗には慣れている、というように、彼はびくともしない。からかうように揺れる尾鰭は、人を導く灯台にも、人を惑わす提燈にも似ていた。
     ちらりと見上げた鬱金色は、傘の作る暗がりの中でもその輝きを失わない。失われた記憶の、その輪郭だけをなぞって、かつてそこにあったものを探しているような気がした。
     ねえ、と。胸の内だけで、彼に問いかける。
     ――私達は、以前、どこかで会ったことが?
     
     ***

    「狭路にて相逢えば「勇」ある者勝つ――」
     とは限らないんだなぁ、これが! というリーの叫びに答えるように、背後から勢いよくクロスボウの矢が飛んでくる。気配だけでそれを交わしたが、しかし正確無比な矢は一撃だけでは終わらない。
     追撃者達は、今自分が手にしているケースに随分とご執心のようだった。置いてきたあのペッローの男が気がかりだったが、しかし文字通り必死の形相で頼み込まれては彼を置いてくるより他になかった。――自分の命よりも娘が大事だと、彼はそう言ったのだ。幸いなことに、怪我こそ派手だが命に別状のあるものではなかった。あの追手から上手く逃げることさえできれば、生きて娘と会うことも出来るだろう。
     龍門の街は、彼にとっては自分の庭も同然だった。数では向こうが上でも、地の利はこちらにある。彼の体格では引っかかりそうに狭い路地を抜け、屋上から目の前に飛び降りてきた襲撃者を返り討ちにし、飛来したクロスボウの矢に帽子だけをくれてやり、そうして走り回って――
    「っ、とと」
     急に開けた場所に出る。勢い余ってつんのめりそうになり、慌てて欄干を掴む。
     行き止まりだった。今、リーが立っているのは橋の上だ。数メートル下には運河が流れている。街灯では水底までを照らし切ることはできず、音を立てて夜が流れているように水は暗い。
     ようやく追いついた、というように。それまで躍起になって追いかけてきた向こうの足取りは、今は酷く落ち着いていた。向こうも、まるっきりこの龍門で土地勘がないというわけではないらしい。
    「そのケースを返せば、危害は加えない」
     クロスボウの照準をリーから外さないままに、彼を今まで追いかけていた人影は言う。バイザーのせいで表情は見えない。声の調子からすると女だろう。
    「……わかりました。さすがに、命にまでは代えられませんからねぇ」
     しおらしく両手を上げる。右手には黒のケースが握られており、一瞬女の注意がそちらに移った。
     それだけで充分だった。
     女がクロスボウの引き金を絞るのと、リーが虚空へと身を躍らせたのはほぼ同時だった。数分前に彼の帽子を撃ち抜いた矢は、けれども何も貫かずに。派手な水音だけが、張り詰めた空気を打ち破る。
     龍門スラングで悪態をついた女が、欄干に飛びついて下を覗き込む。そのまま彼に倣って飛び込もうとし――
    「――やめた方が良い」
     背後から、別の声がした。
    「良い判断だ。君が矢を撃つよりも早く行動するとはね」
     もう一人の人影もまた、ごうごうと音を立てて流れていく川を眺める。そうすることで、街灯を受けて流星のように水の中へと流れていった、あの残像が見えるとでも言うようだった。けれども、流れ去った水がもう元には戻らないことだけを確かめて、その人影は頭を振った。残像を追い払うように。
    「作戦を変更しよう。――大丈夫、まだ打つ手はあるさ」

     ***
     
     ドッソレスの日差しは夏を謳歌することをしきりに勧めているが、しかし作戦中であってはそういうわけにも行かない。例えすぐそばが水辺であっても、だ。
     クロージャが用意してくれた衣服は大抵の気候には対応できるが、しかしそれは暑さ寒さの不快さを零にしてくれるわけではない。充分な冷房が機能していないまま動作を強要されるパソコンというのはこういう気持ちなのだろう、と思いながらドクターはPRTSの画面を食い入るように見ていた。寒いものは寒く、暑いものは暑いが、しかし集中している限りはそれを意識の外へと追いやることが出来る。どのみち今は作戦中なのだ。身体的な不快感に集中力のリソースを割く余力はない。
     最後のクルーザーが景気の良い爆発音を立てて水中へと沈んでいく。後は水兵を何人か、それで今回の殲滅作戦も終わる。自分と同様、炎天下の中で水遊びを我慢しているオペレーター達を――何人かは配置場所が水没したことにより、その冷たさを感じたかもしれないが、決して愉快な経験ではないだろう――、労って、後はドッソレスで好きに過ごしても良いと伝えなくては。
     テントの外に出ると、フェイスシールド越しでも日光はこの天気の中でも仕事に勤しんでいることを責め立てる。言い訳をするように日陰を探しながら歩いていると、桟橋の向こうからこちらへと手を振る誰かがいた。
    「ドクター」
     結構な距離があったが、彼の声は月光のように真っ直ぐに自分の耳へと届く。聞こえているよ、と手を振り返そうとして――視界が、不意に、ブラックアウトした。
     次に知覚したのは、全身に伝わる衝撃と、冷たい何かに包み込まれる感覚だった。声を上げようと口を開けて、そこで自分の失敗を悟る。大気の代わりに流れ込むのは水で、貴重な酸素は白銀の泡に代わって自分の元から逃げていく。――橋の上でよろめいて、水中へと落ちたのだ。
     どうにかして浮上しようと藻掻くけれど、白衣と上着は水を吸ってまとわりつき、自分を底へと引きずり込む。このままでは不味い、とわかってはいるがどうしようもない。こんなことなら、着衣のままでも泳げるように、ドーベルマンやシデロカから誘われていたトレーニングを断るべきではなかった。
     人体は浮くように出来ているから、溺れそうになってもむやみと藻掻いて体力を浪費するのではなく、ただじっとしていれば良いとは聞く。が、しかし実際に溺れている時にそれを実行できるかは別問題だ。酸素が足りない。脳に思考をさせるコストが足りない。視界が霞むのは、水中にいるからだけではない。意識が徐々に黒へと沈んでいく。――誰か、と。何かに向かって、祈るように手を伸ばした時に。
     目に映るのは、黒と金。
     水の中を流れるそれは、意志のある生き物の動きをしていた。流星よりも鮮やかで、夜よりも滑らかに。ただ真っ直ぐに、自分の元へと、水をかき分けて、それは辿り着く。
     重力に引かれるまま、沈んでいく自分を、それは力強く引き上げた。光の差す水面の、その向こうへと。
    「――っ、!」
     ざぱりと水しぶきを立てて、大気の中へと戻ってくる。ようやく呼吸を許されて、爆発しそうになっていた肺と心臓はそれまでの負債を取り戻すように活動を再開した。
    「なぁにやってんですかドクター、水遊びをするにはちーと早いでしょう」
     張り付いた前髪を掻き上げて、彼は鷹揚に笑う。
    「気持ちはわかりますが、さすがに肝が冷えましたよ。熱中症ですかい? あなたが体調を崩してどうするんです」
    「……き、みが」
     呼吸は荒く、心臓は忙しなく、言葉はままならない。それでも、ようやく掴んだ幻像を、もう手放さないように。自分がもう溺れないようにと、その尾を緩く身体に巻きつけて、両脇の下から腕を入れて自分を支えている彼を、ドクターは見上げた。
     記憶の水底に沈んでいたあの鮮明な黒と金に、今ようやくこの指が届いたのだから。
    「君が……そう、なのか?」
    「……はい?」
    「知っている……私、君のことを知っているよ。君のことを、ずっと探していたんだ」
     覚えていなくても。
     思い出せなくても。
     その鮮やかさを――きっと自分は、ずっと探していた。
     彼は。自分を離すまいと服を握りしめるドクターを見つめた。細められた瞳は、雲の切れ間から差し込む月光に似ている。
    「――おれもですよ、ドクター」

     ***

    「動かないでもらおうか」
     生活用水の流れ込む川はお世辞にも快適とは言えなかった。けれどもようやく泳ぎ終え、陸上に出てみればこれだ。
    「……再検討のほどは、お願いできませんかねぇ?」
     水を滴らせながらほうほうの体で川から上がった自分を出迎えてくれたのは、夜の闇に溶けてしまいそうな人影だった。白衣の上から黒の上着を着ているせいで体型は覆い隠され、加えてフルフェイスのシールドで覆っているせいで表情も読み取れない。
    「まずはそれを返してもらってからかな。我が社の製品でね。迂闊に流出を許すわけにはいかないんだよ」
    「……」
     目の前に立つ相手は何の武装もしていなかった。クロスボウもなく、ナイフもない。けれども迂闊に手を出すことはできない、と。見ていればわかる。現に背後から感じる刺さるような圧は、きっと先程まで自分を追いかけていた女のものだろう。
    「……議論の余地は」
    「ふむ。君は輸送者を襲撃した手合とは別のようだね。巻き込まれたのか?」
    「ちょいと依頼を受けましてね。病気のお子さんに薬を届けないとならないんですよ」
    「確かに、襲撃者の一人は感染者が身内にいたね。娘さんだったかな?」
     でもそれを渡すわけにはいかないんだ、と。その人影は、片腕を自分の方へと伸ばした。友好のために握手を求めているわけではない、ということぐらいはわかる。
    「その薬は、他の感染者のために用意したものなんだ」
    「……」
    「それとも、君は、その子のために、その患者に死ねというのかな」
     小首を傾げるさまは少女に似ているが、どちらかといえば人間の姿を真似する人形めいた仕草だった。
     口の中に苦いものが広がるのは、自分が今しがた泳いできた川のせいだけではない。
     のろのろと、水を滴らせながら陸の上を這いずるように、その人影に近づく。自分は水棲の妖怪じみて見えるだろうが、その人影は怯える様子はなかった。
    「確かに」
     受け取ったそれを開け、破損がないことを確かめてから、その人はポケットにしまった。
     代わりに取り出した何かを、自分へと差し出す。
    「今から話すことは独り言だ。輸送車が襲撃されたときに、アンプルが破損していた場合に備えて予備の薬品を持ってきたんだが、残念なことに追跡途中で落としてしまったようだ」
    「……」
    「それを拾った人間がいたとしても咎めることはできないし――治療目的なら、尚更そうだろう」
     私達の目的は、鉱石病の治療だからね、と。
    「……いーんですかい、おれが拾っちまっても」
    「よく聞こえなかったな」
    「はいはい、わかりましたよ。おれはただ落ちていたものを拾っただけです」
     確かに、と。それを受け取る。絶えず背中に感じる圧はそのままに、男から聞いた目的地、彼の娘がいる場所へと足を向ける。追いかける人影も、言葉もなかった。
     だから。
    「おれを殺さなかった理由を聞いても?」
     振り返ったのは一度だけ。石畳の上を月光が白く刷くように、その人は唇に笑みを灯した。
    「水中を泳ぐ君の尾鰭が綺麗だったから」
    「……」
     その言葉が本気ではないことくらいは理解できる。言葉を交わす中で、少しだけ人となりに触れることが出来た。感性と理性がパラレルに存在している手合だ。例え大切な相手であっても、この人は切り捨てることが出来る。美しいと思ったものでも、壊すことができる。そういう人間だ。
     リーの視線に、その人は肩をすくめた。
    「なんてね。冗談だよ。別に私たちは殺人集団ってわけじゃあ、ない。人を殺さずに話が済むなら、そっちの方がいいだろう」
    「……ならいいんですが、ね」
    「さて。立ち話もこれくらいにしようか。――さようなら、今晩の君は良い男だよ」
     未だに足元に水溜まりを作っている自分に、その人は微笑みかけた。今夜、龍門の上に浮かぶ双月はこの人のためにあるかのように。白衣と上着の織りなす幻影は、現実よりも鮮明だった。
    「縁が合ったら、また会おう」

     ――だから。
     あの日から、眼に焼き付いて離れない、白と黒の鮮烈な幻影を。追い求めていたのは、自分の方だ。
    「――君」
     瞼の裏で火花が散っているかのように、その人は――ドクターは、瞬きを繰り返した。ちらちらと視線が揺れるのは、視界の片隅を揺蕩う尾鰭に誘われているからだろうか。嗚呼、だとすれば、あの日の言葉は、必ずしも冗談ではなかったのかもしれない。
    「以前、どこかで会ったことが?」
     返事の代わりに、瞬きを一つ。ロドスの指揮官が、石棺での長い眠りを経て、記憶を喪失していたことは知っていた。だからもうあの出会いを繰り返すことは出来ないと、そう思っていたのだが。あの夜をやり直せるというのなら――それも、悪くない。
    「あなた、それリィンさんにも言ってませんでした?」
    「うん? ああいや、彼女は……」
     ドクターの言葉が濁る。自分と同時期にロドスへとやってきたオペレーター、リィンの涼やかな笑い声が聞こえてくるようだった。彼女は夢の中で、と言っていたけれど。失われた過去の出会いも、現実にはならないという点では、似たようなものかもしれない。
    「探偵事務所所長の、リーってもんです。これが事務所の名刺です、どうぞっと」
     ポケットから取り出すのは、黒のケースではなく名刺だった。それを取るために伸ばされた腕を掴んで、抱き寄せたいという衝動を飲み下すのには苦労した。けれどもう、焦る必要はないのだ。
     あの日の影に――今、ようやく、この指が届く。
    「お互い龍門の街にいたんです、どこかで縁があったんでしょうね」
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    はるち

    DOODLEロドスでダンスパーティーが開かれるのは公式というのが良いですね
    shall we dance「あなたには、ダンスはどのような行為に見えるかしら?手を相手の首元に添えて、視線を交わせば、無意識下の反応で、人の本心が現れるわ」

    踊ろうか、と差し出された手と、差し出した当人の顔を、リーは交互に見た。
    「ダンスパーティーの練習ですか?」
    「そんなところだよ」
    ロドスでは時折ダンスパーティーが開催されている。リーも参加したことがあり、あのアビサルハンター達も参加していることに少なからず驚かされた。聞けば彼女たちの隊長、グレイディーアは必ずあの催しに参加するのだという。ダンスが好きなんだよ、と耳打ちしてくれたのは通りがかりのオペレーターだ。ダンスパーティーでなくとも、例えばバーで独り、グラスを傾けているときであっても、彼女はダンスの誘いであれば断らずに受けるのだという。あれだけの高嶺の花、孤高の人を誘うのは、さぞかし勇気のいることだろう――と思っていたリーは、けれどもホールの中央で、緊張した様子のオペレーターの手を取ってリードするグレイディーアを見て考えを改めた。もし落花の情を解する流水があるのならば、奔流と潮汐に漂う花弁はあのように舞い踊るのだろう。グレイディーアからすれば、大抵の人間のダンスは彼女に及ばないはずだ。しかしそれを全く感じさせることのない、正しく完璧なエスコートだった。成程、そうであれば、高嶺の花を掴もうと断崖に身を乗り出す人間がいてもおかしくない。
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