オルタナティブ・スイートハート「ごめん、なんて言ったの?」
まだ耳が遠くなるような歳でもないでしょうに、とリーは笑った。それとも、と言いながら彼が急須を傾けると、立ち上る茶の香りが室内を支配した。都市防衛副砲に耳でもやられましたか、という揶揄混じりの声は、けれどもこちらを労る誠実な温かさがあり、先程私に告げた言葉と地続きの温度をしていた。つまり、冗談でもなんでもない、ということだ。
冬であれば街の煌めきに反して夜は冷たく骨を軋ませ、だからこそ彼に案内された店の温かさが内側から夜の気配を追い払う。今日彼に案内された店は、龍門では人気のある茶屋らしい。酒よりも茶を好む、彼らしいセンスだ。こんな上等な場所に来るのは場違いなのではないかと思っているのは自分だけのようで、彼は店員に気さくに挨拶をしていた。店員も彼のことを知っているようだった。常連なのだろう。彼がこの街で一番の私立探偵であることは知っていたが、龍門中に精通しているのではないだろうか。
通された部屋は貴賓室のようで、茶と点心を置いた後、御用の際はお呼びくださいと慇懃に一礼をして店員は去っていった。彼は手づから二人分の茶を注ぎ、水音だけが聞こえる部屋に、彼の言葉を遮るものは何もない。温かい内にどうぞ、と差し出された茶杯を手に取る。指先からじわじわと広がる熱が、皮膚を侵していく。
「もう一度言いましょうか」
向かいの席に鷹揚に座った彼もまた茶杯を手に取る。ここへ案内されたときから、否、この約束を取り付けたときから胸騒ぎはしていた。
人を動かす時に一番確実な方法は何か、いつかに彼と議論したときのことを思い出す。それは駆け引きでも知略でも謀略でもない。誠実さ、そして貪欲なまでに正直であること、と。あの時に彼は言ったのではなかったか。
「あなたのことが好きなんです、ドクター」
***
「返事は、帰ってきてからで構いません」
その言葉に、顔が強張るのがわかった。フェイスシールド越しであっても、彼に伝わったらしい。プロペラの音が煩い。ディランの操縦する機体はもう作戦地点に到着していた。後は降下するばかりだ。高所からの強襲はおれよりもブレイズさんの得意技でしょうが、と作戦内容を説明されたときはぶちぶち文句を言っていた彼をなんとか押し込めて、後は作戦を開始するばかりだと思っていたのだが。
「何故今、そんなことを」
「今しかないでしょう。おれ達が今いるのは戦場ですよ?」
そんなことはわかっている、という声が荒いのは、感情のせいではない。この鉄の塊を空へ留めておくためにやかましく喚く羽の旋回音に、声がかき消されないようにするためだ。それ以上でもそれ以下でもない。
「だったら、縁起でもないことを言わないでくれないか」
思い出すのはいつぞやにニェン達と見た映画だ。こういうのをな、死亡フラグって言うんだぜとポップコーンを片手にしたり顔で彼女は説明してくれた。映画でよくあるお約束の一つなのだと。
ハッチが開き、室内の薄闇を日光が切り裂く。目が眩んで動けない自分を置いて、彼は風の吹き込む出口へと、二本の剣を携えて向かっていく。散歩にでも行くような、実に気軽な足取りで。
そんじゃまあ、行ってきますよ、と。彼はそう言って。
「――返事、待ってますからね!」
ヘリから飛び降りる彼の声は、どれほどの風があってもかき消えることはなく。ただ真っ直ぐに、私の元へと飛び込んでくる。
***
「……君も大概、物好きだよ」
そうですかあ?と彼はとぼけた笑顔で答える。今日の業務はもう一段落したらしく、彼にあてがわれた医務室には私と彼しかなかった。デスク人は聴診器と書類の束が乱雑に置かれており、壁には患者からもらったのだろうか、彼の似顔絵、大文字や単語の多い手紙が貼ってあった。
「君がロドスで人気者だってことは、私も聞いているんだけどね」
「嫉妬ですか?」
「そういうことじゃない」
まあまあ落ち着いて、と彼が戯けたように両手を広げて立ち上がる。
「茶でも淹れますから」
一緒に飲みましょうよ、と言われればそれを断る理由はない。青のラインが入ったロドスの制服を翻して、彼は片隅にある簡易キッチンへと向かう。薬缶に水を入れて、湯を沸かすまでの間。私はぽつぽつと、彼の背中に語りかける。
「……もっと、相応しい人がいるんじゃないか」
「例えば、どんな?」
彼が片足を突っ込んみ、腕を伸ばしているのは、地獄に繋がる沼の中だ。布団の上での大往生など、望むべくもないだろう。
「もっと穏やかな人生を、君と共に送れるような」
「……、ドクターは、そういう人生に憧れがあるんですか?」
そういうことではない。もどかしさに顔を上げると、鬱金の瞳とかち合った。彼の方はもう茶の支度が整っているらしく、盆の上に二人分の茶器を載せてこちらへと戻ってくる。デスクではなく来客用のソファへと腰を下ろし、ドクターもこっちにどうぞ、と呼びかける。促されるままに彼の向かいに座ると、彼が注ぎ入れる茶の温かさと香りが部屋を満たした。
「そうです、ね……。ドクターからすれば、おれにはもっと相応しい人がいるのかもしれませんし――、ドクターにも、おれよりもっと相応しい誰かがいるのかもしれません」
それでも、と彼が視線をやったのは、私が固く握りしめている両手の中だった。私が握りしめている、愚かしさの中身。それが彼を地獄に導くと知っているのに、手放すことのできない情縁。
それは、彼の左手を銀の指輪として彩っている。
「おれは、どんなあなたでも、あなたを選びますよ。ドクター」