目覚ましとして使っている音楽は、それがどんなに美しいものであれやがては嫌いになる。起こされる不快感に塗り潰されるからだ。
しかしドクターは、アラームとして使っているその旋律を未だに嫌いになれなかった。リーが好きだと言っていたものだから。先ほどから惰眠に沈んでいる自分を起こそうと、落ち着いて、けれども根気強く流れているそのメロディの出所を探していたドクターは虚空に向かって手を動かし、数度手を振ったところで、そもそもそれは自分の手首から聞こえてくることに気が付いた。
目を開ける。白熱灯の眩しさが意識を覚醒させる。自分を起こしたのはタイマー機能のある腕時計だった。竜頭を押し込んでその音を止めたドクターは、ゆっくりと立ち上がった。どうやら自室に戻ってから、ベッドへもぐりこむ前に床で眠ってしまったらしい。大きく伸びをすると、全身の筋肉と関節が不平不満を訴えた。床で寝ていただけではない。ここ数日の激務が原因だろう。龍門からウルサスへと向かう道中にはそれなりの波乱万丈があり、のみならずヴィクトリアで起こっているきな臭い一連の騒動の処理と情報収集には、かなりのリソースを割く必要があった。人的にも、時間的にも。昼夜の区別なく働いていたが、ウルサスへと無事に到着したことにより、徹夜新記録を樹立する前にけりが付いたことは僥倖と呼ぶべきだろう。
ちなみにドクターの徹夜連続記録は五撤である。
錆び付いた体の軋みを無視して、ドクターは腕時計へと目をやった。タイマーにカレンダー機能もついた多機能時計だ。彼曰く、苛烈な環境での活動を余儀なくされるロドスの任務にも耐えられるような【特注品】なのだという。それはアラームのメロディや、文字盤の裏に刻まれた二人のイニシャルからも明らかであり、どう考えてもオーダーメイドのこの一品が一体いくらするのか、ドクターは意識的に考えないようにしていた。
誕生日プレゼントにと、リーが――これを見ているときは、この時間に彼は何をしているのか考えることをドクターは自分自身に許している――プレゼントしてくれたものだ。ここ数日の激務のせいで時間はおろか日付感覚も曖昧だが、これを見れば――
と思ったドクターは、文字盤に表示されている日付を見て、しばし呼吸を忘れた。
十月二十五日。
それはこの時計の贈り主である、リーの誕生日だった。
そして現在時刻は――
「――もう午後十時?!」
***
十月二十五日 午後十時十五分
「誕生日プレゼント?いやいや、そんなものいりませんよ。もう誕生日を祝われて嬉しい歳でもありませんしねえ」
そう言われたとしても、誕生日に何か贈りたいと思うのが人情というものだろう。
というわけでドクターは、ロドスの廊下をひた走っていた。無論ドクターも無策で今日という日を迎えたわけではない。準備は整えていたのだ。
今年は手作りの品を贈りたいと考えていた。
特注品には手作りで応えたい、と。
そのために必要な材料の発注は、クロージャに頼んでいたのだが――
――ああもう、どうしてもっと早くに回収して準備しておかなかったんだ!
ぜえはあと、フルフェイスマスクの下で荒い呼吸を繰り返しながら、ドクターは心の中でそう叫んだ。ここ数日の忙しさでそこまで気が回らなかった――というのが言い訳に過ぎないことはわかっている。時間の使い方が下手なものが、まずその少なさに文句を言うのだから。
購買部は夜勤オペレーターが利用しやすいように、二十四時間開いている。開いてはいるが、クロージャがそこにいるかは別問題だ。最近はセルフレジを導入したとも言っていた。彼女のことだから、この時間であればまだ起きてはいるだろう。エンジニア部か彼女の自室か、ともかくロドス艦内を探し回れば見つかるはずだ。しかし一番の問題は、そんなことをしている時間はないということだった。
この時点ですっかり冷静さを欠いているドクターは、PRTSでクロージャに連絡をとって今の居場所を聞けばいいという発想がすっかり抜け落ちていた。抜け落ちたまま、祈るような思いで購買部に辿り着いたドクターは。
「――クロージャ!」
「え?なになに、ドクター。どうしたの?!」
レジの裏手でスナック菓子を摘まみながら端末をいじっていたクロージャは――横持をしているあたり、どうやらゲームをしていたようだ――血相を変えて飛び込んできたドクターを見て飛び上がった。
「こ、この前、頼んでたやつ、って……。あ、ある……?」
「あ、あ、るけど……」
戸棚を開けたクロージャは、一番手前に置かれていた紙袋を取り出した。どうやら自分がいつ来てもいいように、取り出しやすいところへ置いてくれていたようだ。そのことに申し訳なさを感じながら、ドクターはひったくる勢いでそれを受け取った。
「ドクター、その前に水でも飲んでく?丁度新商品が――」
「いい!今は時間がない!クロージャ、ありがとう!代金は手はず通り、私の給料から引いておいてくれ!」
それだけを叫んだドクターは、購買部を訪れたときと同じ野分の様な勢いで店内を走り去っていった。一人残されたドクターは、その背中を見送り、今の時間を確かめてからゲームへと戻った。
「……まだ焦るような時間じゃないけどなあ、ドクター」
***
十月二十五日 午後十時二十七分
ドクターの全力疾走は20メートルほどで終わった。
むしろ良く持った方だともいえる。
こんなことならドーベルマンやシデロカ、最近では重岳の言うことを聞いて朝練やトレーニングに参加すべきだった――と息切れと同じくらい胸を焼く後悔と共に、ドクターはエンジニア部へと辿り着いた。
ここロドスで最も工作に向いている場所である。
そこまで手間や専用の工具が必要なものではないため、やろうと思えば自室のテーブルでも出来たのだが、ドクターは山と積まれている読みかけの論文や専門書を見て断念した。迂闊に山に触れたら土砂崩れが起こるか、部品や書類をなくしかねない。
そこで第二の案としてエンジニア部の共有スペースを借りることにした。申請は既に済ませてある。共有スペースへと進みながら、ドクターはもう一人、必要な材料の作成を依頼していた人物を探した。こんな時間でも彼ならばまだ――
「ドクター」
「うわあっ!」
突然背後からかけられた声に、ドクターは飛び上がった。振り返ると、そこにはループスの青年が立っていた。
「すみません、そこまで驚くとは思っていませんでした」
表情こそ乏しいままだったが、礼儀正しくアオスタは謝罪した。彼ら三人がロドスへとやってきたときから、彼が一番常識的な対応をしていたな――と昔を回想したのは一瞬。
「頼まれていたものがこちらです。どうぞ」
と、アオスタは紙袋を差し出した。シラクーザマフィアから紙袋を受け取るというのは状況によっては別の意味が生じそうな光景ではあったが、ここはロドスであり、彼ももうマフィアの一員ではない。だからドクターは躊躇わずにそれを受け取り、そして心からの笑顔で礼を言った。
「ありがとう!とても助かった!君がロドスでハンドメイドショップを開くというのならぜひ支援させてくれ!でもこんな時間まで無理をしないでたまには早く休んで!」
「……?」
ドクターの言葉に、アオスタは一瞬いぶかしむ表情になる。しかしそれを問いただすより先に、足早にドクターは立ち去ろうとした。ちょっと、とアオスタは呼び止めようとしが、逡巡がそれを妨げた。
「まず中身の確認を――」
「大丈夫、君の腕を信じている!」
アオスタには先払いで料金を払っている。だからドクターは振り返らなかった。一人残されたアオスタは、がしがしと頭をかき、まあいいか、と思案を投げ出す。
今日くらいは、ドクターの言う通り早く帰ってもいいだろう。
***
十月二十五日 午後十時三十九分
エンジニア部の共用スペースには、しかし先客がいた。
「――、マリア?」
「ドクター!」
何かを溶接していたと思しき彼女は、突然の来客にも目を輝かせていた。
「ドクターも何か作りに来たの?」
対するドクターはと言えば、そうもいかない。彼女がこんな時間まで作業に励んでいることはそう珍しいことではなく、またドクター自身としては微笑ましく思っていたが――エンジニア部の面々は倒れるまで作業し続け、半ば住んでいると言っても過言ではなかったかつての彼女には手を焼いていたようだが――今日ばかりはそうもいかない。
何せ今日が終わるまで、もう二時間を切っている。
「ごめん、マリア。スペースを貸してくれないか?この時間は予約を入れていたと思うんだが」
「え?でも――」
何かを言いかけたマリアは、必死な形相のドクターを見て――あまりにも呼吸がしづらいのでフェイスシールドは外していた――、結局は何も言わなかった。
代わりに、花の様な笑みを浮かべる。
「わかった!片付けるから、それまではこの空いているところを使ってくれる?」
「大丈夫、ありがとう。助かるよ」
元よりそこまで大したスペースが必要となる作業でもない。ドクターはテーブルの上に紙袋を二つ並べ、必要なものを取り出した。薬液が二種類と、いくつかの細々したもの。そしてアオスタに作ってもらったとっておき。
まずは薬液の混合から始める。戦場においてPRTSを見ているときや、執務室で作戦の立案をしているときと変わらないその眼差しに、マリアは呼吸を詰め、なるべく物音を立てないようにしながら片付けを続けた。ドクターが何のために――いや、誰のために必死になっているかはわかる。マリアはそっと、その場を後にした。ドクターが何を作るのか、最後まで見ていたかったが――それは野暮というものだろう。
あれは初めから、たった一人のためにあるのだから。
***
十月二十五日 午後十一時五十三分
かくしてドクターはへろへろになりながらも、なんとか、今日という日が終わる前に――リーの部屋へと辿り着いた。
完成したプレゼントをもって。
扉の前で深く息を吸う。彼はもう眠ってしまっただろうか?――それはないな、と苦笑する。彼のことだ。プレゼントはいらない、というのは本心だろうが、しかし祝っては欲しいだろう。自分が会いに来ることを待っていたはずだ。
自分の思い上がり、ではなく。
三度の深呼吸を終え、あちこち走り回ってすっかり乱れた呼吸を整えたドクターはドアをノックしようと手を伸ばし――
「――おや、ドクター。どうかしましたか?」
それより先に扉が開き、前につんのめった。
危うく転ぶところだった。
「リ、リー!驚かせないでくれ!」
「いやあ、すみません。自分の部屋の前に怪しげな人影がいたもんですから、職業柄つい気になっちまいまして」
「君ならはじめから私だってわかっただろう……いや、そうじゃなくて」
これ、とドクターは綺麗に包装された箱を、リーに向かって差し出す。
「遅くなってごめん、もう日付も変わるぎりぎりだけど、その、なんとか間に合ったから……ええと、これを……」
「……?」
途中まで聞いていたリーは首を傾げ、
「ドクター。……今、何時だと思ってます?」
「ご、午後十一時五十三分だよ。そんなことはわかっている。忙しかったんだよ……いや、それを言い訳にするのは良くないってわかっているけど、でも間に合ったんだから」
「いえ、そうじゃなくてですね」
完璧にラッピングされたプレゼントとは対照的に、あちこち乱れているドクターの服装を、リーは一つ一つ整えていく。乱れた髪を整え、襟を直し、そして手首に触れる。
ドクターの腕時計に。
「この時計で、午後十一時五十三分ってことですよね?」
「だから――、」
そして、ドクターは思い至る。
この時計は、龍門の標準時刻に合わせたままだったということを。
そして今、自分たちがウルサスにいる、ということは――。
「勿論ドクターはご存じかと思いますが、ウルサスと炎国の時差は五時間です。だから今はまだ午後六時五十三分ですよ」
言葉を失い、呆然と立ち尽くしているドクターに、リーは大きく扉を開けた。
「まあ――中に入って、茶でもゆっくり飲みませんか?」
***
十月二十五日 午後十一時五十三分 炎国時間
十月二十五日 午後六時五十三分 ウルサス時間
思えば。
クロージャが何か不思議そうな顔をしていたのも、アオスタが怪訝そうな顔をしていたのも、マリアがまだ作業していたのも。
自分だけが、炎国に時間に合わせて行動していたからだったのだ。自分以外のオペレーター、というよりもロドス本艦が、ウルサスの標準時刻に合わせているはずだ。
「後でニアールさんには謝らないといけませんねえ?」
「……いや、全く」
茶を飲みながら、ようやく人心地ついたドクターは――今日が誕生日だという人間に自分は一体何をさせているのだろうと思ったが、彼は尽くすことを好む性質なので何も言わなかった――、それだけを口にした。椅子に座ると、疲労と喉の渇きが一気に押し寄せてきた。一日ずっと空回りをしている気分だ。
「空周りってことはないでしょう。プレゼントも持ってきてくれましたし、ね――。これ、開けていいですか?」
「いいよ、君のものだ」
では、と嬉しそうに、子どものように無邪気に笑いながら、リーはラッピングへと手をかけた。破らないように丁寧に包装紙を開けると、中からは紙箱が出てくる。それを開けた先には。
「――スノードーム、ですか」
こいつは綺麗だ、と彼は鬱金色の瞳を輝かせた。身内だという贔屓目はあるにしても、彼の審美眼に適ったことに、ドクターは胸を撫で下ろした。
リーが手にしているのは台座に嵌った水晶玉のような形をしたスノードームだった。傾けると、中を金と銀の結晶がきらきらと舞い上がり、そして緩慢に――雪が降り積もるように沈んでいく。
雪に良い思い出はないけれど――これは美しい。
「中に入っているのは――、嗚呼。ドッソレスのビーチにあった貝殻に……」
「炎国の紅葉とヴィクトリアのアーモンドの花、君が桃に似ていると言っていた木だよ」
「そして中央にはおれの車、ですか」
いずれも、彼と共に旅した場所だ。
春の花と夏の浜辺、秋の山と冬の雪――一巡りする季節の全てを閉じ込めたスノードームを、リーは目を細めて見つめていた。
共に生きる時間を刻む時計を贈った彼と。
共に生きた時間を閉じ込めた自分。
贈り物としては――これで等価だろう。
「確かにおれは行商人ですけどねえ。そんなところにまで勘定を持ち込みはしませんよ」
「そういうんじゃないよ。これは――、私が君に贈りたかったから」
「……そうですか。なら有難く――いただきましょう」
それを、大事に押し戴いたリーは、ふと視線を止めた。
「……何か?」
「いえね、この車」
すい、と彼が指さしたのは中央にある三色の――彼と同じ色彩を持つ――車だった。アオスタの作である。
「中に人が乗っていますよね?」
「ああ、うん。そうだね。運転手がいるだろ。車なんだから」
「いえ、助手席にもいるように見えるんですが」
「い。いい、いてもいいだろ。車なんだから」
「そうですか。これ、よく見ると見覚えのある背格好に――」
「――いいから!今は!そういうのは!ほら!お祝いに酒を飲もう!酒を!」
急に顔を真っ赤にして立ち上がったドクターに、リーはからからと楽しそうな笑い声を上げた。
「いいですねぇ。ちょうど酒も肴も準備が終わったところなんですよ。テーブルに並べるくらいは手伝ってくれますかい?」
「勿論。今日の主役は君だからね」
「そいつぁありがたい」
二人は連れだって、冷蔵庫の方へと歩いていく。と、おもむろにリーが足を止めた。
「ドクター」
「うん?」
「今度、ドライブにでも行きましょうか」
「うん。……でも、その前に」
ドクターは、リーの手を取って。一番大切なことを伝える。
今日という日も、自分たちのこれからも。
まだ、続いていくのだから。
「誕生日おめでとう、リー。――これからもよろしくね」