六月の祝福 南仏の六月は、日本と違ってからりとして過ごしやすい。気温は二十度台前半くらいで、暑くもなく寒くもない。少し日差しがきついので、外では帽子やサングラスが必須だ。
宇髄は、石造の素朴な教会の中を、時間をかけて回っていた。細かい建築様式やら装飾やらを見て周り、先ほども来た回廊に戻ると、煉獄がそこにいた。
ここは四角形の中庭を取り囲んで四角く廊下が通っており、その回廊を歩くことで修道士たちが瞑想をする場だ。中庭側には壁はなく、柱が立っているだけだ。
柱と柱の間に腰掛けて、煉獄は本を読んでいた。南仏の眩しい日差しを浴びてその金髪は光り輝き、物思わしげな顔は宗教画の聖人のようだ。
「ずいぶんとさまになってんな」
わざと冗談ぽく言ったのは、その姿にどこかで不安を覚えたからだ。
煉獄の希望を叶えるため、二人でフランスに移り住んで、二年ほどが経った。まだ慣れないことや理不尽なことに戸惑う場面はたくさんあるが、それらも一緒に乗り越えてきた。
煉獄は普段はパリの病院で勤務していて、ボランティアでスラム街や難民キャンプの医療支援をしたりしている。所属する医師団のNGOの要請があれば、医療危機の起きている危険な地域に入りこみ、紛争などで怪我を負った人々の治療をする。
紛争地にまで出向くことは滅多にないが、一度行くと数週間に渡るため、その間宇髄は生きた心地がしないのだ。
「ロマネスクの建築について読んでいた」
煉獄は本を閉じて、宇髄を見上げた。
「ここの教会も、すべて修道士たちの手作りなんだそうだ」
質素と勤労を美徳とした修道士たちは、一つ一つ自分たちで壁石を積み、聖堂を立てた。だからロマネスクの建築は、どれも非常にシンプルな形をしている。それに、柱に彫られたレリーフや壁に埋めこまれたモザイク画は、拙いながらも言い知れぬ迫力と熱意を感じさせる。
「まあ、寒さに震えながら、自分たちの造った石の床にじかに寝るような生活だったらしい。だから修道士たちの平均寿命は二十五歳くらいだったそうだ」
――へぇ、なにを好きこのんで。
そう言いかけて、宇髄は口を噤んだ。
こいつだって、そうじゃないのか?自分の命を惜しむような人間なら、紛争地行きを志願したりするものか。
だから宇髄は、
「お前みたいな連中だな」
と言ってやった。
すると煉獄がくすりと笑う。
「俺は神とは対話しない。食欲とも縁が切れないしな」
キラリと、耳にいくつもつけたピアスが光る。今では唇と瞼のピアスはしなくなったが、左耳に三つ、右耳に二つのピアスは健在だ。こんな医者でもいいというのだから、フランスってのは自由なところだな、と宇髄はこっそり笑う。
「それと、肉欲もあるもんな」
捨てるなんて無理だよなぁ?と耳元で囁いてやれば、さっと顔を赤くして睨んでくる。
「君が」
煉獄は少し言い淀んで、中庭の方へと視線を向けた。
「君が俺を、結びつけていてくれるんだ」
この肉体に、この俗世に、そして自分自身に。
――ああ、そうだよなぁ。
宇髄は思った。きっと、放っておいたら、自分のことなど顧みない。帰る場所も作らずに、人のためにばかり生きてしまう。
そんな、この男のことが好きだから。宇髄はこの国にまでついてきて、その居場所となってやったのだ。日本とEUの医師資格を武器に、どこへでも行って、一番困っている人たち、一番苦痛に呻いている人たちを救うために我が身を削る。
それはきっと、誰にも止められない。煉獄はそんなふうにしか生きられないし、その生き様を愛したのだから、宇髄はせめて、彼の居場所になろうと決めたのだ。帰ってきたら寛げる場所、一人の人間に戻れる場所、小さな我儘を言える場所。
そのためにも、彼を人間らしいところに、引き止めておかねばならない。だから。
教会を出て歩き出す煉獄の傍へと歩み寄り、耳元に再び唇を寄せる。
「なあ、今日ホテルに早く帰ろうぜ。たくさんやりたい」
この男を、堕落した人間の世界に堕としてやるために。たくさんいい思いをさせて、気持ちよくさせて、逃れられないくらいに。
煉獄は立ち止まると、ふっと扇情的な笑みを浮かべて、宇髄に視線を送る。だけど、その目元は少し赤くなっていて、彼なりの強がりだということは、もうだいぶ前から気づいている。知らないふりをして、本当は恥ずかしくて不安に揺れる内面を垣間見てやるのが、密かな愉しみなのだ。
村の小さな食堂で昼食を摂ると、再び村を散策する。あの小さな教会の前では、結婚の誓いを済ませたばかりのカップルが立っていて、皆から祝福を受けていた。
古い鐘が鳴り響き、人々が歓声を上げる。南仏らしい色とりどりの花が舞い、花嫁と花婿を飾り立てる。
「ジューンブライドだな」
静かに、煉獄が言った。神話の女神の祝福を受けて、六月の花嫁は幸せになれるという。
お幸せに、と煉獄がフランス語で声をかける。花嫁はこちらに手を振っている。振り返してからこちらを向いた彼は、背後からの陽光を纏って、輪郭が明るく輝いていた。
花嫁のヴェールみたいだ。
とりとめもなくそんなことを思い、宇髄は彼の手を取った。
誓いだとか、約束だとかは、きっとこの男には必要ないから。
黙って宇髄は、煉獄の左手の薬指に、そっとキスを落とした。
案の定、煉獄はきょとんとしている。宇髄は思わず微笑んだ。そしてそのまま、手を引いて歩き出す。
「宇髄、どうしたんだ」
煉獄が怪訝そうに訊くが、宇髄は答えない。この男は知る必要がないのだ。これから、純白の光を纏う穢れのない花嫁を、かっ攫おうというのだから。
そう思うだけで、胸の奥がずくりと疼いた。
ああ、いとも清らかで気高い恋人よ。お前のその穢れなき花を、今夜も散らそう。何度でも。
女神でもなんでもいい、この偽りなき愛に、どうか祝福を。どうか。