きしょいこと言ってんじゃないわよ「ええ、自分はいますよ。気になる女性。ぜひお付き合いしたいと思っています」
そう言った彼の瞳がこれまでに見たことのないくらい甘くとろけていたから、私は何も答えることができなかった。
本当は定時で帰れる予定だったんだけどね。ちょうど帰ろうと思ったタイミングでP機関の後輩が抱えていた案件の出演アイドルのブッティングが見つかっちゃったって報告してきて、そのサポートのために結局残業しちゃったの。そのトラブルはちゃんと解決できたよ。他の出演者もあっさり決まって、各方面への連絡とかを手伝っただけ。どうにか落ち着いて帰れる頃にはもう九時過ぎとかで、それから家でご飯作るのも面倒だから何か美味しいものでも買って帰るか、いっそちょっとお酒飲んでいっちゃおうかなって思ったんだ。そうしたらたまたまエレベーターで七種くんに会ったの。そうそう、Edenの。七種くんコズプロの副署長もやっててかなり働き詰めで、いつも帰り遅めみたいなんだよね。もっと遅い時間まで残ってることもしょっちゅうあるみたいだよ。
軽く挨拶して、夕飯どうしようかなっていう話を七種くんにもしたの。そしたら「自分も夕食まだなのでよろしければご一緒しませんか」って言われて、ご飯食べに行くことになったんだよ。え? いや違うんだよ。誘ったつもりはなくて。……そうなの? そっか、うん。相手はアイドルだもんね。次からは気を付ける。大事なアイドルに、私が火を付けるようなことしちゃダメだよね。うん。……えっと、それで。そうそう、そんな流れでご飯食べに行ったの。七種くんはそのあたりしっかりしてるから、七種くんの選んだ居酒屋に行ったんだよね。個室の、ちゃんとしてるとこ。お酒も料理もとっても美味しかったから今度一緒に行こうね。それから料理もお酒もそれなりに食べて……、最初は最近の案件とかやりたい企画だとか普通の仕事の話をしてたんだけど、話の流れで七種くんの好きな人の話になったの。
え? ううん、最近話題になった女優さんは本当になんでもないんだって。うまくトリミングされただけで、実際はスタッフの人とかもたくさんいたって言ってた。向こうも話題作りとかそういう意図はなさそうって聞いたよ。でも確かその話の延長で、じゃあ七種くん彼女いないんだ〜? あんずさんこそどうなんですか〜? みたいになって、私はいないよって言って、多分七種くんもそう言うんだろうなって思ったんだけど。「自分は気になる女性ならいますよ」って。
七種くんってね、かなりさばさばした性格で、アイドルはもちろん経営のお仕事にもすごく熱心な人だから……。勝手なイメージだけど、あんまり恋愛とか結婚とか興味ないタイプだろうなってずっと思ってたの。だからすっごいびっくりしちゃった。名前は流石に教えてくれなかったんだけど、その人の特徴? みたいなのをいくつか教えてくれたの。
「えっ、うそ、いるの?」
「いますよそれくらい。可笑しいですか?」
「ううん、そういうわけじゃないよ。でも本当に、意外だなあって思って」
そうですね、と。彼は独りごちるように呟いた。
「自分も今まで、こういった感情とは生涯無縁だと思っていました。恋人がいなくとも満たされた人生を送ることができ、伴侶がいなくとも目指したい場所に辿り着けると。幸運にも、それに相当するような方々にも出会えましたし。けれどまあ……、好きになってしまった以上、どうしようもないので」
そう零す彼の顔はほんのりと赤い。目尻も心なしかやわらかく下がっている気がする。きっとお酒のせいだけではないのだろう。好きな人を思い浮かべるだけで、あの七種茨がこんな表情を見せるのか。これが恋。私の未だ味わえない感情。
「どんな人なの?」
「非常に仕事熱心で、その上優秀な女性です。やりたいことに対して貪欲で、そのあり方は自分も見習うべきだと思っています」
「一緒に仕事をしたことがある人?」
「ええ、いつもというわけではないですが、何度かご一緒したことがありますね」
「ということは同業? アイドル?」
「芸能界で働く方ですが、アイドルではないです。裏方の仕事をされていますよ」
「私の知ってる人?」
「ええ、それはもう。よくご存知かと」
続け様に色々質問してしまったので、ここで一度出た情報を整理する。芸能界で裏方の仕事をしている人。おそらくアイドルとも関わるような職で、七種くんとも顔見知り。彼が認めるほどに仕事のできる女性で、おまけに私がよく知っている人。
プロ科の後輩か、もしくはP機関の知人だろうか。プロデューサーと決まったわけではない。ライブスタッフだったり、コズプロの社員さんかもしれない。ES外の人という可能性も捨てきれない。うんうんと頭を悩ませる私を七種くんは楽しそうに見つめ、口を開いた。
「お心当たりはありませんか?」
「何人か、いますので、聞いたら教えていただけるのでしょうか……?」
「あっはっは、その察しの悪さはもはや芸の域ですねぇ!」
首を傾げ、睨め付けるようにこちらを見つめながら笑う。いつもの七種くんの顔だった。仕事をするときの顔。毒蛇の顔。目の前の相手をどう調理してやろうかと舌なめずりしているような、悪い顔。何か、七種くんのスイッチが入ってしまったらしい。
「あんずさん。自分この話、人にしたのは初めてなんですよ」
「……そうなの?」
「どうしてあなたに話したのか、その理由が本当にわかりませんか?」
引き上げられた口角。捕食者の目。近づけられる顔。私の中の点と点が、一本の線で繋がる。
芸能界で裏方として働く女性。仕事ができて、彼が尊敬できるほどの人物。私がよく知る相手で、私にそれを話すことで得られるもの。
「うん、わかった、大丈夫。わかる、わかるんだけど、待って」
「あんずさん」
「ごめん、ちょっとだけ考えさせて。できるだけ、前向きに検討したいと思ってるから」
七種くんは何か言いたげだったけど、私は混乱してそれにまともに応えることができなかった。それから何を話して、どんなふうに別れたのかあんまり覚えていない。ただそれ以上の話はしなくて、私は何も答えなかった。それだけ。
「……で、しばらくひとりで色々考えてたんだけどどうすればいいのかわからなくて。で、昨日七種くんから催促っぽい連絡がきたから今日こうして相談に乗ってもらってるの」
「う〜ん、わたしはその七種くん? のことよく知らないからちゃんとしたことは言えないけど……。あんずちゃんは何が引っ掛かってるの?」
「……なんというか、ほら……。これで二人がくっついちゃったりしたら寂しくない?ヤコぶ〜取られちゃうみたいで」
「……え?」
「結婚した友達が疎遠になった、みたいな話よくあるでしょ。七種くんはほんとに優秀だしいろんなことができるから、ヤコぶ〜がそっちばっかり見るようになったらやだし……。七種くんの気持ちは応援したいと思うけど、でも二人が付き合ったらそれはそれで複雑というか」
数秒の沈黙。少しの間を置いて、腹を抱えて笑い転がる女が一人。川向こうの喧嘩ほど見ていて愉快なものはない。それはそれなりに名の知れはじめた駆け出し女優の振る舞いとは思えないほどに天真爛漫で、まるで遊び盛りの少女のようだった。
「なんでそんなに笑ってるの?」
「あははははは、待って、無理、あはは、そうだやこちゃんも呼ぼうやこちゃんも呼ぼう!」
夜が深くなり始める逢魔が時。アルコールの匂いと騒がしい笑い声が満ちたアパートの一室。少女たちの会合は始まったばかり。