女神の深情け「スバルくん」
声がした方を振り向けば、スーツ姿のあんずが小走りでこちらへ駆けて来ていた。一昨日ぶりに見る彼女の姿に思わず駆け足で迎えに行く。
「あんず〜!やっほやっほ!そんなに急いでどうしたの?」
「わっ、こら、抱きつかないで」
腕の中に閉じ込めたあんずが腕をじたばたと動かす。三年生になってからというもの抱き締めることにいい顔をしなくなったあんずだけれど、なんだかんだ許してくれるときと本当に駄目なときの違いくらいはわかる。周りにファンの人とかスタッフとか、英智先輩とかがいるときは駄目なとき。本当に駄目なときは真面目な顔で怒られるけど、許してくれるときはふわ〜とした顔で「しょうがないなぁ」って笑ってくれる。今だって一応周りを確認して、廊下に他の誰もいないことを確かめてから抱きしめたのに。あんずに怒られるのは寂しいので、仕方なく腕をゆるめて彼女を解放した。あんずは少しよれてしまったスーツのジャケットを正すと、神妙な顔つきでこちらを見ながら自らの首筋を指差した。
「スバルくん、ここ。赤くなってる」
あんずの姿を鏡にするように自分の首筋に触れて確かめると、ほんの少しだけ腫れ上がっている感じがする。スマホを取り出し、カメラを立ち上げ首のあたりを映し出した。
あんずの言う通り、鎖骨に近い右の首筋にじんわりと赤い跡が付いている。痒みは無いが小さく腫れているし、他に跡がつくような心当たりもないので確実に虫刺されだろう。
「あ〜ほんとだ、たぶん蚊だと思うけど」
スマホを閉じてポッケにしまう。ちらりとあんずの反応を伺えば、彼女は思い詰めたような表情でじっとこちらを見上げていた。自分の不注意であんずの顔を曇らせてしまったのが悲しくて、慌てて言い訳をするように捲し立てる。あんずにはいつもキラキラに笑っていてほしいのに。
「ごめんごめん! 最近はちゃんと虫除けしてるつもりだったんだけど、もっと気を付けるね!しばらくは撮影の仕事ないからそんなに心配しなくても大丈夫だよ?」
頭の中のスケジュールではこの先一週間は次のライブに向けたレッスンが中心で、ビジュアルを必要とされる仕事はなかったはず。というか俺のスケジュールなんて俺よりあんずの方がよっぽど細かく把握しているはず。
「……これ、一応貼っておいて」
そう言いながらあんずが鞄から取り出したのは、手のひらに収まる程度の小さなシートだった。薄肌色の丸いシールが二枚、シートの上に乗っている。見たことがある。というか、小さな頃にはキャラクターの描かれたそれを愛用していた。虫刺されの上に貼ることで痒みを抑え、掻き毟ることを防ぐための製品。
「……ありがと?」
数年ぶりに見たそれをまじまじと見つめ、少し経ってから貼るように言われたことを思い出す。
「自分じゃ貼りにくいからあんず貼って!」
「駄目だよ」
「なんで?」
「そういうところに私が触るの、あんまり良くないと思うから」
え〜とわかりやすくぶすくれてみるが、あんずが「しょうがないなぁ」と言ってくれることはなかった。仕方なしに再びスマホを取り出し、位置を確認しながら片手でシールと格闘する。見かねたあんずが俺のスマホを代わりに持ってくれたけど、やっぱり貼ることはしてくれなかった。
「俺もう高校生なんだから痒いのくらい我慢できるよ?」
「……その場所だといろいろ言ってくる人がいるかもしれないから。それ貼っておけば少しはバレにくくなるし、わざわざ言わなくても『虫刺されです』ってアピールにはなるでしょ」
「わざわざシールで隠す方がやましいことがあるって感じしない?」
あんずは何も言わない。顔の前で掲げられた俺のスマホが邪魔で、表情はわからない。
「あんず」
ちゃんと見てみて。
あんずの手を両手で掴んで引き下ろす。遮るものが視界から消えて、その顔がよく見える。あんずは俺を見ていなかった。気まずそうに目を逸らして、足元を映す目がゆらゆらと揺れている。
「これほんとに虫刺されだよ?」
アイドルとして、俺たちを応援してくれる人たちに不誠実なことはしない。俺たちのプロデューサーであるあんずに迷惑がかかるようなことは絶対にしない。なのに。あんずは、俺の言葉を信じられないのだろうか。そんなに俺は信用ならなっただろうか。
「わかってるよ」
あんずの手からスマホを抜き取り、こちらを見ようとしない瞳を覗き込む。どうして俺を見てくれないんだろう。目の前にいるのに。わかってるって、俺のことを信じるって言ってくれたのに。あんずは眉を下げて、困ったように笑っていた。笑ってほしい、いつもみたいに。くすくすと堪えきれないように零す笑みを。悪戯の成功した子供みたいに満足気なきらきらした笑顔を見せてほしい。お願いだから。
「それでも」
両手の空いたあんずの手が俺の胸を押し返す。ぽっかりと空いた人一人分の距離があまりにも遠い。