口封じ「こんな夜分に間食ですか、お姉さま」
あんずは大きな瞳をぱちくりとひとつ瞬かせて、それから長いこと油を差していない機械みたいにぎこちなく声のした方を振り向いた。声をかけた司はまるで悪戯が見つかってしまった子供のようだなと思う。
資料やらで散らかったあんずのデスクに広げられた簡易な包装のパウンドケーキは手作りの品だろうか。バナナのような白っぽい果物が中に散りばめられている。もぐもぐもぐ、ごっくん。あんずは口の中のものを綺麗に飲み込んでから、ようやく口を開いた。
「これは、夕飯だからいいの」
「おや、それっぽっちを夕食の代わりになさるおつもりで? あまりお体に良いとは言えませんよ。近頃は毎日三食栄養Balanceの整ったものを召し上がっていると伺っておりましたが——、どうやら虚偽の申告だったようですね」
「あっ」
あんずはわかりやすくしまったというような顔をする。そういう無表情なように見えて存外感情が顔に出やすいところもたいへん可愛らしいと、司は常々思っている。
「今日だけ、今日だけパウンドケーキたくさん作っちゃったから特別なの。いつもはちゃんと食べてるよ」
司は目を胡乱げに細めた。あんずがここ最近食生活に気を使っていたのは本当だが、何かと予定が詰まっていた今日この日だけ、差し入れの練習にとプロデュース科の後輩と一緒に作った焼き菓子を夕食の代わりにと考えてしまったことは紛れもない事実だった。あんずは気まずそうに目を逸らして、それからつい先程まで無心で口に運んでいたデスク上のパウンドケーキの存在を認めた。いいことを思い付いたとばかりにそわそわとそのうちの一切れをつまみ上げる。
「どうかみんなにはご内密にしていただけないでしょうか……」
「これで口止めするおつもりですか?」
「まあまあ、ほら、あ〜ん」
あんずはぎこちなく笑ったままパウンドケーキを司の口元へ伸ばす。司はあんずをじっとりと見つめたが、「まあ良いでしょう」と呟きパウンドケーキをひと口齧った。存外しっとりとした生地の中でバナナの控えめな甘さが際立つ。舌の肥えた司はこれよりも質の高いケーキを何度も食べたことがあったものの、愛おしい姉たるひとの手作りの品であるとなれば美味しさもひとしおである。
パウンドケーキはひとくち、またひとくちと齧られ体積を減らした。残りが一口分ほどになったあたりで頬張る司の様子を温かい目で見つめていたあんずの表情が突如強張る。細い指の触れる最後の一欠片の扱いをどうするか、考えあぐねたその一瞬の隙で当然のように司の口の中に取り込まれた。司の唇が指先もまとめて挟み込んでいった柔らかな感覚に、あんずは気付かないふりをする。
「ところで」
口の周りについたくずを指先で拭いながら司は微笑む。
「お姉さまもよくご存知とは思いますが、私、瀬名先輩から甘いものを厳しく制限されているのです」
「あ」
「いくらお姉さまが勧めてくださったとはいえ、こんな時間に焼き菓子など何を言われてしまうやら……」
にっこりと笑うその顔は見とれてしまうほどに品がある。わかってて言わなかったでしょう。つい言いたくなった文句はお腹の中にしまっておく。司の言うとおり、ケーキを食べさせたのはあんずの都合だ。恐ろしいかの先輩の美しく冷えた微笑みが脳裏を過ぎる。
「……それも内緒にしておいてくださいませんか」
「ふふ、さてどうしましょう。私も瀬名先輩に怒られたくはありませんが、パウンドケーキが一切れでは対価として少しばかり不相応ですね」
楽しそうに笑む司から目を逸らす。他になにか口止め料として相応しいものはなかったかとデスクに目をやるが、パウンドケーキの他には資料や事務用品が散らばっているだけだ。
「司くんはなにが欲しい?」
「——ではあんずさんからの口付けを、などと言えばほんとうに頂けるのでしょうか?」
だめです、と反射的に放ったときさえ司はその余裕気な顔持ちを崩さなかった。わかりやすく口を尖らせてちぇ、と零したかの日の可愛らしい姿は数年の年月のうちに失われてしまったようだった。
「でしょうね。構いませんよ、ここで『いいよ』などと言われる方が心配になってしまいます」
司は存外簡単に引き下がる。しかしわかりやすく安堵の色を浮かべたあんずを見逃すことはしなかった。
「けれど忘れないでくださいね、あんずさん。私はいつでも、冗談や揶揄いのつもりでこんなことを申し上げているわけではないことを。私はいつだって、あなたからのご寵愛を賜る日を待ち倦んでいることを」
膝の上で握り締めていた拳は司に掬い上げられて、それから手の甲を唇が掠めた。騎士然とした仕草は彼のユニットの十八番であることを差し置いても様になっている。
「今ダメって言ったばかり」
「この程度、fanの方々にもいつも行っていますよ。それともお姉さまは司のことを応援してはいただけていなかったのでしょうか」
「……そういうわけでは」
では何も問題ありませんね。そう言って司は優雅に笑う。何事にも必死で余裕がなくて、いつもメンバーに振り回されていた弟のように可愛い姿をもうずっと見ていないなとふと思った。それは司が成長した証に他ならないけれど、幼子のように甘えてきた過去が懐かしくないと言えば嘘になる。
「それでは代わりに食事にでも行きましょうか。実は私も夕食がまだなのです」
あんずの了承を得る前に、司はあんずの右手を滑らかに左手に持ち替えながら一歩前へ進む。お姉さまと二人のお食事は随分久しぶりです、とずいぶんと機嫌が良いようだった。
「ふふ、お姉さまとdinnerだなんて他の方に知られてしまっては何を言われることやら。……このことも、私たちだけの秘密にしてしまいましょうか」
「……しょうがないなぁ」
今日だけ特別だよ、と眉を下げると司の表情がぱっと華やぐ。こういうところは小さい子供のようで可愛らしいのだけどなぁ、などと口にしたらきっとへそを曲げてしまうのだろう。まだ残っている雑務は翌日の自分に任せることに決め、あんずは散らかったデスクを片付け始めた。かわいい弟分との食事は、あんずだって楽しみなのだ。