またの機会に 美人の真顔は怖い、なんて言葉があるけれど、怒ってる美人は眉を釣り上げていようが無表情だろうが等しく恐ろしいのだと知った。撮影用のカメラを前にしたように穏やかな笑みを見せるその人は、不機嫌と不満を隠そうともしなかった。
「……ぬるくなっちゃいますよ」
何を語るでもなくただ批難を視線に乗せて浴びせられるのに耐えきれず先に口を開いた。巴さんの手に収まるプラスチックのカップはひどく汗をかいてその手を濡らしている。ベンチの下は木陰になっているけれど、それだけでは暑さは凌げない。何もかもを溶かすような陽射しはカフェラテに混ざる氷だってすぐに溶かしてしまうだろう。
「……そうだね、飲み物に罪はないからね」
巴さんはようやく緑色のストローに口をつけて中身を吸い上げた。だがすぐに「薄いね」などと言って口を離してしまう。味が薄いのは時間を置きすぎて氷が解けてしまったからだろうに。それとは対照的に私の手元のキャラメルラテは巴さんの視線から逃げるために頼りすぎてほとんど残っていない。カップの汗が一滴垂れて、おろしたてのスカートの色を変えた。
縋るように残り僅かなそれを吸い込むとずずっと音が立って「お行儀が悪い」と咎められる。
「……ご不快な思いをさせてしまいましたか」
「飲み方に関しては次から気をつけてくれればそれでいいね。でもきみは、ぼくが苛立っている理由を何も分かっていないよね。理由もわからず口先だけ謝られたところで不愉快なだけだね。そういうのは茨だけで充分」
それきり、巴さんは話すのをやめてカフェラテを飲む。長い足を持て余すように組むのはお行儀が悪いに入らないのだろうか。私は空になったカップを自分の隣に置いて、少し離れた位置に佇むさっきお世話になったばかりのキッチンカーに目をやった。大学生くらいの男女が二人、私たちと同じように冷たいドリンクを買っている。
心当たりが無いわけではない。あそこで飲み物を買ったときから、巴さんの機嫌は右肩下がりだった。
それまではいつも通りだったと思う。ESで雑務を片す中で突然荷物持ちが欲しいと声をかけられた。いつも大荷物をぶつくさ言いながら持ってくれる相方は生憎ソロの仕事に行っているらしく、私の作業も特に急ぐ必要もない時間つぶしのようなもので、断るに値する理由は手元に何もなかった。いいですよ、と返したときの彼は機嫌がよかったはずだ。それから前々から気になっていたという服屋や雑貨屋やアクセサリーショップを数店巡って、なぜだか巴さんは私にばかりものを買い与えた。最初の店では慣れた様子で店員に細かく指示を出して、スーツのままだった私の装いを初夏らしい涼し気なワンピースへと取り替えた。着飾ることを覚えることだって必要だね、などと言いながらいくつもの店を回っていつどこで着ればいいのかわからない衣類やアクセサリーの詰まったショッパーを私に押し付けることに満足すると今度は疲れただの休みたいだのと騒ぐので、たまたま目に付いたキッチンカーの止まる公園へと引っ張っていった。キッチンカーが運良くクレジットカード決済に対応しているとはしゃいでいたそのときも、巴さんは確かにご機嫌だったはずだ。
「あんずちゃんは何が飲みたい?」
「じゃあ……、キャラメルラテがいいです。冷たいの」
当然のように巴さんは私の分までまとめて注文してくれた。こういう雑務みたいなものは嫌がる人だと思っていたけれど、店員さんと話すことが好きなようだった。お眼鏡にかなったワンピースのカラーバリエーションを尋ねるときもフッティングルームの前であれこれ指示を出しているときもずっと楽しそうにしていた。二人分のドリンクはすぐに用意されて、私のキャラメルラテは巴さんを経由して手渡された。「ご馳走さまです」と声をかけると満足そうに笑む。払います、などと主張したところで全くの無意味だということはこれまでに学んできた。
「ああ見てあんずちゃん。このお店焼き菓子も売ってる」
「今お会計終えちゃいましたよね」
「凪砂くんにお土産を買っていってあげたいね」
丸いシュガークッキー、スライスオレンジの乗るマフィン、角切り林檎で覆われたアップルパイ。思いの外品目の多いスイーツメニューの端から端まで目を通す巴さんの様子を、妙齢の店員さんはくすくすと笑いながら見ていた。そういえばこの人、外を歩くのにろくな変装をしていなかったことを思い出す。思わず一歩下がって俯くと、彼女はそれを照れていると捉えたらしかった。
「素敵な彼氏さんですね」
「違います」
つとめて冷静に否定する。こういう勘違いを放置してしまうと後々大変なのだ。多分。あれ、という顔をした店員さんになんと説明すべきか、考えのまとまらないうちに口を開く。
「えっと、職場の……、職場の、……上長?」
「上長? 上司さんですか」
「まあそんなところで」
す、と言い切ったときには、巴さんはもうあの笑顔だった。底冷えするようなやわらかさを携えて、眼下で藻掻く虫でも慈しむようにやさしく笑っていた。
「行くよ」
つい今まで夢中になっていた焼き菓子には目もくれず、キッチンカーから踵を返して少し離れたベンチに向かって歩き出す。
上長はまずかっただろうか。とはいえ同僚や友人とは呼べず、先輩などと呼んでもへそを曲げてしまうのは既に経験済みである。素直に勤め先に所属するアイドルで……などと説明するわけにもいかない。少なくとも私の頭では最善の選択だった。それがたとえアイドルを多少なりとも寂しがらせる言葉だったとしても、私は言わなくてはならないのだ。当たり障りのない関係性を示す言葉を。
ショッパーをがさがさと鳴らしながらその背中を追いかける。ずんずん進んでいく背中に、傍若無人に見えるこの人も私の歩幅で歩いていたんだなあと知る。
「……すみませんでした」
「それは何に対する謝罪?」
「……不適切な関係を一般の方に伝えてしまったことに対する?」
はぁ、と大きなため息。いつの間にか空になっていたカップを傍らに置いて心底呆れたように、そして物分りの悪い子に言い聞かせるようにわざとらしく口を開いた。
「きみは身の程を知るといいね。きみにとってのぼくが何であるかはぼくが決めることだね」
「じゃあ、巴さんならなんて言いました?」
「……そうだね」
ふむ、と足を組み直して片手を顎に添える。人差し指がおとがいを三度叩いてからにっこり笑って口を開いた。
「ぼくのかわいい子だ、って紹介してあげるね」
「困ります」
「きみの意見は求めてないね」
「七種くんも困りますよ、多分」
「なんとでも言わせておけばいいね」
その様子を思い浮かべたのか楽しそうにけらけらと笑う。つい先程まで漂わせていた何かしらの不機嫌は元に戻ったようだった。結局その理由はわからないままだけど。
「あんまり巴さんに迷惑がかかるような存在にはなりたくないのですが」
「きみの存在がぼくに影響を及ぼすと思ってるのなら自意識過剰だね! ぼくはそんな簡単に揺らいだりはしないね」
君みたいなへっぽこプロデューサーがぼくの心配をしようだなんて、生意気。放たれた言葉の鋭さとは裏腹に、随分と穏やかな笑顔だった。眼前の何かを愛おしむように目を細める。どうやら道端の虫よりは価値ある存在に昇格できたらしい。
「仕方ないね。今日だけは特別に、きみにとって都合のいい存在になってあげるね」
大きな手が頬へと伸ばされた。耳の前をするりと撫でる指先はじっとりと熱の篭もる人肌の温度を想像していたが、ドリンクで冷やされたのか存外ひんやりとしていた。指先に変な力が入って、空のカップがペキリと小さく鳴った音は彼にも聞こえてしまっただろうか。
「でも今後は二度と許さないね。このぼくを君の決めた型にはめようだなんて烏滸がましいね」
耳下から顎のラインを伝って、猫でも愛でるように喉元を二、三度くすぐってから巴さんの手は離れていった。小動物を可愛がる感覚だったのだろうか。美しい異性に可愛がられたはずのその場所は何故だかぞわりと冷える。火照る頭を冷やすためにこめかみを流れた汗は冷水のようだった。
「今度はデートするときはきみにとってのぼくが何であるか、ぼくが新しく決めてあげるからね」
美しい笑顔だった。これがデートであったことも、彼がステージの上でファンを虜にするときよりもさらに蠱惑的に笑うことができることも、今初めて知った。
それじゃあ今度こそ凪砂くんへのお土産を買いに行こうね。そう言って立ち上がった彼の表情は太陽に照らされて、もうこちらからは伺えない。汗が顎を伝って、スカートにまたぽたりと落ちた。せっかく買ってもらったばかりの服なのに。そう考えてまた恐ろしくなった。
今度、なんて機会が来てしまったら、私は次に彼から何を与えられるのだろうか。