帰巣 なんとなく避けていた。それを忌む男はもう隣にはいないというのに。
白身魚をフライにしてタルタルソースをかけて、たっぷりのレタスも添えたフィッシュサンド。それから赤と緑のコントラストが映えるBLTサンド。あまり悠長にしている時間はないというのに、昼食を選ぶために棚に伸ばした右手は二つのサンドイッチの間を何度も往復していた。
スタミナの付きそうながっつりしたメニューがいいなと思っていた。今日はこれから面談が二件。復職はそう簡単じゃなかった。こういうときは照り焼きチキンのサンドがあると都合がいいのだけど、生憎今日は売り切れているようだった。
背後からごほんと大きな咳払いが聞こえる。控えめに振り向けば、スーツ姿の年配の男性がじっとりとこちらを見ていた。サンドイッチコーナーを独占しすぎてしまったらしい。小さく頭を下げて、もう一瞬だけ悩んだ末にフィッシュサンドを手に取った。レジの横に並んでいたミネラルウォーターも一緒に手に取って会計を済ませる。私ももういい加減立ち直り、そして忘れなくてはならない。あの男の束縛も、あの世界の抑圧も。
ベーカリーから一歩外に出ればちりちりと炙るような日差しと蒸すような湿気に包まれた。日傘を指すにはまだ早いかな、そろそろ公園でランチをとるのは厳しいかな、なんて考えながら目と鼻の先の公園のベンチを目指す。
あの日縋るような思いで砂を握り、力の入らない足で波を蹴った夜からもう何度もカレンダーを捲っている。地上は厳しい。日差しは暑いし再び職を得るのは大変だし、自分がどこでどう生きるのかを自分で決めなければならない。自分の足で立つことは辛く、そして自由だった。何もかもを不自由なく与えられ、人としての在り方を奪われたあの日々にはもう二度と戻りたくないと思う。いや、もう忘れよう。長い夢見ていたのだと思って。サンドイッチのビニール包装を剥がしながら頭を振って悪夢を頭の隅に追いやる。あらかじめ半分に切られているサンドイッチの断面からはフィッシュフライの艶やかな白が覗く。その色は彼の鱗の色を彷彿とさせて、つい先程食べてやるのだと固く決意したはずの意思がゆらゆらと揺れた。魚は好物だったはずなのに。あの場所で食べたいなんて口に出したことはなかったけれど、聞き馴染みのあるそれこそ食卓に並ぶような魚の名を耳にする度に君は瞳のあたたかさが変わるのだと彼の男は私を責めた。違う世界で育った異なる生き物だということを認めてくれないようだった。
分厚いサンドに合わせて大きく口を開いてかぶりつく。決別するのだ。あの海の生き物と。
「——ねえ、そこのきみ」
頭上から声が降った。人型のシルエットは陽を遮ってサンドイッチに影が落ちる。
「それは魚? 残酷だね、そんな野蛮なことはしないようきつく教えてあげたはずだけどね」
聞き覚えのある声に思わず口からサンドイッチを離して、ゆるゆると顔を上げた。海の中とは聞こえ方が少し変わるのだと初めて知った。
「そんなに大口を開けるのも駄目だね、品がない……。ぼくの子ならもっとお淑やかに振る舞いなさいって言ったのも忘れちゃった?」
太陽を背に微笑むのは、ここにいるはずのない人。
「ひより、さん」
「うんうん、ぼくの名前は覚えているんだね。そんな簡単なことまで忘れているようならどうしてやろうかと思ったね」
「なんで」
ここは彼の世界ではない。ひよりさんがここへ来れるわけがない。それを否定するように、ひよりさんは長い二本の足でこちらへ距離を詰めた。
「ぼくのこと、ぼくの可愛い子が迷子になったっていうのに放っておくような非道いやつだと思っていたの?」
そんなことはないから安心するといいね、と彼は続けながら、ベンチの隣へと腰を落ち着けた。逃げなければ、と分かっているのに体は動かない。勝てないのだと知っている。彼の泳ぎは人魚達の誰より速かった。私が藻掻くように必死に尾ひれを動かしても、彼は優雅に微笑みながら追いついて「もう少し余裕を持って泳げるようになるといいね」などと宣うのだ。
「あんずちゃん」
違う。地上なら逃げられるはずだ。土地勘だってあるし、ひよりさんは走るのなんて慣れていないはず。逃げなきゃ。立ち上がらなきゃ。けれど二本足は動かし方を忘れたようにぴくりともしなかった。
ひよりさんは左手で私の手からサンドイッチをするりと奪い取る。頬をすりすりと撫で上げる右手はなまあたたかい。どさり、一口も齧ることができなかったサンドイッチが地べたに落ちた音がして、空いた左手はゆるやかに私の両手を拘束した。
「素直に戻ってくるのであればぼくを出し抜いたことは許してあげる」
きみが選ぶといいね。深海の温度の瞳は弧を描く。
戻りたくなかった。それでも足は動かなかった。
生まれ育ったこの場所で人として生きたかった。それでも彼の拘束を振り払えなかった。そんな私の姿を彼は満足そうに眺めている。
「……きみが賢い子で嬉しいね」
立ち上がって手を取られた。おいで、と一言言われただけで、石のように固まっていた両足は簡単に一歩、また一歩と動き出す。進みは鈍く歩幅は不揃いだけれど、ひよりさんは引きずるようなことはしない。私が自分の足で海に向かうのを待っている。
背後では騒がしく羽音が立っていて、原型を失ったサンドイッチは鳩たちの昼食になるようだ。一カ所に群がってサンドイッチをつつく様を羨ましいと思う。もっと早い日にあれを選ぶことができていれば何か違ったのだろうか。あと数分早く決断できていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。
頬を水分が濡らしていった。久しく忘れていたが、そういえば涙というものは重力に従って流れ落ちるのだと思い出した。