じくじくと蝕まれるような下半身の痛みで目を覚ました。そこはずいぶんと暗く、あたりの様子は伺い知れない。わかるのは痛みと、後頭部を包むやわらかな感覚。少なくともいつもの自室のベットではないということしか導き出せなかった思考に正解を与えてくれたのは、まだ耳に馴染むことのない不思議な響きの男の声だった。
「あれ、目が覚めたの?」
飛び起きることをしなかったのはひとえにそんな力が出なかったからだ。指一本、瞳を動かすのですら億劫だと思ってしまうほどに全身がだるい。何の反応も返さない私のことを男は特段気にする様子はなく、視界に彼の指がちらついた。
「まだ終わっていないからもう少し休んでおいで。最後まで寝ていられたら楽だったのに、ついていない子だね」
ゆるやかに頭を撫でられていた。胸の奥でささくれ立つ不安を落ち着かせるような手が疎ましくて、そんな手にさえ縋りたいと思ってしまうのがどうしようもなく怖かった。握った拳をほんの少しだけ縮こめたことを彼は見逃さず、上から大きな手のひらで包まれる。宥めるように手の甲をさすり、それから親指の付け根に彼の親指を押し込んで手を開かせてすべての指先を絡ませた。手のひら同士がぴったりとくっつき合った。
温度のない肌を持つ男だと思っていたのに、その手はほんのりとあたたかかった。今まで私に触れるたびにあついあついと言っていたくせに、繋がれた指先は嫌がる素振りを見せない。ほんとうに、私は私ではない何かに変わっていっているらしい。視界の端にちらついた一対の紫はまるで宝石のようで、暗闇の中でもじんわりと光っていた。
「ゆっくりでいいからね。ここでずっとぼくが見ていてあげるからね」
シーツで覆われた腰から下に今何があるのか自分でも分からなくて、その答えから逃げるように再び目を閉じる。全部悪夢だったら良かったのだけれど、手の甲を撫ぜる指の腹の滑らかさと時折当たる爪先の擽ったさは、受け入れ難いほどに鮮明だった。
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「——作れないことはありませんが」
「……そうなの?」
問いかけると彼はしまったとばかりに露骨に顔をしかめた。今の彼の発言が明らかな失言だったことは私にもわかる。やはりこの男——いばらくんは煽られるのに弱いらしい。気まずそうな顔で「今のは聞かなかったことに」と付け加えられたが、私はその失言を聞くのをずっと待っていたのだ。
「作れるなら作ってよ」
「勘弁してください。自分が殿下に八つ裂きにされてしまいます」
「そこをなんとか」
「自分まだ死にたくありませんので」
いばらくんはふいと顔を背けて慌てた様子で資料やら器具やらを抱え込むと、室内にみっちりと詰め込まれた棚や作業机の隙間を縫って部屋の奥へと進んで行った。ひよりさんの何倍もある長い尾を何にもぶつけずに狭い場所を進むことができるのは器用だなといつも思っている。ほんの時々、つっかえてウンウン唸っていることもあるけれど。
いばらくんの後を追いかけて部屋の奥へ進む。ひよりさんの目を盗んで何度もここへ通っているから迷うようなこともない。ひよりさんよりも立場が下らしい彼は私にもあまり強く出られないことも知っている。本棚やら器具棚やらを抜けた部屋の最奥、まるでおとぎ話に出てくる魔女の作業場のような大釜や色とりどりの液体の入った小瓶が立ち並ぶ一室で、いばらくんはこちらをじっとりと睨みつけていた。
「しつこいですよ」
「やっぱり作れないの?」
「技術的には不可能ではありませんが? あなたにお渡しすることはできないというだけです」
「どうしても欲しいの、お願い」
「今日はもう帰ってくださいね。迎えにジュンでも呼びましょうか」
手元の小瓶をかちゃかちゃと棚に分類しながらそう言ういばらくんは鬱陶しそうに眉をひそめてこちらを見ようともしない。けれど、ここで諦めてなるものか。私だって帰りたいんだ。大切な家族と、仲間たちのいる家に。
「……なら、帰ったらひよりさんに『いばらくんから元に戻る薬の話を聞いた』って言いつけるよ」
いばらくんの作業の手が止まる。こちらをじろりと一瞥して、大きなため息もついた。
「それやってあなたに何かメリットあります? 薬を得る機会を失い、殿下の機嫌も損なう」
「ひよりさんに怒られたいばらくんにやーいって言える」
「あなたはそれで何か満たされるんですか?」
「……満たされは、しないけど。でも今日このまま帰ったところでいばらくんが薬をくれるわけじゃないでしょ」
「得られるものが何もない策は泥船ですよ。あまりくどいようであればこちらも殿下にあなたが反抗的だと告げてやってもいいんですからね」
ほらもう出てってください。部屋から追い出すようにいばらくんは私の肩をぐいぐいと押す。嫌だ。ここで引き下がるわけにはいかない。近くの棚にしがみついて、彼の方へ向き直す。
「なら私も最近いばらくんがやらしい目で見てくるって言う」
「……殿下がそんな戯れ言を」
「べたべた触ってくるとも言う」
いばらくんは私の肩からぱっと手を離して、黙ったまま綺麗な顔を歪ませる。
「どっちの言い分を信じるか、ひよりさんに決めてもらう?」
びたん。いばらくんの尾の先が地べたを叩いた。反射的に体が跳ねたけれど、負けじと彼を睨み返す。数秒間無言で睨み合って、先に折れたのはいばらくんの方だった。
「……一週間後、ここへ来てください」
「……それじゃあ」
「殿下にはどうかご内密に」
それだけ言うと、いばらくんはするすると部屋の奥へ戻って行った。ありがとうとかけた言葉に反応はない。まさか彼が折れるとは想定していなくて、頭がふわふわしていた。一週間後、家に帰れる。半ば諦めかけていた帰郷のチャンスは存外あっさりと訪れた。
いばらくんの作業場を出ると入口のそばにジュンくんが来ていた。あまり半魚人(?)の姿になりたがらない彼は今日も小さな蟹の姿をしている。泳ぎの下手な私よりも進むのが遅いので、彼と移動するときは彼を手のひらの上に乗せるのが常だった。
「あんまりいばらとは仲良くしない方がいいっすよぉ。気持ちはわかりますけど」
「ひよりさん怒るかなぁ?」
「いやうんまあ、それもありますけど」
ひよりさんは私の海での交流関係を厳しく制限するので、私はここで気軽に話せる相手がほとんどいなかった。私の足を奪った憎きあの薬の製作者であるいばらくんでさえ貴重な話し相手であり、ひよりさんもそれは黙認してくれていると思ったけれど。
ジュンくんは警告音のようにはさみをカチカチと鳴らして私の注意を引いた。
「単純に、いばらはめっちゃ性格悪いんで。普通に仲良くなれると思ったらダメっすからねぇ」
ジュンくんにしては珍しく険しい顔をしていたそのときの忠告の意味を、私は一週間してからようやく知ることとなる。