海の向こうまで連れていって いつからか、気が晴れないときには海に来るようになった。理由はわからない。なんとなく、海に来れば気分が楽になるような気がしたから。その日もまた落ち込んだ気持ちをどうにかしたくて、ただ一人で海辺を歩いていた。
宛てもなくふらふらと砂を踏み締める。ぴゅうと冷たい潮風が吹き付けてコートの裾をはためかせた。日中は陽射しが暖かかったけれど、夜になるとどこかへ逃げ出してしまう体温を薄手のトレンチコートで封じ込めるのは難しいようだった。辺りは暗い。遠くの電灯の明かりが辛うじてここまで届いているけれど、足元だってろくに見えなかった。スマートフォンのライトを使えば怯えずずんずん進めるのだけど、あまり目立って職質でも受けてしまうと厄介だ。
靴の中に入り込んでくる砂の感覚に知らんぷりをして足を動かす。この不快感にももう慣れてしまった。パンプスは丸洗いできる素材のものに買い換えたし、ストッキングは安物ばかり選ぶようになった。砂浜に刺さった爪先を蹴り上げるようにして一歩進む度に、悩み事にもやがかかったようにどうでも良くなるような心地がする。ずっとここでぼうっと歩いていられたらいいのにな、と思う反面、脳の何処かの一欠片だけが早く帰って休まないければと逃避を続ける私を叱りつける。
この後どうしようか。終電はとっくのとうに行ってしまった。タクシーはお金かかるもんなあ。でもタクシーなら乗ってる間に少し寝られるなあ。シャワー浴びるの面倒くさいなあ。明日の朝でいいかなあ。早起きする気なんて無いくせに、そんなことを考える。明日も早くから仕事だ。
さくり。嫌なことに蓋をするようにまた砂を踏む。一向に到達できないノルマが脳裏からぼんやりと消えていく。
さくり。歩を進める。誰にでもできるような事すらお前は何一つ満足にできないと私を叱る、上司の怒声が消えていく。
ぱしゃり。歩を進める。冷めた表情で遠巻きに私を眺める同期の顔が消えていく。
ちゃぷり。家に溜まっていくゴミ袋が、洗濯物が、洗い物が消えていく。
じゃぷん。
ひときわ大きな音を立てて、高波が胸元に打ちつけた。
「——え」
その冷たさで我に帰る。いつの間にか私はへそまで海水に浸かって、暗い海の中で立ち尽くしていた。一定のリズムで波が打ち寄せてコートを濡らし、じわじわと体温を奪っていく。
「なんで」
波打ち際に沿って砂浜を歩いていたつもりだったのに、どうしてだか海の中まで進んでしまったようだった。思わず身震いしてしまったのは、きっと海が冷たいからというだけではない。どうしてこんな。私、自分で自覚していなかっただけでもしかしたら希死念慮みたいなものがあったのかもしれない。本当に、本当にそんなつもりはなかったのに。私はきっとまだ頑張れるのに。
何もかもがひどく恐ろしく思えて、一秒でも早くこの場所から離れたくなった。こんなにも寒いのに背中にはじっとりと汗が滲んでいて暑いのか寒いのかもわからない。慌てて回れ右をして、街灯の光の並ぶ方へ向かって波を掻き分ける。
そんなとき。じゃぶじゃぶと大きな波音が立つ中で突然現れた“その声”は、耳に直接流し込まれたみたいにはっきりと私の元へ届いた。
「帰っちゃうの?」
思わず振り返った先に佇んでいたのは一人の男性のようだった。辺りが暗くて、その姿をしっかりと確認することはできなかった。雲の隙間から覗く月明かりを頼りにどうにかわかるのは、彼はこの海の中でどうやら上半身に何も纏っていないらしいことと、珊瑚礁の海みたいな鮮やかな青色の瞳だけがまるで発光でもしているみたいに明瞭に暗闇に浮かんでいることだけだ。
「……あなたは?」
目の前の青年に問いかける。青年——少年と言うべきだろうか。しなやかな筋肉に包まれた上躯は青年と表現するべきそれだけれど、瞳を大きく開いて私の顔を覗き込むその様は幼い少年のように見えた。
「ここで……何をしてるの?」
すると彼は瞳をぱちくりと瞬かせた後、花が咲くようににっこりと笑って答える。
「歌の練習だよ!」
「歌?」
歌なんて聞こえなかったけれど。思ったことをそのまま呟けば、彼はあれ? と首を傾げた。
「聞こえないんだっけ……? う〜ん……? そういうものだったっけ?」
彼は一人で納得してしまったのかうんうんと頷いたけれど、私はさっぱり要領を得ることができなかったからなんだか置いて行かれたような心地になる。けれど彼になんて問い掛ければ望む答えが返ってくるのかわからなくて、私は何も言えずにただ唇をもごもごと動かしただけだった。
「きみは? 帰っちゃうの?」
「え、う、うん」
二度目の問いかけに私はどうにか返事をした。また小さな波が私たちの体にぶつかってぱしゃんと控えめな音を立てる。あなたは帰らないの、と聞き返したかったけれど、それよりも彼が次の言葉を投げかける方が早かった。
「そっか〜……。俺の歌を聴いて来てくれたんだと思ったんだけどなあ」
彼は眉を下げてわかりやすく落ち込んだ顔をしてみせた。彼の歌声が聞こえなかったのは本当だけれどなんだか悪いことをしてしまった気持ちになって、慌てて「ごめんなさい」と伝える。長い睫毛を伏せた憂いのある表情も様になっていたけれど、この少年にはつい先程見せてくれたような笑顔の方がよく似合うと思った。けれど彼の表情は晴れず力無く「ううん」と呟いただけだったので、私はどうしたらいいかわからなくなってしまった。こういうとき口下手だと困ってしまう。
「……私が帰ると困っちゃうの?」
お客様の気付いていない悩みを探し出しなさいと、いつだったかに読んだ仕事の極意みたいな本に書いてあった一節を思い出して問いかける。でもこれがお仕事でなくたって、私はこの会ったばかりの名前も知らない少年の困りごとをどうにか解決してあげたいと本気で思ったのだ。
「俺たち、自分の歌を気に入ってくれる人ができると一人前になれるんだ。だからここでいつも練習してるんだけど……。まだ誰も来てくれたことがなくって」
彼はぽつりと語りだす。どうやら彼はパフォーマーか何かの見習いらしかった。それなら何もこんな時間こんな場所を選ばなくても、もっと大勢の前で歌えばいいのにと考えてしまう。彼の歌の腕前はわからないけれどとても綺麗な声をしているし、愛らしくもどこか神秘的な人を惹きつける顔立ちをしているのだから夕方の駅前なんかで歌えばきっと足を止めてくれる人だっていただろうに。
「それなら——」
「ねえ」
考えをそのまま伝えようとしたけれど、それは彼の言葉によって遮られてしまった。水の中から彼の両手が伸びてきて私の両手を握る。海水と同じくらいの体温は、彼がここに一人きりで過ごした長い時間を想像させた。
「きみが俺のファンになってくれない?」
「私?」
「そうだよ!」
おうむ返しをしただけの私の言葉を、彼は満面の笑みで肯定する。
「……私で、いいの?」
だって私、そもそもあなたの歌声を知らないのに。私なんかがいたところで一体どうやったらあなたの役に立てるんだろう。それは言葉にできなかったけれど、渋る私を宥めるように彼は口を開く。
「きみが時々ここに来るの、ずっと見てたよ。俺のために来てくれたんじゃなかったのかもしれないけど……。でも俺、きみが俺のことを気に入ってくれたらいいなって思ってたんだ」
ぎゅう、と手を握りこまれる。彼の言葉はあたたかくて、聞いていると頭がぼうっと惚けてしまうようだった。
「きみが俺の歌を好きになってくれたらとっても嬉しいんだけどなぁ」
「……ほんとう?」
ほんとうだよ、と彼は囁く。
もしほんとうに、私が彼のために何かできるなら。何の役にも立たない私が誰かを助けることができるなら。それはとても素敵で、私のささやかな人生で二度と有り得ないような機会ではないだろうか。
「——いいよ」
そう一言呟くと、それだけで胸のあたりがすうっと軽くなる。
「私にできることがあるなら何だってするよ」
私にあなたのお手伝いをさせて。
そう伝えれば、彼は瞳をきらきらと光らせて勢いよく私に抱き付いた。
「ありがと〜っ!! きみのこと、絶対大事にするよ!」
スーツ越しに触れる体温はひどく冷え切っていると思っていたけれど、それは私と同じくらいの温度だった。きつく縛った髪の表面を指の腹で撫でられるのが心地よくて頭がふわふわする。私は彼から貰ったものを同じように返してあげたいと思って、彼の頭を抱き返した。
その抱擁はほんの数秒だったような気もするし、何時間もずっとそうしていた気もする。彼の方からその腕を解いたので、名残惜しくも私も腕を下ろした。
「着いてきて!」
彼は私の手を引いて、月の昇る水平線へ向かって進み出す。雲はいつの間にか流れていて歪んだ丸が海面に映し出されていた。ちゃぷちゃぷと海の揺れる音が、どうしてだか子守唄のように耳に心地よい。
ふと、彼がこちらを振り返る。月の光に照らされた彼の濡れた髪は、星屑を散りばめたように夜闇の中で輝いていた。小さな雫を乗せた長い睫毛がそっと下がって、穏やかな微笑を形作る。その背後に浮かぶ満月は彼を照らすために用意されたスポットライトみたいだった。握られた手にきゅっと力が込められたから、同じように握り返す。身体をを包み込む海も手を握る彼の体温もとてもあたたかくて、揺籠のような心地よさに私はゆっくりと目を閉じた。