デイドリームこれまで彼と過ごした日々は夢みたいだった。両親がいた時のことなんて覚えてはいない。でももしもそんな彼らと時を過ごせていたなら、きっとあの時みたいに暖かくて、安心できるような時間だったんだ。
バルカンはそんなことを思いながらため息をついて涙で濡れた枕に顔を埋めた。
一週間後、ニキータはルーチアに帰ってしまうらしい。
バルカンはずっと知らなかった。ニキータがわざわざルーチアという別の国からエウロパのギルドに就職しにきた理由を。帰ってしまうと知らされた今になって、ようやくその理由を知ったのだ。
なんて情けないんだろう。なんでこれまで彼のことを知ろうとしなかったんだろう。
理由を教えてくれなかった彼ではない。知ろうとしなかった自分に腹が立ったし、純粋に悲しかった。
ただ、永遠に続くと思ってしまっていた。優しい父親のような彼にちょっかいを出して叱られたり、色々と世話を焼いてもらったり。そんなぬるま湯のような日々が続くだなんて、夢みたいなことを当たり前だと思ってしまっていた。
写真の一つでも撮っておけばよかったなあ、とか、もっと話でもしておけばよかったなあ、とか、後悔ばかりが募ってしまう。
別れは出会いの始まりだと誰かが言った。でも世間ではそう言われていても実際別れに瀕している今はそんな悠長な事を考えている心の余裕など生まれない。
別れは寂しいものだ。まるでこの世の終わりのような気分になってくる。
ずっとこのままだったら良かったのに。また夢みたいなことを思っていると、ドアをノックする音がした。
「俺〜ニキータやよ。バルちゃん急にいなくなっちゃったから心配になったから見にきたんよ〜。おる?」
誰のせいで悲しくなったと思ってるんだろう。ストレスを理不尽にぶつけたくなりながら彼女は鼻を啜り、乱暴に涙を腕で拭いながらドアを開けた。
「何?」
ニキータがいつものように、飄々とした風体で立っている。
彼はビスティの割には身長が低い。バルカンと同じくらいしかない身の丈で、どことなくぼんやりとした目つきをしている。優しそうな外見と同じように、温和で誠実な人柄だ。だから好きになった。いつでも会いたくなった。
だけど今ほど会いたくない時は初めてだけど。
「なんや、バルちゃん泣いとるんか。俺がいなくなるから?」
「……からかいにきたの?」
いらだちを募らせながらむくれる。ニキータは相変わらず温和な顔を崩さない。
「からかいに来たわけやないよ。心配になってもうたんよ。ほら、来週ギルド辞めてルーチア帰るっつったら急に黙り込んじゃうしどっかいっちゃったから、なんか変なこと言ったかなって」
だから、そういうところだって言ってんじゃん。と怒鳴りたくなるのを抑える。抑えた代わりにその激情は、暴力となって現れた。
彼の胸ぐらを掴んで部屋に引っ張り込む。
ちょっと、と慌てる彼を押し倒すと両手で首を掴む。少し手に力を入れたら締め上げるどころか首の骨を折ってしまいそうだった。
力を加えそうになるのを堪える。怯えた顔のニキータを見下ろしてようやく彼女は口を開いた。
「なんで、なんで言ってくれなかったの。バルが嫌いになったの」
ニキータは何も言えないようだった。口を戦慄かせて、怯えた顔で、恐怖に喉が凍ってしまったかのようだ。
「ニキータがいなくなるなんて嫌だよ。1人になるのは嫌だよ。メル先輩もみんな好きだよ、だけど本当に好きなのはニキータだけなんだもん」
本当は言いたいことはたくさんあった。しかしバルカンの口からは、彼への告白かと紛うような言葉ばかりが溢れた。
ついでに止まっていた涙まで溢れてくる。
ニキータはしばらく黙っていた。しかしふと自分の首を掴んでいた彼女の震える手を掴んで、優しく押し退ける。
そして俯いて涙を流している彼女の体を抱きしめた。
ニキータは分かっていた。いつも元気な彼女が、親の愛というものに飢えている事を。
バルカンの言葉は、ニキータへの思慕の感情で満ち溢れている。だからこそ彼は、抱きしめる事しかできなかった。
「堪忍なあ。俺ちょっと無神経やったね。そんなに好きやったんやな。堪忍な、堪忍な。ついこの間決まってな、色々あって言うのが遅れたんよ。バルちゃんの事は大好きなんよ、誓ってもええ」
泣きじゃくるまだ小さい背中をさすりながら謝る。
バルカンは「うん、うん」と頷き、次第に落ち着きを取り戻していった。
「ほな、落ち着いた?」
ようやく泣き止んだバルカンは、ベッドに座って俯いていた。落ち着きを取り戻し、泣き止んだとしても彼が帰っていなくなるという現実は重すぎていまだに受け止めきれずにいるようだった。
「……ずっとエウロパにいてもいいじゃん。メル先輩とかさ、ニキータと仲良いじゃん。こっちの方が楽しいよ。色々あるし」
むくれながらバルカンがぶつぶつ言う。
「まあ、たしかにメルさんとかバルちゃんとおるのは楽しいな。正直ルーチアはここよりは田舎で寒いし、辛いこともある。でも、俺の故郷はルーチアなんよ。あっちにやり残してきた事がたくさんあってな、それをやらなきゃいけん。分かってくれるか、俺たちには役割があって、みんなそれをやり遂げなきゃいけん」
「そんなのいいよ。役割なんていいよ」
「バルちゃんもいつかは分かる。役割が大事でそう簡単に投げ出せる事やぁないって」
ニキータの顔が真剣で、バルカンは顔を逸らす。
そうだ。役割は誰にでもある。それはニキータが常々言っている事だった。
役割と立場。その二つを背負い、自分たちは生きているのだと。
だからこそ自分に彼の役割を投げ出させることなどできないと、バルカンは内心分かっていた。
目を逸らしてしまったバルカンの頭を、ふ、と笑って彼はそっと撫でた。
「それにな、エウロパとルーチアは結構近い。直行便があるからな。お金貯めたらおいで。向こうに着いたら手紙も出す。だから、そんな顔せんで笑って送ってほしいんよ。俺からのわがまま、聞いてくれるか?」
寂しい。悲しい。つらい。いなくならないでほしい。
弱虫のような言葉が溢れそうになる。しかしこれ以上駄々をこねようとどうにもならない。
彼女は決意を固める。
「わかった。ニキータ、いつかバル、めっちゃ強くなって会いに行く。だからそれまで待ってて。約束して。バルが会いにきたらまた抱きしめてくれるって」
指切りしよ。と彼女は小指を差し出す。
ニキータは笑みを浮かべてその小指に、自分の小指を絡ませる。
「約束しような。俺も忘れんから」
数週間後、ルーチアについたニキータから手紙が届いた。
近況報告と親しい人の近況を尋ねる言葉が綴られ、「ではまた会いましょう」で結ばれた手紙をバルカンは大事に机の引き出しに仕舞ったのだった。