prank communication寒さも本格的になって久しい真冬の夜長。
都内某所に建つマンションの一室。
暖房の効いた暖かい部屋の中でソファに凭れながら、桜河こはくは台本を読み耽っていた。
読んでいるのはつい先日、結成が決まったばかりのシャッフルユニット『La Mort』が出演する映画の台本だ。
こはくはその選抜オーディションに見事受かり、初めて従来のユニットとは異なるメンバーでシャッフルユニットを組むことになった。
一通り台本に目を通し終わると、こはくは心の裡で小さく呟いた。
──アイドルの仕事っちいうんは、ほんま、いろんな種類があるんやなあ。
これまでこはくが主に受けてきた仕事はライブや歌番組で歌って踊ったり、バラエティ番組で仲間たちと和気藹々と喋って場を沸かせるといったものばかりで、演技についてはまったくの未経験、ド素人だった。
自分一人で取り組む仕事というわけでもないし、そこまで気負う必要がないことはもちろん理解している。
そもそもメンバー内の演技未経験者はこはくだけでない。確か『ALKALOID』の礼瀬マヨイも未経験だったはずだ。
逆に他のメンバーは『UNDEAD』の朔間零を筆頭に、ドラマや舞台などの演技経験が豊富な者ばかりで実に頼り甲斐がある。
それでもこはくは自分が未知の環境下でどこまで実力を出しきれるのか、少しの不安を拭い去れないでいた。
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ひとまず撮影が始まるまでは日常的に貰った台本を読み込み、自身の役を深く知ることから始めよう。
自分一人でも精一杯、出来ることをしよう──
そう決めたこはくはふと思い立ち、台本を手に今いるマンション──『Double Face』が隠れ家にしている──を訪れた。
寮の自室で読んでもよかったのだが、どうせならより集中出来る環境で台本と向き合おうと思ったのだ。
それにこはくの相方である三毛縞斑が在宅しているならば、こはくのシャッフルユニット選抜決定を報告がてら、少し話を聞いてみたかった。
なにせ斑は企画の発動した初期段階で、既にシャッフルユニットに選抜されている。
つまりはこはくよりもシャッフルユニットの実情に詳しいはずだ。
あわよくば経験者として、何か実入りになる話を聞かせてくれるかもしれない。
そんな淡い期待を抱いてマンションを訪れたこはくを、斑はにこやかに出迎えた。
これがつい先程のことである。
ちなみにこはくが部屋を訪れたとき、斑は『MaM』の練習着姿でリビングの床にうつ伏せて長い脚を伸ばし、片手だけを床に付けてゆっくりとその腕と脚を上下させる──所謂腕立て伏せをしていた。
思わずなにしとん? と尋ねれば、
『おや、こはくさん。何って見てわからないかあ? 筋トレだなあ』
額にうっすら汗を流しながらも、余裕たっぷりの笑顔でこはくを見上げた斑は事も無げに言った。
『いや、それはわかるんやけど……』
なんでいきなり筋トレやねん。
こはくのごく当然な疑問に、斑は腕立て伏せを続けながら答える。
『いやあ、こないだ久々にサークルで紅郞さんと手合わせしたんだが、体が鈍っていると実感してなあ。なんだかんだシャッフルでの本気の勝負の再戦も出来ていないし、一から鍛え直そうかと思ってるんだ』
特に意図したわけではないだろう斑の口から出たシャッフルという言葉に後押しされ、こはくはここに来た用件を話した。
斑は腕立て伏せの動きを止めず黙ってこはくの話を聞いていたが、やがてすっかり聞き終えると少し困ったような顔をこちらに向けた。
『せっかく俺を頼ってくれたのはうれしいんだが……たぶん俺の経験談はあまり参考にならないと思うぞお』
どういうことや、と視線で問えば、斑は自身が参加したシャッフルユニット企画の概要を語ってくれた。
斑の参加したシャッフル企画は、『CROSSFIRE 』という総合格闘技番組を盛り上げる仕事で、その内容は番組のPRキャラクターからラウンドボーイ、テーマ曲の歌唱とそのお披露目ライブというようなある意味で幅の広いものだった。
確かにこはくの参加するシャッフルユニットとは概要も雰囲気も何もかもが違う。
番組のPRキャラクターとはいっても別人を演じるような芝居をするわけではなく、アイドル本人として仕事をするわけだから、こはくの求めるような演技に関する助言は貰えそうもなかった。
『まあPRソングのMV撮影時にちらっと演技の真似事らしいこともしたんだが……あれは台詞なしの簡単な即興劇みたいなものだったしなあ』
斑はあからさまに肩を落とすこはくに申し訳なさそうに眉を下げながらも、そもそもシャッフルユニットという企画の性質上、他のアイドルたちが参加した別の企画も参考にならないケースのほうが多いだろう、と述べた。
『シャッフル企画はこはくさんが参加する『La Mort』のように映画や演劇が媒体のときもあれば、そうでない場合もある。それぞれの企画の独立性が高く、個性もカラーも異なる。それに俺の参加した『舞闘会』はなんだかんだ旧知の仲間ばかりの集まりだったからなあ。こはくさんが心配しているようなまったく未知数のメンバーと上手くやっていけるかどうか、という懸念材料もあまりなかったんだ』
『……ふぅん……まあええわ。別にぬしはんの話を聞くためだけに来たんとちゃうし』
がっかりはしたが斑の話を聞くほうはついでで、こはくの真の目的は台本の読み込みのほうにあった。
こはくが台本を掲げてみせると、斑は表情をいつもの食えない笑顔に変えて、
『勤倹力行! こはくさんは努力家だなあ! それにその切り替えの早さは武器になるぞお! 俺はここで筋トレを続けるから、君も好きに過ごすといい』
そう言い置いて黙ってしまった斑におん、と短く返事をし、こはくも台本の読み込みに入ったのだった。
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──あれから一時間くらいは経っただろうか。
こはくが台本から顔を上げた今も、斑はひたすら筋トレを続けていた。
まるで同じ室内にこはくがいることなど忘れてしまったかのような熱中ぶりだった。
そういえばこはくと寮で同室の漣ジュンが斑と同じシャッフルユニットに参加していて、斑と何かしら因縁があったという鬼龍紅郞との模擬試合についてあれぞ男の闘い! と目を輝かせながら語っていたことがあった気がする。
当時はまだ斑とも接点がなくてさほど興味が沸かず気にしていなかったが、斑が再戦のためここまで真剣に己の研鑽に励むということは鬼龍紅郞という男はきっと大した実力者なのだろう。
そう結論付けてから、なんとなく胸中にもやもやした感情が去来していることに気づき、思いきり顔を顰める。
台本を読み込んで世界観や登場人物に理解を深める試みのはずが、余所事に集中力を乱されるとは情けない──
こはくの葛藤を余所に斑は相変わらず腕立て伏せを続けている。
逆恨みだと自覚しながらもひとの気も知らんと、とその背中を恨めしげに見つめていたこはくは不意に思いついた企みを実行するために台本をソファの片隅にそっと置いた。
「……んん? こはくさん、どうし……うわっ!?」
不自然でない程度に気配を殺して斑に近づくと、その無防備な背中にストンと腰を下ろす。急にかかった負荷にさすがの斑も体勢を崩しかけたが、床に崩れ伏すまではいかなかった。
「ちょっ、急に危ないぞお!? 俺じゃなかったら怪我をしていたかもしれない!」
「……コッコッコ、集中力切れてしもたから筋トレのお手伝いじゃ。第一ぬしはんならわしの体重ぶんの負荷くらい耐えられるやろ?」
体の下から叱責が飛んでくるが、表情が見えないためいつもの迫力を感じない。
大成功した悪戯のおかげでこはくの溜飲は一時下がった。
──が、次の瞬間、視界が反転し、先程まで尻の下に敷いていたはずの男の顔を見上げていた。
「……ママに悪戯を仕掛けるなんて悪い子だなあ? こはくさん」
──悪い子にはお仕置きしないと、だ。
先程までの虚空を見つめ一心不乱に体を動かしていた男のギラギラした眼差しを一身に受けて、こはくの喉がごくりと上下する。
斑が噛みつくようなくちづけを仕掛けるのと、ほぼ同時にこはくの中で蟠っていたもやもやは跡形もなく霧散した。