無数にあって、たったひとつ.
愛はどのようなかたちを象るか。
それは言葉や態度あるいはセックス、金や宝飾品、それとも違う何かかも。それこそ千差万別十人十色、人それぞれのかたちがあるのだろう。多分。虎次郎にとって他人のそれには特に関心もなかった。
ただ、自分なら。
自分だったらどのようなかたちになるだろうか。と、目の前で呆けている男を見て思う。
虚無の表情で我が家の天井を見つめているのは、絶賛作品構想中のAI書道家桜屋敷薫先生だった。
長く付き合いのあるクライアント、御年七十六歳。近く愛してやまない九つ下の妻との金婚式を迎えるという。その際に彼女へ贈る書を、というのが依頼内容だった。いくら歳を重ねても可憐に映る妻に似合いで、年上男の矜持と照れを押さえつつ、何より愛の伝わる作品。どのような言葉を選びそれを如何に墨に乗せてカーラに演出させるのか。考えることは山とあり、けれど先生はどうにも煮詰まっているらしい。
店の定休日、虎次郎が遅めの朝食を終えた頃に「環境を変えさせろ」と薫は自宅へ押しかけてきた。数冊の本とノートPC、それからカーラを伴って。朝食の名残を片した(もちろん虎次郎が)ダイニングテーブルでPCを開きカーラに何事か言いつけて、自分はひたすらあっちの本を開き、こっちの本を捲り……を繰り返して数時間。ポツポツと仕事内容を虎次郎に話しながらも書道家先生は手も目も動いていたが、今やすっかり放心してボケっと天井を見ている。
潮時だな。虎次郎は立ち上がった。時刻は午後一時を回ろうとしている。
「メシ食えよ。何がいい?」
天井を向く薫の視界に映る位置に立って問いかける。暫しの沈黙ののち、薄い色の瞳が焦点を自分に合わせたのが分かった。
「あぁ」とか「ンん」とか唸った後に、吊り糸が切れた人形みたくぱったりとテーブルに突っ伏してしまう。尚も待っていると、くぐもった声が聞こえた。
「カルボナーラ……」
答えを溜めたわりに、結局は好物に行きついたらしい。
「いつものやつな」
「ちがう。お前の渾身のカルボナーラ……」
「なんだそれ」
笑って、でも、虎次郎は「わかったよ、渾身な」とテーブルに突っ伏す頭をぽんぽんと励ましてやった。卵は昨日買ってきたばかりだし、冷蔵庫にはちょっと良いグアンチャーレもある。ご希望は叶えてやれそうだった。
そうして出来上がったひと皿をサーブしようと調理台からダイニングを振り返る。背中しか窺えないが、薫は猛然となにやらタイピングしていた。調理中に、机上を片す音や気配があったはずだがまたPCだけ引っ張り出してきたらしい。こちらが察していたのと同じに、あちらも調理音やにおいで出来上がりには気付くだろうに。
だから、虎次郎はだまって手にした皿をテーブルの空いたところに置いた。フォークも添えて。
できたての方が旨いとか、休憩はちゃんと取れとか、言えることはいくらもある。そしてそんなこと、薫だって百も承知だ。だから虎次郎はただだまってカルボナーラを出すだけでよかった。
調理器具を水に浸けて、調理前と同じ位置に座る。流水音や椅子を引く音は集中を乱しはしなかったようで、薫の指は一定に動いていた。
皿から上がる湯気がまだ豊かなうちに、タイピングの手は止まった。PCを開いたまま横に避けて、真正面にカルボナーラを持ってくる。手を合わせ、いそいそとフォークを手にする。もちもちに茹で上げた中太のパスタとスパイスの効いたグアンチャーレ、たっぷりの濃厚なソース。全てを絡めて頬張る一連。顎と頬がよく動いて咀嚼して、表情が明らかにゆるむ。
細い顎のわりに容量の大きな咥内は食べるのに忙しいらしく、言葉はない。ただ、ゆるんだ表情のまましっかり噛み、じっくり味わう。
愛されているなぁ。
飲み込んで、すぐさま次のひとくちに取り掛かる様子を眺めて思う。食事のリクエストも、いくらでも行く所などあるだろうに煮詰まると虎次郎の家に来るのも、くだらない喧嘩もいちいち憶えてもいない憎まれ口の応酬も反対によくよく憶えているチラホラとした睦言、日々のさまざま、かたちを伴ったり伴わなかったりする、ふたりの間のすべて。そのすべての根っこのところにお互いへの愛情があるのだと虎次郎は理解していた。
食べ終われば、薫はまた仕事に戻る。クライアントの求める作品を模索して。九つ下の、五十年連れ添った妻に贈る、感謝と愛のかたち。五十年連れ添うとはどのような心地だろうか。道半ばの自分たちには想像がつかない。ただ、五十年も共にある相手など、きっとお互いくらいのものだろうとも思う。
愛はどのようなかたちを象るか。
それは言葉や態度あるいはセックス、金や宝飾品、それとも違う何かかも。正解はなく、人によって答えは無数にある。
虎次郎ひとりの身の内であってもそう。ただ、どれほど無数にあったとして向かう先はひとり。だまって出したカルボナーラが、黙々と平らげられてゆく。このやりとりひとつをとっても。
だからきっと、虎次郎の愛は薫のかたちを象っている。
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